ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

表現の自由か選挙妨害か

2019-07-20 11:50:36 | 日記
グーグル・ディスカバー( google discover )というのだろうか、グーグルの検索画面を開くと、ネット記事の面白いトピックがいくつも表示されるページがある。そのトピックが読みたくて、私はそれだけを目的に、このページを開くことがあるのだが、そのページに《安倍総理にヤジったら警察が飛んでくるのか》というタイトルの記事を見つけた。きのうの午後、ーーきのう本ブログの記事をアップした後のことである。

さっそくこの記事に目を通した。思った通り、私が注目したのと同じ事件を、この記事も取りあげていた。その上で「安倍政権のもと、日本は一体どのような国になったんだと、悲しくなります」とか、「表現の自由は憲法の中でも特に大切な人権だとされています。『公共の福祉』による制限も、最小限であるべきだとされています」と書いていた。

どうやらこの記事は、著名人が書いたブログ記事らしい。調べてみると、この記事の筆者は大串博志氏。旧民進党系の衆院議員で、野田内閣では総理補佐官を務めた人らしい。

私が驚いたのは、このブログ記事に114ものコメントが寄せられていたことである。そのほとんどは氏の意見を批判するもので、中には旧民主党政権時の不手際を詰(なじ)るものもいくつか見受けられた。

いわゆるネトウヨの攻撃にあって、このブログは炎上中ということなのだろう。私はコメント欄に目を通しながら、背筋が寒くなる思いだった。「コメントがたくさん付いて、いいなぁ」などと言ってはいられない。むしろ、コメントがほとんど寄せられない我が天邪鬼のブログを思い、「ああ、よかった」と胸をなでおろしたほどである。

コメントに目を通すうち、一つの問題点が私の脳裏に浮かび上がってきた。そして、私は思ったのである。この問題点は、真面目に考えなければならない深刻なものだぞ、と。この問題は、「どうせネトウヨの難癖だから」などと一蹴して済むものではない。

その問題とは、「表現の自由」の問題である。ブログ記事の筆者・大串氏は「安倍辞めろ!」とヤジを飛ばすこと、イコール(憲法で保証された)「表現の自由」の行使であるとし、警察権力を使ってヤジの主を排除することは、この自由権の侵害であると主張しているが、ほんとにそうなのだろうか。むしろそれはただの「選挙妨害」の行為に過ぎないのではないか。

「表現の自由」と「選挙妨害」とは、どう関係するのだろうか。「威力業務妨害罪」という犯罪がある。この犯罪に関する法規定についてあれこれ調べているうち、素人の私は迷路の泥沼に入り込んでしまったようで、何が何だか解らなくなってしまった。ひとつ素朴な市民感覚に立ち返り、次のケースを考えてみよう。

それは、ある政党の活動を妨害する目的で、連日、右翼が街宣車を連ね、この政党の本部へと押しかけるようなケースである。この場合、右翼の街宣活動は「公共の福祉」に反するから排除すべきだ、と考える人が圧倒的多数だと予想できるが、では、この右翼の街宣活動と、選挙演説でヤジを飛ばす行為は、どこがどう違うのだろうか。「安倍辞めろ!」とヤジを飛ばすことは、選挙演説という「業務」を、大声という「威力」で妨害することではないのかーー。

この場合は「公共の福祉」に反しない、と言う人は、アンチ自民の人たちである。アンチ自民の人たちにとっては、自民党の議席を減らすことこそが至上命題であり、それは「公共の福祉」に適うことなのである。自民党のシンパが「安倍辞めろ!」のヤジは「公共の福祉」に反する迷惑行為だ、と考えるのとは正反対である。アンチ自民の見方と、自民シンパの見方は、どこまで行ってもかみ合わない。

かくのごとく、人はどこまでも党派性を脱することができない。ヤジは「表現の自由」の行使なのか、それとも業務妨害なのかの判断にも、党派性はつきまとう。選挙をめぐる昨今の怖〜い現実は、党派間の闘争が激化していることの表れなのかも知れない。天邪鬼爺も、党派闘争に巻き込まれることを覚悟すべきなのだろう、きっと。
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