あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の基本的な欲望は、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望である。(自我再論2)

2022-04-26 15:39:59 | 思想
人間は、常に、構造体に所属して、自我となり、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて行動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。しかし、人間は、自ら意識して思考して行動していない。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理は、自我が欲動に応じた行動をすれば、快楽が得られるので、欲動によって思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かしているのである。深層心理が感情と行動の指令を一体化させて自我の欲望として生み出すのは、感情が行動の指令の動力となるからである。怒りの感情が相手を殴ることの動力となるのである。相手を殴ることによって、相手を困らせ、自分が相手よりも上位に立つという快楽を得ようとするのである。喜びの感情が歓声を上げることの動力となるのである。歓声を上げることによって、周囲に自らの自我の存在を知らしめ、快楽を得ようとするのである。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを満たせば快楽を得ることができるので、欲動に従って思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かそうとするのである。だから、人間は、欲動の四つの欲望をかなえようとして、行動しているのである。まず、欲動の第一の欲望である保身欲であるが、それは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。人間が、結婚、入学、入社を喜ぶるのは、夫(妻)、生徒、会社員という自我を確保したからである。人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫(妻)、生徒、会社員という自我の存続が絶たれ、自我を失ったたからである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を確保・存続・発展せたいという欲動の第一の欲望である自我の保身欲から来ているのである。人間が、会社などの構造体で昇進を祝福するのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる構造体に対する愛、自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのである。それは、一般に、愛国心と言われている。しかし、それも、単なる構造体に対する愛、自我愛である。また、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。プーチンは、ロシアという構造体の大統領という自我がウクライナという構造体のゼレンスキー大統領に汚されたと思ったから、ロシアという構造体に所属する兵士という自我を使って、ウクライナという構造体を攻めさせ、そこに所属する国民を殺させ、ゼレンスキー大統領を屈服させようとしたのである。だから、国という構造体存在する限り、大統領、国民という自我、愛国心という自我愛が存在するので、人類には、戦争が無くなることはないのである。また、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲が満たされているからである。次に、欲動の第二の欲望である承認欲であるが、それは、自我が他者やに認められたいという欲望である。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。深層心理は、自我が他者や他人から認められると、承認欲が満たされ、喜び・満足感という快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、自我が他者や他人から認められるような行動を考え出して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。つまり、人間は、誰しも、他者や他人が自我を認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、生きているのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者や他人に認められたいという承認欲を端的に言い表しているのである。言い換えれば、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者や他人の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者や他人の評価の虜、意向の虜なのである。学生や生徒が勉強するのは、成績を上げて、教師や同級生や親から褒められたいからである。会社員が懸命に働くのは、業績を上げて、上司や先輩や同輩に褒められたいからである。人間は、他者の評価によって自らを判断し、他者の意向を取り入れて自らの行動を判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間は、他者や他人から悪評価・低評価を受けると苦悩するのである。深層心理は、その苦悩から脱却するために、時には、自我を外に向かわせようとし、時には、自我を内に向かわせようとするのである。自我を外に向かわせるとは、悪評価・低評価をした他者や他人を攻撃することである。他者や他人によって自我が下位に貶められたから、それを上位にもっていこうとして、他者や他人を攻撃するのである。他者や他人を攻撃することによって、彼らの自我を下位におとしめ、自らが上位に立とうとするのである。自我を内に向かわせようとするには、三つの方法がある。一つ目の方法は、深層心理は、自我に我慢させ、ひたすら、苦悩が去るのを待つことである。二つ目の方法は、深層心理は、自我を鬱病などの精神疾患に陥らせ、現実が見えないようにさせ、苦悩から逃れようとするのである。しかし、そうすると、別の苦悩が訪れるのである。精神疾患の苦悩が訪れるのである。三つ目の方法は、深層心理は、自我に自殺を強いるのである。自殺させることによって、現実そのものを失わせようとするのである。次に、欲動の第三の欲望である支配欲であるが、それは、自我が他者・物・現象という対象を支配したいという欲望である。深層心理は、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。対象の支配化は、深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることなのである。つまり、深層心理が、自らの志向性で、他者・物・現象を対象として捉え、自我の下に置くことなのである。対象の支配化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」という言葉で言い表すことができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の支配化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の支配化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。深層心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を支配しようという意図から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。次に、物という対象の支配化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の支配化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望によるものである。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の支配化の欲望が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・現象という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、「人は自我の欲望を心象化する」という言葉で言い表すことができる。それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化の機能は、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするところから生まれてきたのである。最後に、欲動の第四の欲望である共感欲であるが、それは、自我が他者や他人と心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うという現象を作り出し、快楽を得ようとするのである。その現象が成立した状態が自我と他者の共感化である。深層心理は、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりして、自我を他者と共感化させるのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対象化し、イニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に支配されることを拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自我を相手に委ね、相手の意見を聞き、二人で対象化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対象化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。自民党の歴代首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めているのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。





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