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松長有慶先生著 『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を読んで

2020年08月23日 18時34分04秒 | 仏教書探訪
【六大新報七月二十五日号掲載】

松長有慶先生著 『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を読んで



松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第4巻『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

『声字実相義』(以下『声字義』と略す)は、『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)に、真言教学の重要聖典、即身義、吽字義とともに三部書の一つとある。従って、専修学院時代に多少の知識は得ているはずなのだが、はたしてどのような内容であったか記憶に乏しい。もとより一から学ばせていただく気持ちで本書を開いた。

そこには、凡例に続いて参考文献として、真言宗全書、智山全書、豊山全書などより、鎌倉時代から江戸時代までの学僧による十四の注釈書が掲げられ、さらには英語ドイツ語の文献を含む、近代の三十二の解説書、研究書まで一覧にある。それらは本文に【略記号】で文献を表示し該当する頁数まで記して、原漢文の読みから用語の解釈まで比較検討されており、現時点における『声字義』に関する最高レベルの研究成果をすべて注ぎ込まんとされる先生のこだわりや気迫が感じられる。

まず本編はじめに「『声字義』の全体像」が説かれる。古来インドや中国、また日本において、声や言葉がいかなる意味あるものとして受け取られてきたかを説いていかれる。そして20世紀前半にヨーロッパに起こった構造主義の哲学の根幹である言語論において、この『声字義』も実は20世紀後半には多くの研究者たちの研究対象であったことが紹介されている。

また中国思想における言語論争で注目される「名」は、『声字義』にも用いられるが、伝統的注釈者の多くが「すぐれた」という意味に受け取ってきたという。しかし、正しくは「名」とは、名づけるということ。ものを分けて明らかにしていく、ものの違いによってそれぞれを特定する、そのためにさまざまな名前や言葉が発生していくわけだが、そうして原初の世界において真実の根源から発せられるものを、私たちの現実世界において表現するために用いられた言葉を「名」というのであるという。そうした根源的な存在とかかわる言葉を、本書においては「コトバ」とカタカナ書きにして区別して先生は使われている。

そして、『声字義』の主題について触れられ、それは、私たちの眼耳鼻舌身意の感覚器官・六根に入る六境・色声香味触法、すなわち普段の生活の中で目にする物、耳にする声や音、香りや匂い、口に感じる味、身体に触れる感触、考えたり思うあらゆるもの、それは本来覚りの障害になり六塵ともいわれるものだが、その中にこそ如来が説法される声や言葉が潜んでおり、それは世俗の存在のままに絶対の真実(実相)なのだと説かれる。つまりそれこそ法身大日如来の説法なのであり、心して聞くべきものであるということであろう。

著作年代については、『声字義』中に「『即身義』の中に釈するが如し」という語が二度記述されていることから『声字義』は『即身義』以後の作品とされてきたが、先生はこれを後世の挿入とせられる。そして、『声字義』後半部分に法相や華厳教学への配慮からか自説の主張が抑えられており、また『金剛頂経』からの引用が少なく、両部経典を自在に駆使して自らの主張を巧みに説く準備が熟していなかった時代、つまり真言教学がまだ十分に社会に認知されていなかった弘仁の一桁代後半の作であろうと推定されている。

そして、本編に入るのだが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示される。【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、注釈書に斟酌した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】、【補注】を参照すれば、難解な大師の著作をいとも容易に読むことができる。

『声字義』前半では、声字実相という新しい思想を立ち上げる論拠として大日経の偈頌を説き、また内容を説くに当たり四句一頌を自作して自ら解釈して、その中の声・文字などの言葉が実相に他ならないことを述べる。後半ではやはり四句一頌を自作し、六境の代表として色・物質について生物も非生物も、いろ・かたち・うごきの三種の性質を具えていて、いのちを持ち、かつ文字として、そこにこそ諸仏が存在していることをあきらかにしていく。

ところで、中国天台智顗の著作『摩訶止観』に関する注釈書が出典とされる言葉に「草木国土悉皆成仏」がある。以前この言葉について法話するに当たり、筆者は仏とは法を説く者であり、それをたよりに人は試行錯誤しながら何ごとかを覚っていく。しかし、自然が発する音も姿も、時にこの世の法則、真理を垣間見させてくれる。そうして人に示唆し、教え、励ましを与えることがある。されば、それは仏の説法にあたるのであろう、自然そのものも法を説くものとして仏と言い得るのではないかと考え、そのように話してきた。が、これはまさに『声字義』の説く、すべての存在は声字なり、実相なりという教えそのものであったとも言えようか。かつて学んだ教えが朧気ながら筆者の頭に残っていて、意識もせずに紡ぎ出した解釈だったのかもしれない。

毎朝本堂に向かうとき、中の間に掛かる書軸を拝む。そこには「閑林に独座す草堂の暁 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人 心有り 声心雲水俱に了了たり」(性霊集補欠抄巻十)とある。先生は、本書巻頭「『声字義』の全体像」において、この詩を紹介し八行の現代詩に訳されて、『声字義』に込められた真言密教独自の哲学思想を凝縮するものとして示されている。これまで、十分にその深遠なる意味を知らずに拝してきたが、本書に学んでからは、池に落ちる水の音、鳥のさえずり、風に吹かれて起こる木々のざわめき、それらが一つに融け合う永遠なる瞬間にあることを心に留めつつ入堂している。そして、唱える読経も実相を具えた声字に他ならないと、心新たに日々勤めたいと思う。三部書の一つをここに学ぶ貴重な機会をいただきましたことに感謝申し上げます。

奥深い真言の教えの真髄を祖典に学ぶため、また日々の勤行の質を高める心構えを学ぶ一冊としても、是非、御一読をお勧めしたい。


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