住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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四国遍路行記-25

2011年06月07日 19時49分45秒 | 四国歩き遍路行記
四十八番西林寺は、聖武天皇の勅願寺。天平十三年の開創。この年は、國分寺建立の詔が出された年である。開基は行基菩薩ともいう。元は松山市小野播磨塚にある一の宮の別当寺であったが、弘法大師がこの地に寺を移し十一面観音を本尊として刻んだ。

別当とは、もとは諸大寺に置かれた一山の寺務を統括する長官職のことであった。が後に熊野や石清水、祇園、北野、白山、箱根、鶴ヶ岡、吉野など大きな神社は、どこも併設された寺院の僧侶(社僧)が別当に任命され、寺社領を統括し神主を兼務してきた。その別当職が住職する寺が別当寺ということになる。

元禄十四年再建の本堂に参り、真言宗豊山派の紋が大きく描かれたガラス越しに中を窺い、理趣経一巻。一夜の宿とさせていただいた阿弥陀堂と、その反対側に建つ大師堂でも心経一巻。そして、そのまま六時前には寺務所に御礼を述べ遍路道に戻るところで、白装束のお遍路さんに呼び止められ、白い紙に包まれたお接待をいただく。久万の大宝寺でお会いしたのだという。網代傘に錫杖、足元には脚絆、草鞋、そして藍色の衣というのは結構目立つ格好なのであろう。本当に、ありがたいことだ。

歩いてきた国道を北上する。四十九番浄土寺までは三キロ。途中左に昔の遍路道だった小道をたどる。伊予鉄道高浜横河原線の踏切を渡ると、古い家並みが続きお寺の近いことを知らせてくれた。仁王門を潜ると、目の前に石段があり、上ると国の重文である本瓦葺き寄棟造りの簡素な本堂が現れる。赤茶けた木肌が古さを感じさせる。

浄土寺は聖武天皇の娘孝謙天皇の勅願で創建され、行基菩薩作と伝える釈迦如来が本尊。八十八カ所の札所でお釈迦様を本尊にする五か寺の一つ。大師堂は本堂の右にあるが、弘法大師が訪れて霊場に定めてから末寺六十六坊を数える大寺になったという。ここ浄土寺は平安時代中期、浄土教の先駆者とも言える市聖・空也上人が滞在した寺としても知られる。

境内には空也松と呼ばれる松の切り株も残っていた。空也上人は天徳年間(九五七~六一)に滞在したとされ、出立する際に懇願されて自像を刻んだという。それがあの有名な六体の仏像を口から出している空也像(国重文)で、像高一三三㎝。現本堂に安置されている。しかし、残念ながら正面の格子戸から覗いても中の様子は見ることは出来ない。

この六体の仏像は当然のことながら「南無阿弥陀仏」の六字を象徴する。空也は、当時平将門や純友による乱が起こり騒然としていた畿内で、手に錫杖を持ち草鞋を履いて、金鼓をたたき念仏を唱え勧進して回った。そうして動揺した人々の心に弥陀念仏による救いを授けていった。鎌倉時代の爆発的な念仏の流行のお膳立てをしたのが空也であり、また天台宗の源信僧都だったのである。

その後空也は比叡山に上り、正式に僧となってから修行の場としたのがこの地だったということであろう。後に庶民ばかりか貴族からも帰依され、十一面観音を造立して京東山に六波羅蜜寺を建立している。現在の浄土寺は、境内もそう広いわけではないが、しっとりとした落ち着いた雰囲気の漂うお寺である。仁王門を入ると別世界に入ったような不思議な感覚がするのは私だけであろうか。

いくつかの団体遍路さんたちに混じり懇ろに読経して、次の札所五十番繁多寺に向かう。お寺を西に出て、いくつか温泉宿の看板を見ながら車道を北上する。新しい住宅街を左手に見て大きな池が見えてくるとその向こう側に繁多寺の境内が見えてきた。繁多寺も孝謙天皇の勅願寺。山門を入ってからしばし石畳を歩いて伽藍に向かう。石段を上がると正面に本堂。本尊は像高九十㎝ばかりの薬師如来。本瓦ののった屋根が大きくせり出していて落ち着いた雰囲気の中、ゆったりと上に掛かっている立派な字の扁額を見上げながら理趣経を唱える。

繁多寺は、浄土教の一派である時宗の開祖一遍上人が鎌倉時代に修行した寺としても知られる。浄土寺で修行した空也上人を先達と仰ぎ、三十五才で全国行脚を始めるまでの一時期、二十五歳頃この繁多寺で修行したとされる。本堂の少し手前に鐘楼があり、右に大師堂。さらに奥には弁天堂、歓喜天堂、毘沙門堂が所狭しと建っているが、全盛時はかなりの大寺院だったという。

室町時代に後小松天皇の命で京泉涌寺の僧が住持となり末寺百余りを数え、一時衰退の後、江戸時代には徳川家の帰依を受けて再興され、特に四代将軍家綱の念持仏歓喜天を祀り隆盛を極めた。歓喜天とは、聖天さんのことで、人身象頭と言い、頭が象の姿で二体が抱き合った御像が有名である。単身の場合は、左手に大根を左手には斧を持つ。財宝・和合の神とされ、商売をする人たちの中に篤信の信者が多く、大根をお供えしてお参りする。

繁多寺の境内は、今でも広く伽藍の背後には鬱蒼とした森が続く。景観樹林保護区に指定されてもいる。森と大きな池に囲まれてしばし静寂の中、英気を養い、次なる札所、道後温泉街に位置する石出寺へと向かった。

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2 コメント

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お遍路さん (いよかん)
2011-06-19 08:41:21
国分寺様
 時々ではありますが、HP拝見しています。以前、ご朱印を頂戴しお世話になりました。
 さて、国分寺様もお遍路さんをされているとのこと…小生は伊予松山の出身。母校の敷地には遍路道があり、懐かしく思いました。また、松山市内を自転車で遍路した事を思い出しました
 また、お遍路のご様子、聞かせて下さいね…ちなみに51番札所は石出寺ではなく石手寺さんです。
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いよかん様 (全雄)
2011-06-22 08:08:40
お久しぶりです。お元気そうで何よりです。

この遍路行記は、かれこれ20年ほど前に歩いて遍路したときの日記をたよりに、様々な話を織り交ぜて書いています。

松山久松家に関するホームページの充実ぶり改めて感心致します。

石手寺ですね。失礼しました。
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