ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

60年安保とは何だったのか

2024-06-05 11:12:43 | 日記
録画しておいたNHKの番組「バタフライエフェクト安保闘争 燃え盛った政治の季節」(6月3日放送)を見た。
1950年生まれの私にとって、「60年安保」は伝説上の神話のような出来事だが、この番組を見て、この神話に対する私の印象はがらりと変わり、疑問符の「?」だけが残った。

なぜ「?」なのか。
日米安全保障条約は1951年、当時の首相・吉田茂が署名した片務条約だった。これによって日本は米軍に基地を提供する義務を負うが、米軍は日本を防衛する義務を負わない。そういう不公平な(占領状態に等しい)状態を是正すべく、当時の首相・岸信介が1960年に結んだのが、(新)安保条約だった。

この新条約の締結に対して、全国民を巻き込む激しい反対運動が巻き起こった。それが「60年安保」の政治状況である。今考えてみて、そうした反対運動が巻き起こったのはなぜだったのか?それが私には解らない。

占領状態の続行を確実なものにするための、片務的な(旧)安保条約。その不公平な状態を是正しようとする日本の統治者の努力は、なぜそれほどの(憎悪に近い)反発を国民の間に巻き起こしたのか。それが私には解らないのである。

思うに、日本中に巻き起こったこの激しい反発は、日本を敗戦の屈辱状態においた〈アメリカ〉という国に対する激しいコンプレックスのなせるわざだったのだろう。60年当時、片田舎の中学生だった私にとって、「60年安保」の闘争は、(高校生になってから読んだ)柴田翔の小説『されど我らが日々』を通して知るしかない想像上の出来事だった。

この小説『されど我らが日々』では、「60年安保」は、正義を貫こうとする「清く正しい」政治闘争として描かれ、この闘争に挫折した主人公の挫折感・敗北感が、実にロマンチックなものとして描かれていた。これまで「60年安保」は、私にとって、その最中で亡くなった樺美智子さんの死も含めて、そういうロマンチックな幻想世界の出来事だった。その甘ったるい幻想を打ち破ったのが、NHKの番組「バタフライエフェクト」だったのである。

「60年安保」に続く「政治の季節」には、さまざまな歴史的事件が引き起こされたが、私がそういう〈歴史〉と接点を持ったことが一度だけある。1968年のいわゆる「新宿騒乱」事件である。何のことだかよくわからないが、68年の秋、「国際反戦デー」の日に、新左翼の連中が新宿駅に集まって騒いでいた。

「新宿に行ってみないか」と私に声を掛けてきたのは、どこかのセクトに属していた私の友人だった。私は迷うことなく「いやあ、やめておくよ」と答えた。機動隊にこっぴどく殴られるのではないか、と恐怖心が先に立ったためである。「国際反戦デー」にちなんだお祭り騒ぎというだけで、私には、この集会へと私を駆り立てるはずの〈正義〉の正体がよく見えなかった。

「ああ、行かなくてよかった」と胸をなで下ろしたのは、それから何日かたってのことだった。700名以上もの逮捕者が出たという。新宿駅に行っていたら、私はその中の一人になっていたかもしれない。

この番組を見て、初めて知ったのは、「唐牛(かろうじ)健太郎」という人物だった。「60年安保」当時の全学連委員長。テレビの画面には、「政治の季節」が去ったあとで、北海道の漁船に乗り込み、「コック長・兼・雑役夫」として働く唐牛の姿が映された。
1984年、47歳で没。彼はこうしてひっそりと〈歴史〉の舞台からフェードアウトした。
〈歴史〉との接点を持てなかった私は、彼の寂しげな笑顔を思い浮かべながら、夜、ゆっくりとチューハイを口に運んだ。

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