
増谷文雄先生という都留文科大学の学長をされた偉い学者先生がおられました。北九州小倉のご実家は浄土真宗のお寺なのに、原始仏教を研究されて沢山の著作を残されました。その中の1冊を私も拝読したことが縁となって今があるのですが、とにかくこの先生の授業は誠に分かりやすく丁寧なものだったそうです。余りに分かりやすく話すので、あるとき学生が中学生に話すような授業は止めてくれと言ったのだそうです。それでは大学生向けに話します、と言われて始められたら、それはそれは高度な話になって、まったく学生たちには理解不能な授業をなされたのだと聞いたことがあります。
その先生がパーリ経典の、中でも最もシンプルな説法を収録した相応部の経典ばかりを翻訳した『阿含経典』(筑摩書房・初版1979年)と題した6巻のシリーズがあります。ただ相応部経典は4巻までで、5巻6巻は中部経典・長部経典となっています。それが今2巻ずつ筑摩文庫になって書店に並んでいるようです。小さな一、二頁の経典ばかりがずらずらと並んでいるのですが、改めてそれらを読み返してみるとそのどれもがとても味わい深い内容を含んでいます。そこで、それらを折に触れて少しずつ紹介してみたいと思います。
「西方の人」
まずはじめに、第3巻・聚落主相応の中の「西方の人」という経典から。これは、ナーランダーというパトナからほど近い、後にあの玄奘三蔵も学んだ大きな仏教大学が出来るところにお釈迦様が滞在されていたときのお話です。
ある村の長が訪ねてきて、「西方から来るバラモンは水に入って浄め火に仕えるのですが、人が死んだら呼び起こしてその名を呼んで天界に入らしめると言うのですが、世尊、正等覚者であられる大徳あなたも出来ますか」と尋ねます。
するとお釈迦様は逆にこう尋ねます。「もし人あって、他の人の命を取り、盗みをし、邪な快楽に耽り、嘘を言い、仲違いをさせたり乱暴な言動あり、強欲でいじわるで間違った考えを持っているとする。その人が亡くなった後、人々が来て、天界にその人が生まれますようにと祈り合掌して周りを回ったとしたら、はたして天界に、善きところに生まれうるであろうか」
村長は「そんなことはありません」と答えます。
お釈迦様は、それは大きな岩を池に投げ沈めたとして、大勢の人たちがあがってこいと、たとえ祈り讃えても浮かび上がってこないのと同じなのだと諭します。
さらに、「またある人あって、その人は他の命を取ることなく、盗みをせず、邪な快楽に耽らず、嘘偽りを言わず、両舌をもてあそばず、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉も語らず、強欲でなく、いじわるもせず、正しい考えを持っている。その人が亡くなった後、人々が来て、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生まれるようにと祈願し、礼讃し、合掌して周りを回ったなら、はたして地獄に生まれるであろうか」と尋ねます。
「そんなことはあり得ません」と村長は答えます。
それは酥油もしくは油を入れた瓶を深い湖に投じて割ったとして、瓶は破片となり湖に沈んでいくけれども、酥油や油は湖水の表面に上って来るであろう。そこに多くの人が来て酥油よ、油よ、下に沈めと祈り礼讃し合掌して周りを回っても油が湖水に沈まないのと同じなのだと、お釈迦様は諭します。
これだけの簡単な経典ですが、誰もがそれはそうだろうと思われることでしょう。ですが、私たちが、いざというときに願うのはどんなことでしょうか。自分がいざというとき、また亡くなられた人に願うのは善きところへ、天界でもなく、仏界に、仏様の世界に逝くことを願ってはいないでしょうか。仏様に願うこと、頼むことはそんなことではないでしょうか。ですが、現世で覚り得た者が死後輪廻の束縛から逃れて仏界に行くのであって、凡夫衆生は六道の中にさまよい転生を繰り返すと考えるのが仏教徒の世界観です。そのこともこの経典に見て取ることが出来ます。
そう簡単に仏界に逝けるものではない。この経典にあるように「他の命を取ることなく、盗みをせず、邪な快楽に耽らず、嘘偽り言わず、両舌をもてあそばず、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉も語らず、強欲でなく、いじわるもせず、正しい考えを持っている人」が逝ける世界が天界です。逆に言えば、ここにあるように、およそ十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)に暮らしていたら間違いないということでもあります。いざというときには善きところに逝けるということです。仏様に頼むのではなく、自らの行いによって自ら救われるのだということを教えています。
仏教とは、祈り、礼讃して、合掌してその周りを巡り歩くことよりも、その行い、正しいものの考え方、日々の暮らし、間違えのない生き方こそが大切なのだということでしょう。この経典により、仏教とは冷静に論理的に物事を捉え、合理的に発想する教えなのだということが分かります。
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その先生がパーリ経典の、中でも最もシンプルな説法を収録した相応部の経典ばかりを翻訳した『阿含経典』(筑摩書房・初版1979年)と題した6巻のシリーズがあります。ただ相応部経典は4巻までで、5巻6巻は中部経典・長部経典となっています。それが今2巻ずつ筑摩文庫になって書店に並んでいるようです。小さな一、二頁の経典ばかりがずらずらと並んでいるのですが、改めてそれらを読み返してみるとそのどれもがとても味わい深い内容を含んでいます。そこで、それらを折に触れて少しずつ紹介してみたいと思います。
「西方の人」
まずはじめに、第3巻・聚落主相応の中の「西方の人」という経典から。これは、ナーランダーというパトナからほど近い、後にあの玄奘三蔵も学んだ大きな仏教大学が出来るところにお釈迦様が滞在されていたときのお話です。
ある村の長が訪ねてきて、「西方から来るバラモンは水に入って浄め火に仕えるのですが、人が死んだら呼び起こしてその名を呼んで天界に入らしめると言うのですが、世尊、正等覚者であられる大徳あなたも出来ますか」と尋ねます。
するとお釈迦様は逆にこう尋ねます。「もし人あって、他の人の命を取り、盗みをし、邪な快楽に耽り、嘘を言い、仲違いをさせたり乱暴な言動あり、強欲でいじわるで間違った考えを持っているとする。その人が亡くなった後、人々が来て、天界にその人が生まれますようにと祈り合掌して周りを回ったとしたら、はたして天界に、善きところに生まれうるであろうか」
村長は「そんなことはありません」と答えます。
お釈迦様は、それは大きな岩を池に投げ沈めたとして、大勢の人たちがあがってこいと、たとえ祈り讃えても浮かび上がってこないのと同じなのだと諭します。
さらに、「またある人あって、その人は他の命を取ることなく、盗みをせず、邪な快楽に耽らず、嘘偽りを言わず、両舌をもてあそばず、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉も語らず、強欲でなく、いじわるもせず、正しい考えを持っている。その人が亡くなった後、人々が来て、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生まれるようにと祈願し、礼讃し、合掌して周りを回ったなら、はたして地獄に生まれるであろうか」と尋ねます。
「そんなことはあり得ません」と村長は答えます。
それは酥油もしくは油を入れた瓶を深い湖に投じて割ったとして、瓶は破片となり湖に沈んでいくけれども、酥油や油は湖水の表面に上って来るであろう。そこに多くの人が来て酥油よ、油よ、下に沈めと祈り礼讃し合掌して周りを回っても油が湖水に沈まないのと同じなのだと、お釈迦様は諭します。
これだけの簡単な経典ですが、誰もがそれはそうだろうと思われることでしょう。ですが、私たちが、いざというときに願うのはどんなことでしょうか。自分がいざというとき、また亡くなられた人に願うのは善きところへ、天界でもなく、仏界に、仏様の世界に逝くことを願ってはいないでしょうか。仏様に願うこと、頼むことはそんなことではないでしょうか。ですが、現世で覚り得た者が死後輪廻の束縛から逃れて仏界に行くのであって、凡夫衆生は六道の中にさまよい転生を繰り返すと考えるのが仏教徒の世界観です。そのこともこの経典に見て取ることが出来ます。
そう簡単に仏界に逝けるものではない。この経典にあるように「他の命を取ることなく、盗みをせず、邪な快楽に耽らず、嘘偽り言わず、両舌をもてあそばず、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉も語らず、強欲でなく、いじわるもせず、正しい考えを持っている人」が逝ける世界が天界です。逆に言えば、ここにあるように、およそ十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)に暮らしていたら間違いないということでもあります。いざというときには善きところに逝けるということです。仏様に頼むのではなく、自らの行いによって自ら救われるのだということを教えています。
仏教とは、祈り、礼讃して、合掌してその周りを巡り歩くことよりも、その行い、正しいものの考え方、日々の暮らし、間違えのない生き方こそが大切なのだということでしょう。この経典により、仏教とは冷静に論理的に物事を捉え、合理的に発想する教えなのだということが分かります。
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この中でわたしが決してやらないのは、殺人、窃盗、セックス、強欲、の4個だけかな。。
今のところ次の目標は、いじわる、をやらないようにする、ことかな。結果的に意地悪になったりすることがある。あちらたてればこちらがたたずで、どちらかに申しわけない結果になるですよ。
正しい考えというのは、なんでしょう。正しいと主張しあうことで争いが起きるでしょう。。。。この一語は困りますね。正しいって何なんでしょう。