あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自己として強く生きるためには(自我から自己へ17)

2023-04-06 12:55:25 | 思想
人間は、自我にこだわってぃる限り、強く生きられない。自我にこだわって生きてぃる限り、常に、不安が伴うからである。人間は、自己として生きなければ、強く生きられない。また、自我の欲望に動かされ生きている限り、自らが生きているとは言えない。快楽に動かされているだけである。人間は、自己として生きない限り、自分が生きている充実感は得られない。それでは、自我、自我の欲望、そして、自己とは何か。自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。例えば、高校という構造体で、制服が乱れているという理由で、生徒指導課の教師に、生徒指導室で、正座させられた生徒は、理不尽だと思いながら、高校生という自我を失うのを恐れて、正座する。そして、翌日も高校に行く。会社という構造体で、書類不備を理由に、「役に立たないやつだ」と罵られた会社員は、言い過ぎだと思いながらも、会社員という自我を失うのを恐れて、「すみません」と言って頭を下げる。そして、翌日も会社へ行く。なぜ、高校生は抵抗しないばかりか翌日も高校という構造体に行き、会社員は抵抗しないばかりか翌日も会社という構造体に行くのか。それは、現在の高校生、会社員という自我が消滅すれば、別の高校・会社という新しい構造体に所属して新しい高校背・会社員という自我を獲得しなければならないが、その構造体の所属にもその自我の獲得にも、何の保証も無く、不安だからである。しかし、意識せずとも、人間は、常に、構造体に応じて、異なった自我を所有して行動しているのである。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。だから、一つの構造体、一つの自我ににこだわる必要はないのである。。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているが、異なった構造体には異なった自我を所有しているから、「あなたは何ですか。」と尋ねられると、その時の構造体の自我を答えるのである。つまり、自我が固定していないのである。すなわち、自分とは、肉体だけが固定していて、精神はその時の自我なのである。例えば、ある人は、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、銀行という構造体に所属している時は行員という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、同窓会という構造体に所属している時は同級生という自我を所有して行動している。だから、息子や娘が彼のことを父だと思っているが、彼は父だけでなく、夫、行員、客、乗客、都民、同級生人という自我をも所有しているのである。彼は、家族という構造体では父という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。もちろん、息子や娘は彼の父以外の自我を知らず、全体像がわからないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。また、人間は、自らのことを、自分と表現するが、自分そのものは存在せず、自我が存在するのである。自分は、自我があって、初めて、形となって存在するのである。自分は、他者や他人が存在する時に、自我として存在するのである。人間は、他者や他人の存在を意識した時に、自らを自分として意識するが、それは自我なのである。他者とは、同じ構造体の中の人々である。他人とは、別の構造体の中での人々である。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対して持つ自我としての意識でしか無いのである。先の例で言えば、もしも、高校生が自己として生きていれば、生徒指導課の教師に「なぜ正座しなければいけないんですか」と抗議して、正座しないだろう。もしも、会社員が自己として生きていれば、課長に「言い過ぎです」と抗議して、頭を下げないだろう。すなわち、人間は、自己として生きなければ、強く生きられないのである。強く生きるためには、自我から脱却し、自己として生きなければならないのである。自己として生きることができれば、誰でも、強く生きられるのである。しかし、それには、覚悟が必要である。自我を捨て、自己になる覚悟である。自己として強く生きるには、自我を捨てる覚悟が無ければならないのである。すなわち、自己主張が他者に理解されないことを覚悟しなければならない。自己主張が他者から激しく非難されることを覚悟しなければならない。孤立無援になっても、正義を貫くことを覚悟しなければならない。構造体から追放され、自我が奪われることを覚悟しなければならない。これらの覚悟が無ければ、自己として強く生きることはできないのである。つまり、自我の欲望から脱却して、すなわち、自我を脱構築して、自己にならななければ、人間は強く生きられないのである。しかし、人間が、自我から脱却して、自己として生きることは容易ではない。なぜならば、深層心理が、自我を主体にして、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているからである。人間は自らが主体になっているのではなく、深層心理が自我を主体にしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。だから、人間は、自らの意志では、深層心理の活動に干渉できず、深層心理が思考して自我の欲望を生み出すことを抑えることができないのである。なぜならば、意志とは、表層心理での思考による行動方針だからである。表層心理とは、人間の有意識の精神活動である。すなわち、表層心理での思考とは、人間の自らを意識しての思考である。だから、人間は、表層心理の意志では、深層心理の活動を抑えることができず、自我の欲望の誕生には口出しできないのである。しかも、深層心理は、欲動に基づいて思考しているのである。欲動が、深層心理に内在して、深層心理を動かしているのである。それは、自我が欲動に応じた行動をしたり、自我の状態が欲動に応じたものになれば、深層心理が、すなわち、人間が快楽を得られるからである。欲動とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。官僚の深層心理は、保身欲に基づいて思考して、自我の欲望を生み出して、安倍晋三元首相のために、彼らに書類を改ざんさせたのである。若い女性のの深層心理は、承認欲に基づいて思考して、自我の欲望を生み出して、スタイルをよくするために、彼女に無理なダイエットさせることがあるのである。プーチン大統領の深層心理は、支配欲に基づいて思考して、自我の欲望を生み出して、ロシア兵をウクライナに侵攻させたのである。生徒の深層心理は、共感欲に基づいて思考して、自我の欲望を生み出して、仲間と共に一人の生徒をいじめるようにさせるのである。人間は、自己にならなければ、自我の欲望を、自らの価値観に基づいて自信をもって判断できないのである。さて、深層心理が、自我を主体にして、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているが、自我の欲望とは、感情と行動の指令が一体化したものである。深層心理が生み出した感情が動力となって、深層心理が生み出した行動の指令通りに人間を動かそうとするのである。人間の最も強い感情は怒りである。だから、人間は、怒りに駆られて、異常な行動を起こすのである。人間の人間たる所以は、深層心理の思考によって生み出された自我の欲望によって動かされていることである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動であるから、一般に、深層心理の思考は無意識と呼ばれている。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考されているということを意味する。すなわち、ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、自我を主体にして、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理は、快楽を追い求めることが主眼なのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に動かされて人間は行動しているのである。つまり、人間は、表層心理で、自らを意識して思考することによって生み出した意志によって行動していないのである。深層心理が欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。いるが、欲動とは何か。心理学者のフロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトの言う性欲というリピドーだけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。欲動は、性欲に限定されず、四つの欲望によって成り立っているのである。深層心理に内在する欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲であり、第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲であり、第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲であり、第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。欲動の四つの欲望の中で、最も強いのは、構造体の中で自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望である保身欲である。なぜならば、人間は、自我を保身することで、深層心理が思考して自我の欲望を生み出し、行動すことができるからである。さらに、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。構造体が絶対不可欠なのは、構造体が存在しなければ、自我も存在しないからである。だから、国、都道府県、家族、学校、会社、仲間、夫婦、カップルという構造体に所属している人は、誰しも、愛国心、郷土愛、家族愛。愛校心、愛社精神、友情、夫婦愛、恋愛感情という自我愛を持っているのである。人間は、自我として存在し、自我は構造体が存在することによって成立するから、構造体を愛するのである。この構造体に対する愛が、自我の欲望を生み出し、自我に対する愛とともに、人間に快楽をもたらすとともに、人間を悲しい目に遭わせたり、過ちを犯させたりするのである。愛国心があるからこそ、他国からの自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。愛国心という自我愛があるから、オリンピックやワールドカップを楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我愛に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、自我にとらわれた人間世界には、戦争が無くなることはないのである。人間世界が自己の集団になって、初めて、戦争が無くなるのである。郷土愛という自我愛があるから、帰省すると安心感が得られるが、隣県同士が争うのである。家族愛という自我愛があるから、自宅が火事の際には親は自らの命を投げ出して子供を助けようとするが、いじめ自殺事件が起こると、いじめっ子の親は、例外なく、いじめの責任をいじめられていた子やその家族や学校に帰するのである。愛校心という自我愛があるから、同窓会を楽しむが、偏差値の低い学校を馬鹿にするのである。愛社精神という自我愛があるから、充実した毎日が送れるが、会社の不正に荷担するのである。友情という自我愛があるから、仲間といると楽しいが、いじめに加担するのである。夫婦愛や恋愛感情という自我愛は、生きている実感を持たせてくれるが、夫婦やカップルが破綻すると、ストーカーになる者も現れるのである。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。また、ほとんどの人間は、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活をしている。それは、深層心理に、超自我という、欲動の保身欲から発した、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能が存在するからである。超自我が、これまでの構造体の中でこれまでの自我を持してこれまでの暮らしを維持させようとするのである。しかし、人間、誰しも、毎日が順調ではない。馬鹿にされたりなどして、自我が傷つけられることがある。その時、深層心理は、怒りの感情とともに相手を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我をきずつけた他者をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、そのような時にも、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧の機能が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまい、他者に惨劇、自我に悲劇をもたらすのである。それが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した深層心理の心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、欲動の第二の欲であるが自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我が他者に認めてもらたいという思いで、他者が自分をどのように思っているか探ることである。承認欲が満たされると快楽が得られるのは、自我が伸張し、自我の力が認められたように思うからである。だから、深層心理は、自我が他者から認められるように若しくは認められるような状態になるように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。だから、人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。ラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。ラカンのこの言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。深層心理が、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているからである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自我の力を発揮したことを意味しているのである。だから、逆に、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。だから、その苦悩を回避しようとして、敢えて、自我の力を知らしめ、他者に自我を認めさせようとしている者も現れるのである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民に、自我の力を知らしめるためである。次に、自我によって他者・物・現象などの対象を支配したいという欲動の第三の欲望である支配欲であるが、深層心理は、対象の対自化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で、他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化による快楽は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって得られるが、対象の対自化による快楽は、自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象などの対象を支配することによって得られるのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、喜び・満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による殺戮は、国民からの承認欲を満足させるためだけでなく、国民に対する支配欲を満足させるために起こしているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快楽を得られるのである。また、欲動の第三の欲望が強まると、深層心理は、有の無化、無の有化という二つの機能を持つ。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。つまり、他者の対自化の欲望が、深層心理の思考にも力を及ぼすことがあるのである。無の有化は、「人は自己の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなくても、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。次に、自我と他者の心の交流を図りたいという欲動の第四の欲望である共感欲であるが、それは、深層心理が、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得ようとすることである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うこともある。それが、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象である。この欲望は、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の立場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、この欲望は、自我の評価を一方的に他者に委ねるという自我の対他化でもなく、他者の心を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係、相互協調の関係である。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。しかし、中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、友人と連帯感ができて仲間という構造体が形成されているという快楽を得ているとともに、一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまであるのは、構造体が壊されて自我を失った苦しさから逃れるために、そして、自分の代わりの恋人や配偶者に対する嫉妬心からである。自民党・公明党政府がオリンピック・パラリンピックにこだわったのは、国民が自国の選手やチームが活躍すると、共感欲を満足し、狂喜乱舞して、政権の支持が高まるからである。自民党・公明党政府は、中国、北朝鮮、韓国を敵視することによって、国民を煽り、「呉越同舟」の現象を作り出し、支持を得て、戦争をして相手国民を殺そうと思うまでに愛国心を高めるのである。さて、このような圧倒的な自我の欲望の支配の中で、人間は、自己を持つことは可能だろうか。誰も自らの意志で生きていない。誰も自らの意志で動いていない。恋愛も自分の意志ではなく、自我の欲望である。ストーカー行為も自らの意志、自我の欲望である。オリンピックやワールドカップで自国チーム、自国選手を応援するのも自分の意志ではなく、自我の欲望である。殺人も自らの意志ではなく、自我の欲望である。戦争も自らの意志ではなく、自我の欲望である。自殺すらも自らの意志ではなく、自我の欲望である。人間は、深層心理が思考して生み出す自我の欲望に動かされているのである。人間が自己として存在することは特異なことなのである。自己として存在するとは、自らを意識して、主体的に、自らの行動を思考して、その思考の結果を意志として、行動することである。人間の主体的な意識しての思考が理性である。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動することである。このように言うと、一見、自己として生きることは簡単なように思え、自らも容易にできるように思う。確かに、人間は、常に、表層心理で思考して、すなわち、理性によって、行動しているのならば、自己として存在していると言える。しかし、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我としての人間は、それに動かされて、行動しているのである。人間が、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、ほとんどの人は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、所属している構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。だから、ほとんどの人は、自己として存在できないのである。所属している構造体から追放され自我を失う覚悟のある人だけが自己として存在できるのである。すなわち、主体的に理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動するのである。しかし、人間は、自己として存在できず、自分が主体的に行動できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、常に、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らを意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動しているからである。だから、ほとんどの人は、主体性無く、生きているのである。しかし、それは当然のことである。なぜならば、人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていないからである。そうかと言って、誕生を拒否したのに、誕生させられたわけでもない。気が付いたら、そこに人間として存在しているのである。だから、人間は、誰しも、主体性が無く、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。つまり、人間は、自らの意志で誕生していないから、主体性が無く、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。そして、稀に、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚える人が現れるのである。自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無いことは、他の動物、植物も同じである。しかし、人間には、他の動物、植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きることも、それに気付いて疑問を覚えることも無いのである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、思考と行動は完全に一致しているのである。しかし、人間は、言葉を持っているから、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生き、稀に、それに気付いて疑問を覚える人が現れるのである。そして、主体的に生きようとし、往往にして、挫折するのである。なぜならば、誕生の意志をもって生まれていないのに、誕生してから主体性を持とうとしても、すなわち、主体的に生きようとしても、孤立するしかないからである。人間は、誰一人として、自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無くても、生きていけるのである。それは驚くべきことなのに、多くの人は疑問を抱いていない。なぜ、疑問を抱かないのか。それは、生きる意味、生きる目的を自覚していなくても、現に、生きているからである。しかし、自覚していないことは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間は、自覚していないが、生きる意味、生きる目的を有しているのである。すなわち、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識していなくても、生きていけるのである。それは、先天的に、人間には、生きる意味、生きる目的が与えられているからである。人間の先天的に与えられている生きる意味、生きる目的とは、ひたすら生き続けようとすることと自我の欲望をかなえようと生きることである。人間のひたすら生き続けようとする無意識の意志は、深層肉体によって生み出されている。人間のひたすら自我の欲望をかなえようとする無意識の意志は、深層心理によって生み出されている。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動であり、深層心理とは人間の無意識の精神の活動である。つまり、人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとし、深層心理の意志によって、自我の欲望をかなえようと生きようとするのである。深層肉体あり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。また、人間は、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりする。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。先に述べたように、深層心理は、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしている。人間は、自我の欲望をかなえようと生きているが、それはは深層心理によって生み出されているのである。なぜ、この世から、殺人や戦争が無くならないのか。それは、人間は、自己の意志で行動せず、自我の欲望によって動かされているからである。しかし、そもそも、人間に、本質的に、自分の意志は存在しないのである。平穏な日常生活も残虐な犯罪も、自我の欲望がもたらしているのである。だから、他者や他人の犯罪に対しては正義感から怒りを覚える人が同じような犯罪を行ってしまうのである。他者や他人の犯罪に対する怒りも自らが為した犯罪も自我の欲望から発されているのである。だから、自我の欲望をコントロールできない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。すなわち、自らの正義に基づく志向性で思考することなのである。自己とは、正義に基づくという志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。しかし、人間には自分そのものは存在せず、人間はさまざまな構造体に所属しさまざまな自我を持って行動しているということは、ほとんどの人は、自己としても存在していないということを意味するのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心・正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我の欲望にとらわれた自我から自らの良心・正義感に基づく自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、ほとんどの人は、自我の欲望と自らの良心・正義感が対立した場合、自我の欲望を選択するから、主体的に生きることができず、自己として生きることができないのである。なぜならば、自己として生きようとして、自らの良心・正義感に基づいて行動すれば、構造体から追放され、自我を奪われる危険性があるからである。だから、人間が生きていくということ、すなわち、自我として生きていくということは不正を重ねることなのである。人間は、誰しも、ソクラテスのような自らの思想に殉じた生き方やキリストのような自らの信仰に殉じた生き方をできないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理で、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。人間にとって、自我の欲望に支配されない唯一のあり方は自己である。自己とは、人間が表層心理で正義に基づいて思考して行動するあり方である。そ自己とは、正義に基くという志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。自己として正義に徹して生きている人は、必ず、構造体の他者から白眼視されたり、迫害されたり、構造体から追放されたりするのである。自己として正義を貫く人は、その覚悟が必要なのである。日本人の思考の元型は、現実密着の形而下の思考である。現実密着とは、自我にこだわって生きていくということであるから、脱することが必要なのである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのである。そういう意味では、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。しかし、虚構だから何をしても良いというのでは無い。そもそも、何をしても良いという思いは、深層心理の強い欲望であり、それは、現実密着型の人間の発想であり、人生を虚構だと考えている人からは生まれてこないのである。現実を虚構だと思い、虚構を生き抜いていけば良いのである。虚構だと思えばこそ、自由があるのである。自分の意志によって、現実密着の形而下の思考から距離を置き、形而下の思考を形而上の思考に変換させ、自分の思考によって、現実を編み直すことが大切なのである。そこに、自由の喜びがあるのである。

















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