人は生まれて来る環境を選べない。
けれど、進む道は選べると信じたい。
「もう下着が気持ち悪いから、
自分で洗いなさいよ!」
これは継母が言った言葉。
「お前が余計なことをしてくれるから、
この服がヨレて着られなくなったじゃないか!」
それは、私が洗った洗濯物を見て、
母が言った言葉。
洗濯してるとよく思い出す。
人は何かの『たが』が外れると、
自分より立場の弱いモノを叩き出す。
抗わないのをいいことに、
どんどんエスカレートして。
どうして抗わないのか、
理由は様々だが、
叩く側はそんなこと、
考えてないのか、
わかっていて、
それを盾に叩くのか。
私でいえば、
父が選んだ人だから、とか、
妹や弟にその矛先が行くのを避けたい、
とか、
世話になっているから、とか、
実の親だから、とか。
幼い頃から罵りの言葉に慣れ過ぎていて、
気づけなかった、というのもある。
けれど遠慮をすればさらに、
叩かれまくるのだと気づいて反撃すれば...
驚いたことに、
相手は驚愕の表情を浮かべる。
反撃されないと思ったか?
なぜ無抵抗で叩かれ続けているか、
理由を考えたことはあるか?
継母は死に、
母とは連絡を断ってだいぶ経つ。
今は幸せで、
やりたい放題の毎日なのだから、
思い出す必要はない。
だけど...
思い出してしまう。
もはや、苦しいとか、悲しいとか、
そんなのではないが。
今この時も、
『サンドバッグ』になっている誰かの存在はどこかにある。
「自分のことだけ考えろ」
「どんな方法でもいい、逃げ出せ」
そう、伝えたいのは罪だろうか。
叩かれない状況になって初めて、
人は考えることが出来る。
身体的暴力も同様。
「気持ち悪い」とか「汚い」とか、
「役に立たない」とか「恩知らず」とか、
それはあなたのことじゃない。
外に出れば、きっと、
それをわからせてくれる人がいるはず。
逃げることは罪じゃない。
助けを求めることも。
鎖を断ち切り、袋を破ってサラサラと...
抜け出すチャンスを。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます