住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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安芸門徒はなぜかくも大勢力となり得たか

2010年05月04日 19時25分01秒 | 様々な出来事について
安芸門徒はなぜかくも大きな勢力となったかについて、ある敬愛する先生から問われ、調べを進めていたところ、中国新聞社刊「安芸門徒」復刻版 (水原史雄著1996年8月8日刊)をお持ちの方があり、お借りして読んだ。それによると、そもそも中国地方への浄土教の先鞭をつけたのは、法然が法難(1207)に遭い、流罪になった法然の弟子浄聞が備後を配流の地にされたことだという。しかしその足取りは不明とのこと。

そして、鎌倉末期に、本願寺系ではない、仏光寺系の親鸞、真仏、源海、了海、誓海、明光と次第する法脈が備後に教線を展開した。この明光派と安芸門徒に言われる人々は、親鸞の説いた信の大切さに加え、「一流相承系図」なる系図に入信者は教化者の次に僧衣を着た姿で絵姿を書き、確かに親鸞-明光に繋がる視覚的な安心を与えることで教線を拡大していったと言われている。

ところで、安芸門徒のそもそものおおもとになった本山級のお寺は、福山と尾道の間にある沼隈町山南(さんな)の光照寺というお寺である。その南東10キロのところにあるのが鞆の浦で、ここは瀬戸内海の潮の干満の分岐路にあたり瀬戸内きっての要港であった。明光はおそらく海路で鞆の浦から上陸し山南に来て、光照寺を1320年に開基したのであろう。

しかし実際にはその孫弟子の慶円という人が自分がなした業績をその恩師の名を借りて語ったとも言われている。明光は相模の生まれで、鎌倉の事情にも精通していたであろうことを考えると、当時備後地区も後醍醐天皇側について倒幕に加勢する武将たちが多く、彼らに師から伝え聞いた知識は重宝がられたということもあったのかも知れない。そして、その時期、備後での真宗の教線が浸透していく。

そして、1337年という年に、覚信尼の子・覚慧の子である本願寺三世覚如(親鸞の曾孫)の長子存覚がこの備後に下向している。平川彰先生の『仏教通史』によると、存覚は本願寺で生まれたものの、14歳の時、奈良の興福寺、東大寺で受戒、華厳、法相を学び、東寺系の真言宗の受法、さらに叡山で、諸学を研鑽している逸材であった。21才で本願寺に戻り、父の覚如と、越前に出向き、如導に「教行信証」を教授し、仏光寺了源、錦織寺愚拙らに教義上の指導をしたと言う。その後、覚如は、存覚がなした聖道門流の法儀などに対して、在家主義の好みに合わないと存覚を義絶。

だが、覚如自身も実は、比叡山や南都で勉学した人で、倶舎論、法相宗を学んでいる。「報恩講式」や「本願寺親鸞伝絵」を著し、親鸞を本願寺聖人と位置づけ、親鸞の本廟を本願寺と称したのも、この覚如であった。

そして、存覚は、49歳の時、備後の門徒の求めに応じて備後に来る。1338年には、国府守護の前で法華宗徒との対論にのぞみ勝ったといわれている。「備前法華に安芸門徒」と言われ、備前には日蓮の孫弟子、日像の流派の人々が布教したことから、当時かなり、備中備後にもその教線が延びていた。そんなことから、真宗門徒としてはその勢力に対抗する意味でも対論にのぞまねばならなかったのであろう。

そうして、備後の門徒たちは、室町時代初期から中期に次第に尾道や世羅、三和、神石など南北に勢力を拡張していったらしい。しかし今日のような大勢力になるには、この後、本願寺系への教義変更があり、そこには、蓮如が果たした民衆の力を高揚させ、守護大名から戦国大名となっていた軍事力との拮抗した大勢力を集結させられるだけの結束力が求められていたからと考えられる。

本願寺教団は第八世蓮如が出て一気にそれまでの沈滞した体制を挽回し、近畿、北陸、東海地方を教化。特に加賀では一向一揆を指導して、富樫家を排除(1488)して、一世紀に亘り加賀一国を実効支配する。余談ではあるが、蓮如の生母は、蓮如6歳の時行方をくらまし、備後の鞆の浦に身を寄せていたとも言われるが、遂に蓮如は備後並びに安芸には下向していない。おそらく、当時備後の門徒衆は下野の専修寺系であったためではないかと思われる。

そのためか芸備には一向一揆はなく、歴史に安芸門徒の名が登場するのは毛利氏が門徒保護をうたってからである。しかし毛利氏の保護の前には、武田氏が安芸の守護として門徒を保護した。安芸武田氏は、信玄の祖の分流で、現在西本願寺広島別院である仏護寺が創建されるのがその時代のことであった。とはいえ初めには広島県安佐南区の武田山の東麓の龍原の地に仏護寺は造られ、もとは天台宗の寺で、開基は甲斐武田氏の一族だった。

しかし、第二世円誓の時早くも、本寺と十二坊すべてが真宗に改宗している。1496年4月8日円誓が読経していると、黒衣の老僧が現れて説法し数珠を交換する、その後お参りした京都の蓮蔵院の親鸞の木像が円誓自身の数珠をしていたとのことから、その不思議に感涙して蓮如に帰依し、真宗に転じたということになっている。そして、そのことから、この龍原こそが親鸞の「滅後の巡教地」と言われるが、当時既に、領民の中にかなりの真宗門徒がおり、それらの勢力に押されるか、ないしそれを利用する意図もあったのではないかという。

そして、備後の光照寺の上寺は、開山の明光の出身地である相模の最宝寺で、この最宝寺が、永正年間(1504-21)頃、光照寺も含め下寺を伴って本願寺の配下となった。1537年、光照寺は最宝寺の下から抜け、直接の本願寺直末にする運動をするが、最宝寺の反対で実現はしなかったものの実質的にはこのときから本願寺直結の待遇を与えられた。

その後、1541年安芸武田氏は、毛利元就に壊滅させられ、城主武田信重には幼子がいて、城を脱出、太田川を渡り安国寺に入って、後の安国寺恵瓊となる。そして、その城は焼失、麓にあった仏護寺も焼かれる。1552年、仏護寺三世超順は元就と会談して仏護寺の再興がなり、以前にも増して広い寺域に堂宇が再建。その後元就が勢力を拡大するに際しては、安芸の真宗寺院も参戦して軍功をたて、太田川などの海賊衆も門徒化していった。

戦国時代の武将たちは、本願寺の門徒になることによって、身の保全を計り、さらに勢力の拡張を計ろうとした。もとは一揆と争った越前朝倉氏、甲斐の武田氏、美濃の土岐氏、近江の浅氏井、六角氏、阿波の三好氏、そして、安芸の毛利氏も、本願寺門徒と結んだ。これらの大名と敵対することは本願寺とも敵対することになり、第11世顕如の呼びかけに応じて各地に一揆が起こった。

そして、一方これらの大名や一向一揆と敵対する信長は全国制覇の軍をおこし、幕府最後の将軍義昭を奉じ上洛。その二年後、石山本願寺と信長の11年に亘る激戦の幕が開く。蓮如の時代に石山坊舎としてあった拠点を十世証如が石山本願寺として広大な寺域に諸堂宇を建立し、その周りに数千種の商いの寺内町を作り今の大阪の元を作っていた。

信長は鉄砲生産随一の堺を平定すると西国の前線基地とすべく石山本願寺の明け渡しを求める。本願寺顕如はそれを拒否。1570年石山合戦が始まり、西国の門徒に向け顕如は檄文を送り「・・・各々身命顧みず忠節を・・・」と書かれたその檄文によって、各地の門徒が石山に集結した。

以後十一年間に亘り信長と石山本願寺は断続的に合戦を繰り広げるが、要害堅固な法城であった本願寺は当初紀伊の門徒雑賀鉄砲衆により信長を何度も撃退した。そのため信長はその後兵糧攻めによる包囲作戦に転じる。そして、危機に面した本願寺にこのとき大量に兵量を送り込んだのが、村上水軍、小早川水軍で、毛利の配下の者たちだった。この船団には沢山の門徒衆が乗り込んでおり、この間に毛利家臣団の門徒化、ないし、門徒の毛利家臣化が進行して、いわゆる安芸門徒の規模を拡大させた。

頼みにした信玄、謙信が相次いで死に、大砲を要した巨船七隻を大阪表に配置した信長の前に毛利水軍は屈し、石山本願寺を明け渡して、顕如は紀伊の鷺森に移った。当初安芸に本願寺を造る構想もあったようだが、毛利軍にとっては石山の砦を失って信長勢が西国に攻め寄せてくる危機感もあって、それだけの余裕が無かった。

しかしこの石山合戦の間に毛利氏に安芸門徒は一体化し、そればかりか他国の門徒たちをも安芸に吸い寄せることになり、毛利氏を頼って安芸に移住するものも多かったという。天下が信長から秀吉の世になると、顕如は秀吉と結び、大阪城下の天満に本願寺を造営する。しかしその6年後には秀吉の命で、京都の今の西本願寺の地に本願寺を移転。そして、家康の時代になると、西本願寺12世准如の兄教如の為に家康は東本願寺を建てさせ、全国の門徒や末寺の勢力を二分させた。西日本には西本願寺の勢力地となる。

広島では、関ヶ原の合戦にて西軍の総大将であった毛利輝元は敗れて広島城を追われ、防長二国に移り、関ヶ原の合戦で東軍の先鋒を勤めた福島正則が入城した。そして、治政の一つとして広島市中区寺町付近に真宗寺院を17か寺を移転させ、仏護寺を中心とする寺院統制を行った。その後西本願寺広島別院となる仏護寺であり、のちに末寺とのトラブルもあったようだが、こうして備後安芸ともに西本願寺末の真宗寺院が大勢の今日に見る真宗大国の規模はほぼ出来上がっていく。

そして、江戸中期後期には芸轍と言われる、慧雲、大瀛、僧叡など数多の学僧を輩出。慧雲は、多くの弟子を育てるかたわら、当時学問仏教に偏向していた宗学を門徒の教化に転用することを眼目とした。山間部でも講組織を結んで読経聞法を毎月行わせ、多くの一般門徒に影響を与えた。多くの弟子がそれを継承して盤石の体制を整え、今日の安芸門徒が成立しているのである。



参考文献は、前述の「安芸門徒」「仏教通史」だけである。宗門の方からすれば穴ぼこだらけの内容かも知れない。どうかご容赦いただき、出来れば開いた穴をパズルのように埋めてくださったらありがたい。

(追記)明治16年2月 本願寺派寺院 安芸 399か寺     備後 259か寺
             門徒   安芸 13万2千296戸  備後 4万5千788戸

昭和51年の中国新聞の調査によれば、広島県人の57パーセントが真宗門徒で占められるという。


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