あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

性加害と自我の欲望について。(提言13)

2024-01-17 13:26:02 | 思想
「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」と、中島敦の小説『山月記』で、主人公の李徴が反省の弁を述べている。まさしく、松本人志を猛獣にした性情は異常な性欲である。しかし、李徴と異なり、松本人志は反省していない。なぜ、松本人志は反省していないのか。それは、俗人だからである。人間としての向上心が無いのである。芸人世界では、自我の欲望を満たすことだけを生きる目的としているのである。また、なぜ、松本人志は自らの性情である異常な性欲に身をゆだねたのか。それは、快楽が得られるからである。週刊文春によって松本人志の性加害が暴かれた。彼に若い女性たちをだまして斡旋していたのは、今までに発表されているところでは、吉本興業の後輩芸人である小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスなどである。なぜ、松本人志が若い女性たちの肉体をもてあそんだのか。それは、支配欲を満たすためである。なぜ、松本人志が見も知らない女性をもてあそぶことを自分は許されていると思ったのか。芸人世界で君臨しているからである。周囲から天才だともてはやされ、天才の自分に抱かれた女性は幸福感に包まれるはずだと思い込んだのである。なぜ、松本人志が多くの女性をもてあそぶことができたのか。それは、後輩芸人たちが彼女たちをだまして高級ホテルに連れ込み、逃げられないようにしたからである。なぜ、後輩芸人たちはそのようなことをしたのか。それは、大衆に人気があり芸人世界で絶大な権力がある松本人志に認められることによって、芸人という自我を保持、発展させたいからである。すなわち、承認欲、保身欲からなのである。まぜ、長年の間、松本人志と後輩芸人たちは性加害を行ってきたのか。それは、同じ悪事を犯しているという連帯感からである。すなわち、共感欲を満たすことができたからである。なぜ、多くの女性は、芸人にだまされ、松本人志に抱かれてしまったのか。それは、ある人は芸能界に入りたく思い、ある人は芸能界にとどまりたかったからである。すなわち、保身欲からである。それほど、松本人志は芸人世界で絶大な権力があったのである。すなわち、支配力があったのである。しかし、松本人志に限らず、多くの人間は、快楽を求めて生きているから、露見しなければ、いかなる犯罪も行ってしまう可能性があるのである。俗人とはそういうものなのである。聖人君子はこの世では稀にしか存在しないのである。さて、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持して生きている。自我とは、人間が、構造体の中で、役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、そして、芸人世界などがある。国という構造体では、首相・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。そして、芸人世界では芸人という自我があるのである。性加害という事件を起こした時、松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、吉本興業という芸人世界の構造体に所属して、芸人という自我を持して生きていた。彼らは今でも芸人世界の構造体に所属している。もちろん、彼らは、他の構造体に所属して他の自我を持して行動することもある。例えば、国という構造体に所属して国民という自我を持し、家族という構造体に所属して父という自我を持し、コンビニという構造体に所属して客という自我を持し、夫婦という構造体に所属して夫という自我を持して行動することもあるのである。彼らは吉本興業という芸人世界の構造体に所属して、芸人という自我を持していきていたからこそ、性加害事件を起こしたのである。なぜならば、人間は常に構造体に所属して自我を持して生きているが、深層心理が、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするからである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。深層心理の思考、すなわち、無意識の思考が常に人間を動かそうとするのである。深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理に存在する。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、人間は自ら主体的に思考して行動しているのではなく、深層心理がその時その場での快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするのである。松本人志の場合、深層心理が支配欲を満たすという快楽を求めて思考して、性加害という行動の指令を生み出し、彼をを動かしたのである。後輩芸人たちの場合、深層心理は松本人志に承認されるという快楽、芸人世界にとどまるという快楽を求めて思考して、松本人志に若い女性を斡旋しろいう命令に服することを行動の指令として生み出し、彼らを動かしたのである。松本人志と後輩芸人たちが長年の間性加害を続けてきたのは同じ悪事を犯しているという連帯感から共感欲を満たすことができたからである。松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、俗人である。深層心理が思考して生み出した自我の欲望に無反省に従って行動したからである。彼らは、吉本興業という芸人世界の構造体に所属して、芸人という自我を持して生きている(生きていた)限り、俗人である(俗人だったのである)。しかし、彼らに限らず、深層心理が自我を主体に立てて思考して人間を動かそうとするのである。人間は自我の主体になっていないのである。すなわち、人間は自ら主体的に思考して行動していないのである。それでは、なぜ、人間は自我の主体になれないのか。すなわち、なぜ、人間は主体的に思考して行動できないのか。それは、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持して生きているが、その自我は構造体と他者によって与えられたものだからである。他者とは構造体内の人々である。人間は生きるということは自我として生きるということであり、自我は構造体と他者によって与えられるから、人間は構造体と他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考することはできないのである。そうすれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。構造体から追放され、自我を失う覚悟がある者だけが、主体的に思考して行動できるのである。しかし、そのような人はこの世に何人存在するだろうか。また、そもそも、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、最初から、正義に基づく主体的な思考はできず、自己として存在していないのである。表層心理とは、人間の自ららを意識しての精神活動だからである。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動したならば自我がどのような状況に陥るか、現実的な自我の利得の視点から思考して、深層心理が生み出した行動の指令に従うか拒否するかを考えることがある。拒否する結論が出たならば、自らの意志によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとするのである。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かかる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。この場合、性加害が露見する可能性が高かったならば、松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスは、表層心理で、現実原則に基づいて、松本人志が性加害を加えたならば、後に、自我がどうなるかという、他人のの評価を気にして、将来のことを考え、松本人志の性加害を抑圧しようとしただろう。他人とは構造外の人々である。しかし、性加害が行われた場所は、高級ホテルの密室であり、若い女性たちからスマホを取り上げていたので、他人に露見しないと思ったから、松本人志は、深層心理の支配欲が生み出す行動の指令のままに、彼女たちに性を強要したのである。松本人志、小沢一敬、黒瀬純、たむらけんじ、渡邊センスに限らず、人間は露見しなければ、往々にして、深層心理の欲動に基づいたその時その場での快楽を求めて思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に従って行動するのである。これが俗人のあり方である。ところが、ほとんどの人は、主体的に生きていると思っている。このような人は、深層心理が思考して自らを動かしているのに気づいていないだけなのである。また、主体的に生きていないと思っている人は、その原因は構造体や他者による妨害だと思っているのである。だから、松本人志のように、芸人世界に君臨し、吉本興業という構造体や他の芸人たちという他者の妨害を受けることがないと思った人は、深層心理が支配欲によって見も知らない女性をもてあそぶことを行動の指令として生み出し、松本人志は嬉々としてそれに従ったのである。しかし、カントは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言う。この根本法則に合致する行為が義務として私たちに妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させると言うのである。すなわち、主体的に生きることができると言うのである。また、キルケゴールは「私にとって真理であるような心理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことができるような理念を見出すこと。それこそが大切なのである。」と言う。俗人として生きるか主体的に生きるかは個人の判断によるのである。



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