ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

西野ジャパンと健さんの美学

2018-07-01 11:59:58 | 日記
半世紀も前のこと、私が大学生だった頃の話である。私はオールナイト上
映の映画館に足を運び、健さん主演の『網走番外地』シリーズを観るのが
好きだった。「好いよなあ〜」という思いは、老いぼれになった今、ネッ
ト経由のビデオで観ても変わらない。善良なヤクザ(?!)である健さん
が、シマをめぐって対立する悪徳ヤクザ組織の度重なる嫌がらせ、乱暴・
暴力に耐え、耐えに耐え、とうとう耐えきれなくなってドスを手に取る。
単身で、悪徳ヤクザ組織の事務所に殴り込みを掛けるのだ。いよ〜!、健
さん!!凶暴な多人数の悪徳ヤクザが相手だから、勝ち目はない。それで
も健さんは、手負いも、死も恐れず、敵のたまり場に一人で乗り込んでい
く。その心意気がなんとも言えず素晴らしいのだ。

とはいっても、ヒーローの健さんは、どの作品でも殺されることはなく、
足腰が立たないほどの傷を負わされることもなく、乱闘シーンのあとには
めでたし、めでたしの大団円が待っている。善良なヤクザ(?!)は悪徳
ヤクザに必ず打ち勝つのだ。健さんは正義の味方の月光仮面でもある。

負ける可能性がきわめて大きい不利な状況で、それでも臆せず、あえて戦
いを挑む。その心意気の底に流れる感性を「健さんの美学」とでも名付け
るとすれば、先日の物議をかもしたサッカー戦ーーW杯での日本代表と
ポーランド代表との試合ーーは、明らかにこの「健さんの美学」に反して
いた。私がこの試合後半の無気力なパス回しを観ていて不快感をおぼえた
のは、言うまでもない。負けることを恐れ、正面から戦うことを回避して、
安全策へと逃げ込んだ西野ジャパンの姿は、日本の名折れではないか、と
私は思ったのだ。

そう思ったとき、わたしはあの若い特攻隊員たちの姿を思い浮かべてい
た。いわゆる「散華の美学」というやつである。

だが、ここで「散華の美学」を思い浮かべた私の心は、支離滅裂に近い、
我ながら奇妙に思えるものだった。この「散華の美学」に、私は肯定と否
定のアンビバレントな感情を持っている。

私の乏しい知識によれば(間違っていたらご容赦いただきたいのだが)、
日本がはじめた先の対米戦争に対して、海軍は「物資の豊富なアメリカに
勝てるわけがない。はやく止めるべきだ」と主張したとか。これに対して
大日本帝国陸軍は「負けてもいい。我々は最後の一兵まで戦う覚悟だ」と
主張して譲らなかったという。

私はこの陸軍参謀の決意を愚かだと思い、その愚かさに嫌悪感さえ感じる。
愚かな陸軍参謀に踊らされた若い特攻隊員たちが哀れでならない。
考えてみれば、この愚かさに異議を唱えたのが、日本帝国海軍の参謀たち
である。「勝ち目のない戦いは、避けるべきだ」。ーーこの判断は、しか
しサッカーの西野監督の判断とどこがどう違うのか。陸軍参謀の決意を愚
かだと思い、嫌悪感さえいだく私が、一方で、海軍参謀と同じ西野監督の
判断に不快感をおぼえるのは、いったいなぜなのか。

この私のアンビバレンツは、おそらく日本人の多くが抱いた感情だろう。
ポーランド戦の西野ジャパンが多くの日本人に不快感を抱かせたとした
ら、それは、西野ジャパンがFIFAランキング61位の「弱いチーム」だっ
たからである。西野ジャパンがもっと上位の「強いチーム」だったら、
ポーランド戦のパス回し戦法は「君子危うきに近寄らず」を地で行く「王
者の余裕を示す戦法」だとして、称賛されたかも知れない。弱者には弱者
にふさわしい戦い方というものがある。ポーランド戦の戦い方は、弱者に
ふさわしいものではなかった。それだけのことかも知れないのである。
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