あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、批判し、批判されなければならない。特に、政治権力者を批判しなければならない。(自我その355)

2020-05-19 16:05:54 | 思想
人間は、批判し、批判されなければならない。特に、政治権力者を批判しなければならない。なぜならば、人間は、欲望の動物であり、政治権力者が欲望を満たすことができる最も近い位置にいるからである。現に、日本の政治権力者も、自らの立場を利用して、すなわち、自我によって、自らの欲望を満たそうとしている。しかも、日本の政治権力者は自らの欲望を満たすことが自らの特権だと思っているのである。人間は、他者が非難しなかったり、止めなかったりすれば、欲望を満たすためにはどのようなことでも行う動物である。人間は、他者が見ていたり、他者に自分の仕業だと知られたりすると、後に、非難され、時には、刑務所送りになるので、自らの欲望を抑えるのである。しかし、人間は、自らの欲望の誕生をコントロールできないのである。なぜならば、欲望は、人間の無意識のうちに、深層心理が生み出すからである。深層心理の動きについて、ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。フランスの心理学者のラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。深層心理は、言語を使って論理的に思考して、欲望を生み出しているのである。思考の母体は、無意識という深層心理であるから、実体を明示することはできないのである。さて、19世紀のロシアの作家ドストエフスキーは、「この世に、神が存在しなければ、人間は、何をしても許される。」と言った。19世紀のドイツの哲学者ニーチェは、「神は死んだ。」と言った。欧米人は、神の視線を感じることができなくなったのである。だから、彼らは、他者が見ていなかったり、他者に自分の仕業だと知られる可能性は低かったりすると、自らの欲望のままに行動し、悪事を働くのである。しかし、日本には、神は元々存在しない。賽銭を上げれば、願い事を叶えてくれる神は神ではない。人間である。下賤な人間である。日本人は、他者が見ていなかったり、他者に自分の仕業だと知られる可能性は低かったりしても、欧米人に比べて、警戒心が強く、自らの欲望のままに行動して、悪事を働くということが少ない。しかし、それは、日本人が道徳心が強いということではない。日本人は、世間体を気にするから、欧米人に比べて、自らの欲望のままに行動することが少ないのである。日本人も、世間体が気にならない所では、自らの欲望のままに行動して、悪事を働くのである。それを許す慣用句が「旅の恥はかきすて」(旅では、知っている人がいないからどんなことも恥辱にならない。)である。日本人は、ナチス以上に、中国、朝鮮において、残虐なことを行ったのである。大日本帝国の軍人たちは、中国を侵略し、十五年戦争(1931年~1945年)において、侵略した村々において、全食糧を奪い、抵抗した男性は試し斬り、若しくは、軍用犬に食わせ、女性は六歳の幼児から七十歳以上の老女まで全てレイプし、妊婦を殺して胎児を取り出し、無抵抗になった村人を赤ん坊や幼児や老人を含めて一カ所に集めて、銃で皆殺しにしてきたのである。この世で考えられる残虐な行為を、大日本帝国の軍人たち、いや、日本人が中国において行ってきたのである。その残虐ぶりは南京事件が有名であるが、南京事件は氷山の一角である。全ての村々において、南京事件と同様に、いや、それ以上に、残虐な殺戮を行ったのである。日本は、朝鮮を植民地として統治してきた期間(1910年~1945年)、朝鮮を日本に同化させようとし、食糧・原料供給地とし、一切の言論・集会・結社の自由を奪い、農民に飢餓輸出を強い、創氏改名させ、労働者として日本に強制連行し、若い女性を慰安婦にし、21万の青年を戦場に送っているのである。人間の欲望とは、こういうものである。この時代だけが、大日本帝国の軍人・日本人に、異常な欲望が湧いてきたのではない。いつの時代でも、人間には、異常な欲望が湧いてくる。しかし、この時代だけが、異常な欲望を持った大日本帝国軍人・日本人の行為を、大日本帝国軍人・日本人の他者が非難しなかったり、止めなかったりしなかったのである。なぜならば、この時代において、ほとんどの大日本帝国軍人・日本人が、異常な欲望を持っていたからである。しかし、正常な欲望にしろ、異常な欲望にしろ、人間は、意識して、欲望を生み出しているわけではない。つまり、人間は、表層心理で、意識して、意志して、欲望を生み出してるわけではない。深層心理が、欲望が生み出している。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、ある気分の下で、欲動という四つの欲望に基づいて、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かしているのである。「子供は正直である」という言葉がある。子供は、深層心理が生み出す自我の欲望に正直に行動しようとするという意味である。だから、子供の行動に対して、大人による注意やしつけが必要になってくるのである。それと同様に、戦前・戦中の大日本帝国の軍人・日本人の異常な欲望による行為を、大日本帝国軍人・日本人の他者が非難したり、止めたりするべきだったのに、そうしなかったのである。なぜならば、戦前・戦中において、ほとんどの大日本帝国軍人・日本人が、異常な欲望を持っていたからである。中国、朝鮮において、勝者であり、権力を持ち、異常な欲望を持った大日本帝国軍人・日本人を監視する者がいなかったことが、中国人・朝鮮人に対して、忘れることのできない、惨劇・悲劇をもたらしたのである。なぜ、自我の欲望に正直に行動することが惨劇・悲劇をもたらすのか。それは、深層心理は、快感原則に基づいて、自我の欲望を生み出しているからである。快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。つまり、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標に、思考して、自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は理性・意志で自我の欲望を抑圧するか、他者によって自我の欲望が抑圧されなければならないのである。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性によって決定した行動が意志による行動である。しかし、深層心理の生み出した感情が強ければ、理性・意志では、自我の欲望を抑圧することはできないのである。また、他者の批判が自我の欲望の抑圧に有効であるが、他者の欲望も自我の欲望と同じであれば、言うまでもなく、他者は賛成することはあれ、批判することは無いのである。理性・意志が感情に屈服し、他者の悲観の無いところでは、必ず、自我の欲望は、惨劇・悲劇をもたらすのである。さて、自我とは、何か。それは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。次に、自我を主体に立てるとは何であろうか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えるということであり、自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。深層心理が、構造体の中で、自らが快楽を得るように、自我を動かしているのである。しかし、それがかなわず、現実が苦痛としてのしかかってきた時、人間は、表層心理で、意識して、思考して、その苦痛から逃れるような方策を講ずるのである。それが、人間が、表層心理で、意識して、考えるということの意味なのである。つまり、人間が、表層心理で、意識して、考える課題は、自我が主体的に思考してもたらした課題ではなく、深層心理がもたらした課題なのである。次に、気分とは、何であろうか。気分とは、言うまでも無く、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽などの突発的に生まれる心の状態である。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、その思考の結果が意志だからである。なぜ、人間は、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すことも変えることができないのか。それは、気分は深層心理を覆っているものであり、感情は深層心理が生み出すものだからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令とともに生み出されるのである。人間は、深層心理が、常に、ある気分や感情の下にあり、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分や感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分や感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になり、行動の起点になっているのである。人間は、得意な時には、すなわち、深層心理が爽快な気分や喜ばしい・楽しい感情の時には、現在の状況を変える必要が無いから、表層心理で意識して思考する必要はないのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば良いのである。しかし、人間は、不得意な時には、すなわち、深層心理が憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の時には、現在の状況を変える必要があるから、表層心理で意識して思考する必要があるのである。これが考えるということである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。だから、人間は、深層心理が、憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の状態にあって、早く、この状態から脱却したいと思えば、表層心理で意識して思考して、深層心理に喜ばしい・楽しい感情が訪れるような行動を考え出さなければならないのである。もちろん、政治権力者の気分は、常に、高揚したものである。だから、そこから、生み出される自我の欲望も、尊大なものになるのである。特定の政治権力者を崇拝している大衆は数多いが、政治権力者は大衆を扇動し、利用するこそすれ、大衆一人一人の意向や気持ちなど考慮していないのである。そのように見せかけ、支持を集めようとしているのである。もちろん、それは、政治権力者が、表層心理で、意識して思考した結果ではなく、深層心理が思考して生み出した自我の欲望の一つである。次に、深層心理は、どのようなことを欲動して、つまり、どのようなことを欲望として発して、快楽を得ようとしている、すなわち、快感原則を満たそうとするのだろうか。欲動には四つの欲望がある。四つの欲望とは、自我の保身化、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化である。まず、欲動の第一の欲望として、自我の保身化があるが、それは、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。総理大臣や国会議員は、自我を失われないようにするためには、罪まで犯すのである。だから、国民は、常に、政治権力者に対して批判の目を向けなければならないのである。ストーカーは、カップル・夫婦という構造体が消滅し、恋人・夫(妻)という自我が失われることに困窮した者が、その自我に執着したからなるのである。ストーカーは、もちろん、罰せなければいけないが、それ以前に、愛は、いつ消えるかわからないようなはかないものであることを認識しておかなければならないのである。なぜ、愛という感情は、深層心理が生み出すから、自分の意にならないのである。感情は、全て、深層心理が生み出すから、自分の意にならないのである。次に、欲動の第二の欲望として、自我の対他化があるが、それは、自我が他者に認められようとすることである。深層心理は、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとするのである。深層心理は、常に、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探っている。深層心理は、常に、認められたい、愛されたい、信頼されたいという思いで、自我に対する他者の思いを探っている。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められること、信頼されることができれば、喜びや満足感という快楽が得られるからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。だから、政治権力者の深層心理は、常に、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、総理大臣・国会議員という自我に対する国民という他者の思いを探っている。だから、国民は、政治権力者に常に批判の目を向けて、自我の欲望による悪事を犯さないようにするべきなのである。次に、欲動の第三の欲望として、他者や物や現象という対象の対自化があるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。これが、「人は自己の欲望を対象に投影する」ということなのである。つまり、対象や他者を見るという姿勢、つまり、対象や他者を対自化するとは、自我中心の姿勢、自我主体の姿勢なのである。ニーチェは、「人間、誰しも、力への意志(権力への意志)を有している。」と言う。力への意志(権力への意志)とは、対象を征服し、同化し、いっそう強大になろうという意欲である。すなわち、徹底的なる、対象の対自化なのである。このように、深層心理は、対象を対自化して、対象を支配したいという欲望を持っている。対象の対自化とは、自我の視線、すなわち、自我の志向性で見るということである。すなわち、物に対しては、どのように利用・支配しようか考え、現象に対しては、自らの志向性(視点・観点)で把握し、他者に対しては、その人がどのような思いで何をしようとしているのかを探り、支配しようとすることなのである。しかし、他者の思いや欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自我の志向性に則って行うのである。その人の思いや欲望を、自我の志向性に則って評価するのである。志向性とは、自我が、対象を意味づけ、支配する地平である。すなわち、物に対しては、どのように利用しようか考え、現象に対しては、自らの志向性で把握し、他者に対しては、その思いや欲望が自我と同じ方向性にあるか逆にあるかを探るのである。他者の思いや欲望が自我と同じ方向性ならば味方にし、逆の方向性ならば敵にするのである。他者の思いや欲望が自我の志向性と同じような方向性にある場合、味方にするのであるが、他者のステータス(社会的な地位)が自我よりも下位ならば、自我がイニシアチブを取ろうと考え、自我よりもステータスが上位ならば、自我を他者に従わせようとするのである。また、他者の思いや欲望が自我の志向性の方向性と異なっていた場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。それの主目的は、、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。その典型が、言うまでもなく、政治権力者である。彼らの深層心理が生み出す欲望は、国民のために働こうという方向に向かわず、国民を自らの支配欲を満足するために動かそうとするのである。また、わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところに、不幸がある。」と言う。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自我の欲望のままに、行動することである。すなわち、自我の力を発揮し、他者を支配することである。他者に合わせて生きるとは、他者の評価を気にして行動することである。つまり、吉本隆明は、人間は、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、そこに人間の不幸の源泉があると言うのである。だから、思い切り楽しめず、喜べないというわけである。しかし、確かに、それは、個人としては不幸かも知れないが、他者や人類全体にとっては良いことなのである。なぜならば、深層心理の対自化による欲望を放置すれば、殺人をもいともたやすく行ってしまうからである。深層心理の対自化による欲望は、果てしなく広がるからである。作家の武田泰淳は、「人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとする。」と言う。武田泰淳は、太平洋戦争下の中国大陸で、日本の多くの軍人が、中国の民家に押し入り、食糧を強奪し、若い女性をレイプし、抵抗する庶民を射殺しているのを目の当たりにしている。彼らは、帝国軍隊という構造体の中で、帝国軍人という自我を持っている。中国大陸において、大日本帝国は軍事的に優位を保っていたから、中国人に対して、対自化するばかりで、対他化することは無かった。つまり、中国人を思い通りに支配し、中国人の視線を気にせず、暴虐の限りを尽くしたのである。上司は、それを見て見ぬふりをするどころか、彼らも同じことをしていたのである。日本の中国での国策映画のヒロインの李香蘭(山口淑子)も、「中国大陸での、日本軍人・民間人の威張り方を見れば、中国人が日本人を嫌いになるのも理解できる。」と言う。そして、中国大陸で、残虐非道の行為を繰り返した帝国軍人が、敗戦後、帰還して、素知らぬ顔で、家族という構造体の中で、父親、息子という自我を持って、平穏な生活を送るのである。確かに、人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとするのである。さて、詩人の石原吉郎は、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と語る。彼は、14年間、シベリアに抑留され、飢え、寒さ、過酷な労働、射殺の恐怖の環境に耐えて、帰国した。人間とは、常識を越えて、悪環境という構造体でも、哀れな身の上という自我でも、それに合わせて生きていけるというのである。深層心理による対自化や対他化はそこでも行われ、日常生活がそこにあり、非人間的な暮らしが人間の日常生活として繰り返されると言うのである。確かに、人間は、どんな環境にもなじんで生きていくのである。それは、金一族に支配されている北朝鮮、共産党に支配されている中国、戦前の日本を見れば、わかることである。しかし、当該者は、それになじんでいるから、環境の劣悪さがわからないのである。さらに、深層心理の対象の対自化の欲望は、この世に、実際には存在しないものを、自我の欲望によって、この世に存在させるのである。それは、無の有化であり、「人は、自己の欲望によって、心象を、存在化させる。」という言葉で表されている。これは、人間特有の物である。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こさなかったと思い込むのである。いじめっ子の親は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因を、いじめられた子やその家族にあると主張するのである。最後に、欲動の第四の欲望として、自我と他者の共感化があるが、それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。自我と他者の共感化への思いは、他者と理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいと思いで、他者に接することに現れている。自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の機能である。政治権力者は、常に、外国に敵を見つけ、それを国民と共有することによって、支持を得ようとするのである。まさしく、「呉越同舟」の現象である。さて、人間には、深層心理と表層心理が存在する。深層心理は、無意識の思考である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間は、深層心理の思考によって、動き出すが、その後、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを、意識して思考して行動する場合がある。現実原則とは、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。前者の場合、一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、人間が、意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考するまでもない、当然の行動だからである。また、表層心理で考えることがないので楽だから、日常生活が、毎日同じこと繰り返すルーティーンになりがちなのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間にも当てはまるのである。だから、政治権力者が悪行を重ねても、罷免されることが少ないのである。後者の場合、広義の理性の思考である。人間は、表層心理での思考のままに行動すると、意志による行動となる。しかし、人間は、表層心理で思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出せば、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、人間の表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。人間は、現実原則に基づいて、表層心理で思考して、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で拒否する結論を出し、意志によって、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。だから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、自ら意識して、深層心理が生み出した行動の指令の抑圧しようと思っても、深層心理が生み出した感情が強ければどうすることもできず、そのまま実行するしかないのである。政治権力者は、深層心理が生み出す自我(総理大臣や国会議員)の欲望と、表層心理で、総理大臣や国会議員という自我を保身しようという欲望に揺れ動いて行動する。政治権力者にとって、国民は、自我の欲望を満たすために、そして、自我を保身するために存在する。