あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛に取り憑かれるということについて(自我その235)

2019-10-22 17:18:29 | 思想
愛は無意識の心の動きである。つまり、深層心理の働きで起こる。だから、意志では、どうすることもできない。つまり、意志という表層心理の範疇には無い。愛は深層心理の働きで起こるから、愛に取り憑かれるという表現が為されるのである。愛に陥るという表現も同じである。さて、愛に取り憑かれた者だけが愛を叫ぶことができる。しかし、愛に取り憑かれたというだけでは、愛を得たことにならない。愛に取り憑かれたということは、愛を得る可能性を得たということでしか無い。しかし、愛に取り憑かれたということは、愛を失う可能性を得たということでもあるのである。愛を得れば幸福感に包まれ、愛を失えば苦悩に陥る。しかも、愛を得ても、いつ失うかわからない。しかし、人間は愛を求めて生きて行く。それは、人間は、無意識という、深層心理の働きによって、動かされているからである。愛に取り憑かれた人間は、愛なくしては生きていけない。愛が、その人を動かす原動力になるからである。だから、「世界の中心で愛を叫ぶ」などのような言葉が生まれてくるのである。それは、「あなたのためなら何でもする。」と言うのと同じである。愛は狂気なのである。ドイツの詩人のヘルダーリンは、夫のある女性を愛し、その女性が死に、その苦悩のために32歳の時に精神に異常をきたし、亡くなる73歳まで精神的薄明のままであった。それほどまで、愛は、人間の心を揺さぶるのである。ストーカーも、また、愛に心を動かされ、理性(表層心理による判断)を失った者である。マスコミは、ストーカーを、精神異常者のように扱っているが、ストーカーは決して精神異常者ではない。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと・二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しい。それは、相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋愛対象者としてみなさないようにできたから、ストーカーにならないだけなのである。さて、愛は、恋愛に限らない。母性愛、愛国心、友情も愛である。人間関係があるところ、そこには、必ず、愛が存在するのである。仏教は、愛を、「愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。迷いの根源。」と位置づけている。仏教が愛が否定するのは、愛に囚われた人間は冷静な判断ができなくなるからである。母親は、我が家が火事になると、その中に飛び込んでも、我が子を助けようとする。しかし、わが子が他の子をいじめていても、他者がそれを咎めると、いじめられている子に原因があると言う。母性愛の為せる業である。「日本のためなら命を惜しまない。」と言う人がいる。しかし、明治時代以来、日本が中国や朝鮮を侵略したことを咎められると、中国人や朝鮮人のせいにする。愛国心の為せる業である。仲間を大切にしている人がいる。しかし、その仲間が誰かをいじめていると、いじめられている子に恨みはなくても、いじめに加担する。友情の為せる業である。なぜ、人間は、このような悪行を犯すのか。それは、人間は、構造体内存在の自我の動物だからである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、深層心理がそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。その状態の時、深層心理に、愛が発生するのである。しかし、人間は、その構造体になじめず、自我を持ちたくない状態の時がある。その状態の時、深層心理には、愛が失われているのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、この世には、いろいろな構造体があり。それに所属するいろいろな自我がある。カップルという恋愛関係の構造体には、恋人という自我がある。家族という構造体には、父親・母親・息子・娘などという自我がある。日本という構造体には、日本人という自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもする。」と言い、相手が別れを告げても、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。家族という構造体には、母親・息子・娘という自我があり、母親に、母性愛という愛があるから、火の中に飛び込んでも子を助けようとし、いじめっ子になれば、理不尽な理由でもかばおうとするのである。日本という構造体には、日本人という自我があり、愛国心があるから、。「日本のためなら命を惜しまない。」と言う人が現れ、明治時代以来、日本が中国や朝鮮を侵略したことの責任を認めようとしないのである。ことを咎められると、中国人や朝鮮人のせいにする。仲間という構造体には、友人という自我があり、友情という愛があるから、困っている友人を助けることもあるが、友人のいじめに加担することもあるのである。このように言うと、ほとんどの人は、そこには、本当の愛(恋愛感情)によらない行為、本当の母性愛によらない行為、本当の愛国心によらない行為、真の友情にはよらない行為が混じっていると言うだろう。確かに、その指摘は正しい。後者の行為は全て悪行である。しかし、その指摘は、構造体の外にいて、第三者の立場で判断しているからできるのである。同じ構造体にいて、自分は失恋者だったならば、自分が母親であったならば、自分が日本人であったならば、自分が友人であったならば、そのような第三者の立場で物事を判断ができるだろうか。甚だ疑問である。世の中では、恋愛、母性愛、愛国心、友情が、無反省で、ほめたたえられている。これら以外にも、愛にちなんだ言葉が満ち溢れている。愛に取り憑かれて、善行を為す人もいるが、悪行を犯す人も非常に多い。しかし、恋愛、母性愛、愛国心、友情、そして、その他の愛を、仏教のようには否定することはできないだろう。なぜならば、それを否定することは、人間の感情を否定すること、人間の行動を否定することを意味するからである。つまり、人間の存在そのものを否定することになるからである。そこに、愛の難しさがある。


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