ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

中国人船長拿捕・釈放事件の可否を問う。

2020-09-12 15:20:37 | 日記
旧民主党政権下の2010年、尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突する事件が起こり、中国人船長が公務執行妨害の疑いで逮捕された。当時の菅(かん)直人首相は、逮捕に対する中国側の強い反発と強硬姿勢を考慮し、逮捕した中国人船長の釈放を企てた。当時外相だった前原誠司氏がこの事実を暴露したことから、今になって10年も前のそんな事実の可否が蒸し返されている。

そこには、旧民主党の「悪夢のような」政権運営を改めて印象づけようとする、合流新党不参加組の意図が透けて見えるが、この悪意に充ちた印象操作を歓迎するのは、なにも「(仲間割れした)昔の仲間」だけではない。大阪府の吉村洋文知事(維新)は、さっそく9月8日のツイッターで、旧民主党の国政運営を批判の俎上にのせている。

尖閣沖漁船衝突問題への菅政権の対応には、大きく2つの問題がある。
1.中国政府の言いなりになったその軟弱な姿勢。
2.司法(那覇地検)の判断・決定に介入したその越権的な姿勢。

このうち、吉村知事の批判は主として第2の点に向けられている。彼はツイッターで次のように批判している。

「これは大問題じゃないか。普段、権力監視を謳うメディアや左派有識者は、これを追及しないとおかしいよ。もし、僕が大阪府警に政治的な思惑で容疑者を釈放しろなんて言ったら、関西メディアは大炎上だよ。国政では、権力者が個別の刑事事件に権力で介入するのがあり得るのか?」
(リアルライブ9月9日配信《吉村知事「これは大問題じゃないか」10年前の中国人船長釈放事件に突如言及で憶測呼ぶ》)

こういう記事を見せられると、つい一言文句を言いたくなるのが、天邪鬼爺の悪い癖である。ーーおいおい、10年前の中国人船長釈放事件は、「権力者が個別の刑事事件に権力で介入する」のとは全然違う、別の次元の話ではないのか。ついそんなふうに言いたくなってしまうのである。

そもそもの話をすれば、10年前、菅政権が中国人船長を釈放したのは、あくまでも外交上の措置としてだった。どこかの党の長期政権が自己防衛のため、内部の不正を追及する地検の捜査に介入するのとは、訳が違う。

10年前、菅政権が中国人船長を釈放せず、中国に対して強硬姿勢を貫けば、レアアースの日本への輸出に規制がかけられたり、尖閣諸島周辺で武力衝突が起こったりして、日本国民に不利益が及ぶ可能性があった。菅政権は中国人船長を釈放することによって、中国との緊張を緩和し、日本国民に不利益が及ぶのを避けようとしたのだと言えるだろう。

この事件よりさらに遡ること33年前の1977年、バングラデシュの首都ダッカで日本人のハイジャック事件が起こったことを、どれだけの人が憶えているだろうか。この時、当時の福田赳夫首相は「人命は地球よりも重い」として、犯人グループの要求をのみ、超法規的措置をとって、逮捕・収監されていた過激派の2人を釈放した。この超法規的措置をとらなければ、機内の日本人乗客の何人かはハイジャック犯によって殺害されていただろう。

こうした超法規的措置に対しては、当時法相だった福田某が、法治国家における「法の番人」としての立場から強硬に反発したそうだが、「たとえ世界が滅ぶとも、正義を行うべし」というそうした唐変木の姿勢に、私は与しない。命あっての物種である。法や組織ではなく、国民の生命、財産を守るのが、政府の役割ではないのか。

さて、菅政権の中国人船長釈放問題であるが、私は菅首相のこの措置を、福田首相の「超法規的措置」と同質のものと考える。弱腰とも思わない。だから、とりたてて批判するには及ばないと考える。これを批判しようとする人は、ヒマを持て余して、お隣の好戦的・膨張主義国家と、事を構えようとでも目論んでいるのだろうか。前原氏や吉村氏がそうだとは思いたくないけど。
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