「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

第十一回 サカクモ通信 「二〇三高地」

2011年12月18日 | ゆるちょ!のドラマ・レビュー!
さあ、もう一息、駆け上がるんだ!サカクモ通信

「男性大河ファン」の直感的で素直な感想」

今週の言いたいこと!
えー、また、今週も、日曜日の午後に、サカクモ通信をアップすることになってしまいましたが、
やっぱり、気合入れて書きたくなると、この日曜日の午後の時間しか、開いていないんですねー。

というわけで、今回も、先週の日曜日に放映された、「二〇三高地」の回についての感想でーす。

まあ、今回のキモは、なんと言っても、児玉が乃木から作戦指導権を譲られるか、どうか、という作劇でしょうね。

どうも、この「坂の上の雲」は、ドラマとしての完成度があまりに高い・・・映像の力があまりに素晴らしすぎて、
ついついドラマ批評ではなく、歴史批評になっちゃうところがあります。

実際、ワル者である乃木と伊地知・・・この二人について、僕は考えてみたいんですよ。

まあ、前回も書きましたが、
「乃木と伊地知はアホだったから、能力がなかったから、愚劣な作戦で余計な死者を積み上げた」
って言っちゃうと、思考停止しちゃうわけですからね。思考停止者には、絶対になりたくありませんから、そうはなりたくないわけです。

まあ、でも、この「二〇三高地」の回を見ると、あまりに児玉の作戦ブリが際立っていて・・・それが二〇三高地奪取→旅順艦隊全滅につながるわけですから、
「なぜ最初から児玉のようにやらんかったのだ?」→「乃木と伊地知は、バカだったから」
という推論が簡単に成り立っちゃう。

まあ、原作絡みの話になりますが、司馬遼太郎という人は、その著書「翔ぶが如く」においても、乃木を、
「長州生まれということだけで、偉くなった能力のない軍人」
という描き方をしています。

司馬遼太郎というひとの「目論見」というのは、当時、第二次大戦を戦い敗戦を経験した、いわゆる「戦中派」というひとが、読者層の中心を成していました。

だから、そのひと達が最も共感する作劇をすれば、たくさん儲かるわけですよ。皆が熱狂して、そのストーリーを支持してくれる。
だから、戦争を経験した人間が持っている気持ち・・・「アホがお偉いさんをやっていたから、日本は負けたんだ。俺たちが悪いわけじゃない!」
という、戦中派だれでもが持っている気持ちに寄り添って描かれたのが、「翔ぶが如く」であり、「坂の上の雲」なんですよね。

そして、そのターゲットになったのが、乃木であり、伊地知なんですよ。「翔ぶが如く」では、西郷隆盛であり、薩摩士族です。

みーんな、アホに描かれている。軍事のわからないアホ。その向こうには、日本を敗戦に追い込んだ、当時の上層部に対する批判の気持ちが込められている。

だから、皆、司馬遼太郎氏を国民的大衆作家と呼んだわけです。国民の気持ちのわかる作家・・・そのからくりは、戦中派の代表として、
戦中派の喜ぶストーリーを書いた・・・軍の上層部批判の気持ちに寄り添った、そういうことなんですよ。

しかし、今は、そういう時代ではない。
僕らは、そういう気持ちに共感しないし、そういう偏った人物像づくりは、人を見る目を誤らせたりするわけです。
だから、そこを・・・乃木と伊地知の恣意的な描き方・・・ここは、気をつけなけりゃ、いけないと思うわけです。

で、ですよ。

この回の冒頭、国内で首相をやっている桂太郎が、金山を見つけたから、軍資金については、気にしなくてよい・・・という話が前線につたわってくる。
まあ、大山巌あたりは、
「厭戦気分を回復するための桂流の落語」
という表現をしますが、これに対して児玉が、
「乃木は、笑えまい。だからだめなんじゃ。頭が固くて、戦がへたなんじゃ・・・」
こういう言葉から始まるんですね。

この物語では、というか、脚本では、
「乃木は頭が固くて固執するところがあるから・・・失敗を招いた」
という立場に立っているんですねー。

確かに、前回の乃木・児玉会談では、
「弾がない。それでも、肉弾で敵要塞に迫るのみ」
と、固い決意を表明していた乃木ですから、そこにつながっているんですよね。

そして、伊地知の作戦についても、
「敵要塞の能力が皆目わからないから、安全と思われる鉄道を根拠地として、正面攻撃」
という、一応の理由付けもやっている。

「乃木も伊地知も、アホだから、だめな人間だから」
という司馬流の解説からは、一歩も二歩も踏み出している・・・ここれがとても重要だと思いますね。


しかし、この作品を見ていると、映像の力というのは、すごいものだ・・・と素直に思います。

この作品を見ると、いかに旅順戦が困難な戦いであったかを、目視して理解することが出来る。

まあ、第三回総攻撃・・・白襷隊の悲劇なんてのは、日本人としては、きつい話ですよ。
まあ、映画の「二〇三高地」でも、悲劇的に描かれましたが・・・ある仕事のために選抜され、襷までかけさせられたら・・・あの襷に、思いが入っちゃうのが、
日本人だもんねー。
人の思いを形に表す・・・それが襷だもの・・・必死に戦っちゃうのは、当たり前で・・・それでも抜けなかったどころか、死屍累々。

でもね、この「坂の上の雲」の評価出来るところは、ロシア側にも甚大な被害が出ていることも、ちゃあんと描いているところだよね。

実際、正面は抜けなかったわけだけれど、ロシア人も、いわゆる人間として描いていて、怖がって逃げたり、死んだりしている。
それでも、白襷隊は、破れてしまうわけだけど・・・これでもか、というくらいに映像化していて、
「戦争は、やっちゃいけないよな・・・」
と素直に思えますねー。

「なぜ、人間同士、戦わなきゃいけないんだ・・・」

そういう感情が素直に湧いてくる。
そういう映像であること・・・僕は、それがあるからこそ、この「坂の上の雲」は、大成功だと思います。
後世の人間に見せても、なんら劣るところのない・・・素晴らしいドラマになったと思いますね。

しかし・・・白襷隊がボロボロになっているというのに、
「中村(白襷隊の隊長)がなんとか、してくれるじゃろ」
と、言っているのは、ちょっとねー。
もちろん、その後、白襷隊が全滅し、参謀が怒りだして・・・乃木が攻撃目標を二〇三高地に変更する話につながるわけですけどね。

この時、伊地知のセリフってのは、その後の、日本の行った戦争・・・対中戦争の愚を表現しているんですね。
「作戦目標を変えたら、今まで死んでいった人間の行いが無になりもす」
同じセリフを唱えて、戦略的撤退もせずに、ボロボロになっていた対中国戦、それと同じ構図がここにあったわけです。

だから、ここで、伊地知は救われているんですよ。
乃木が、作戦ターゲットの変更を宣言すると、何も言わずに、素直に従っている。
「作戦目標を二〇三高地に変更出来るか?」
との問に、現場の指揮官が、
「全力でやるっとなー」
と薩摩弁で返せば・・・これを待っていた、というようなニュアンスがあったよねー、これ。
それに対して、伊地知も、
「全力で、やりもす」
と、これまた、薩摩弁で、涙ぐみながら・・・薩摩人達のあうんの呼吸か・・・素直に乃木に従っている表現になっている。
脚本は、伊地知を救っているんだな。

そして、乃木についても、自分のやってきたことを否定するってのは、並大抵のことではない、という表現になっている。

これも救っているんです。ひとりの人間として、描いているんだな。

大体さー、参謀総長の児玉が、東郷と会った時に、
「陸軍は二〇三高地を落とすためだけに、動くわけにはいかない。旅順要塞そのものをまず落とす」
ってなこと言ってたじゃん。つまり、参謀総長の命令を乃木・伊地知は、粛々と遂行していたに過ぎないんだよね。
実際、児玉だって、旅順要塞を落とせたかどうかはわからないわけで・・・というか、どんな作戦を用いても、あの軍備では、落とせなかったんじゃない?

二〇三高地にターゲットを絞ったからこそ、あの軍備で落とせたんじゃないの?

であれば、旅順要塞陥落にこだわった、総参謀長にこそ、軍備の強弱を見抜けなかった責任があるんじゃないの?

現場で実際に戦ったからこそ、
「今の軍備では、旅順要塞は落とせない。だから、二〇三高地だけは、落とす!」
と、集中と選択を実施した、乃木にこそ、英断があった、功があったと、考えるべきではないんだろうか?

児玉総参謀長は、選択と集中先を、旅順要塞そのものに置いた。
まず、これが、間違いだったんだ。
そして、現場で戦ううちに、その愚を知り、ターゲットを二〇三高地に変えた。過去の自分のやり方を否定し、恥をかくことを知りながら、
その責任をとった乃木にこそ、功があると考えるべきでは、ないんでしょうかね?

最後の兵力となった、北海道の第七師団も、18000名いた兵員が1000名にまで、減る・・・。

児玉は、その状況を見て、自分で責任を取るために、旅順に赴いたんじゃありませんか?実際のところは。
だって、児玉の最初の見立てが悪かったから、その泥を乃木がかぶったんでしょ?

だから、児玉は、乃木が被った汚名を濯ぐためにも、責任をとって、作戦の責任者になることを欲したんじゃないですかね?

まあ、この脚本では、児玉は、出来ない子・乃木から、指揮権をもらって、鮮やかに二〇三高地を落としていますけどねー。

僕はあの児玉の手腕・・・あれは、追い詰められたからこそ、やれた作戦だ、と思っているわけです。
味方の死すら厭わず、援護射撃を実施・・・国家の存亡がかかっているからこそ、日本人だからこそ、
「この国のため、死んでくれ」
そういう思いは、当時戦っていたすべての兵に通じると考えたから、児玉は、そういう危険な最後の賭けに出れたんだと思います。

「もう、あとはない」
あれは、背水の陣の戦い方ですよ。
そして、そこまで、徹底できたからこそ、選択と集中が生きた・・・そう思っていますねー。

僕は、児玉というひとの人生を調べたことがあるんですけど、このひとは、ここで表現されている豪放磊落な児玉・・・そういうイメージではないんです。僕は。
彼は、いろいろな情報をあたってみると、常に冷静で、行動的で、頭のくるくる回るタイプ・・・そういうひとって、いますよね。実際。
そういうタイプに見えるんですねー。

だから、具体的に物事を考えることの出来る、そういう人間だと思います。

だから、自分の失敗に気づき、すぐに動いた・・・それが真実だったんじゃないですかね?

しかし、ドラマの話に戻りますが、あの村上連隊の、40名での二〇三高地占領のシーン、すごいですよね。
あの、死の緊張感に耐えようとする40名の兵の表情・・・そして、醸しだす緊張感・・・これを見ただけでも、素晴らしいドラマだと思いますねー。

さて、自分の間違いに気づいた児玉は、第三軍司令部に乗り込んでくるわけですけれど、まあ、伊地知とのやり取りはいいとして、
乃木と二人きりになった時に、
「すまん。旅順要塞を落とすために必要な兵力の見積もりができとらんかった」
と謝っているんですね。これ、上で書いたことの裏書になっていますね。

だから、児玉は、乃木の労をねぎらい、総参謀長としての、自分の責任をとりにきたんです。

さて、ここで、司馬作品ファンとしては、ニヤリとする場面があります。
乃木が、
「西南戦争では、陛下から預かった、大事な隊旗を奪われた・・・俺は死を覚悟したが、お前に、その命預かっておく、と言われた」
ということを言うわけです。
「翔ぶが如く」
ファンなら、乃木が隊旗を奪われる話も出てくるし、児玉は、熊本城に籠城していたことも知っている。

それを利用して、ちょっとしたエピソードを、創ることで、これは、司馬作品ファンへのプレゼントですよねー。


まあ、かくて、児玉に指揮権が移り、作戦変更が行われ・・・っていうか、杓子定規の参謀がいかに多いことか・・・ってこれ、

「知識からの知しか使えない人間は、モノを誤る。経験からの知を使える人間こそ、大局を看破し、モノゴトを動かせる人間だ」

っつーことでしょ?

これは、ごく当然のことなんだよねー。

実際、現実に僕の周りに普通にあることだからね。

これは、昔も今も変わらない、ということでしょうねー。


しかし、「龍馬伝」の坂崎紫瀾さんにして「江」の真田幸村さんが、第三軍の参謀にいましたが、このひと、NHK率高いよねー。

ま、「坂の上の雲」自体、大河ドラマ参加者の祭りみたいなところがあるから、そういうもんなんでしょうねー。


さて、かくて二〇三高地は、落ち、旅順艦隊は、殲滅されるわけですが、最後に乃木は、詩人だった、ということについて触れたいと思います。

詩人というのは、他の誰より、モノゴトの見える人間がなれるものです。

そして、誰よりも繊細だからこそ、いろいろなものを感じることが出来る。


そういう人間が、何万という将兵を殺す作戦を遂行する・・・これはある意味地獄です。

誰よりも繊細に感じてしまうからこそ、その身は・・・。


僕は、この経験がのちの、殉死につながったんだと思います。

詩人が体験した地獄の日々・・・そして、何万もの将兵を殺した人間として死に場所を探していた・・・その彼に理由を与えたのが、明治天皇の死だったんでしょうね。


さて、二〇三高地は、落ち・・・戦いのフェイズは、海軍とバルチック艦隊、その後の、ロシア陸軍VS日本陸軍・・・秋山支隊の戦いに移っていきます。

あと、2回・・・この、日本の大物語を、世界最高の映像力を持つ、NHKの映像として見られる喜びを噛み締めながら、次回を待ちたいと思います。


って、あと30分あまりなんだけどね(笑)。


やっと書けた・・・。


以上



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