「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

片山右京さんについて

2009年12月22日 | アホな自分
この話については、触れるべきなのか、どうかと考えました。

非常にデリケートな内容ですし、一ブロガーとして、扱うには内容が

繊細過ぎ、大きすぎの感じもあります。


でも、同じサイクリストとして、日頃から好感を感じていた片山さんでしたから、

ここは、亡くなった方への追悼の意味もこめて、記事を投稿したいと思います。


片山右京さんのニュースについては、既報通り、非常に悲劇的な結果を迎えて

しまいました。


片山さんは、何事にも前向きで、それこそ、F1レーサー時代の異名「カミカゼ右京」

の名の如く、山登りにも、自転車にも熱く対応してきた姿が印象的な方です。

何事に対しても、紳士的で前向きな印象でした。登山に対しての想いも深く、

それに対する知識や経験もシビアに身につけている印象でした。


彼を映像で見るようになったのは、F1参戦以来です。当時は、なかなか成績を

あげられない、一匹狼のようなイメージがありました。カーブになると、筋力不足で、

首が上下に動いてしまうことが多くて、「首振り右京」等とあだなをつけられて

いましたが、それでも一定の成績を残したことで、「UKYO」の名は、欧州にも

確実に残されていきました。今年のイタリア一周自転車レース「ジロ・デ・イタリア」を

氏が観戦に行った際、レース主催者から大歓迎を受け、選手同様にレース前のサイン・ショーに

引張りだされ、多くの観客から喝采を受けていたシーンを思い出します。


自転車に打ち込むあまり、一日に何百キロも走る超人的なトレーニングもこなし、

他のサイクリストから、あきれられる一面も持っていました。

それでも、物事に控えめな性格と好きな物事にはどん慾な姿勢は、ある種、天真爛漫な性格とも

あいまって、魅力的な人格として、周囲から愛されていることが、映像から察せられたものです。

同じ趣味を愛する人間として、「非常に魅力的なひとだなあ」、と感心しながら、映像を眺めて

いたものです。非常に前向きで、自転車を趣味にするひとは、「自動車並に、

信号を守りましょう」、というTシャツをつくり、そういう運動を自ら推進している方

でもありました。自転車を気軽な乗り物ととらえ、ちょっとした歩行者感覚で、

走ることをやめようとするものでした。初心者や意識の低いライダーが陥りやすい現象で、

今、自転車界でも問題になっている話で、それに正面から取り組んでいるところを見て、

非常に繊細で、真面目な方だな、という印象を持っています。何事に対してもポジティブな方で、

彼になら、「安心して、ついていける」、という印象もありました。


自分がサイクリストだからか、自転車レース関連の映像で御目に掛かることが多かったので、

あまり登山の面から見たことはなかったのですが、何かの番組で、

「登山を始めたことで、人生が変わった」というコメントを見たことがあります。

それだけ、氏にとっては、「登山」に対する想いが強かったのでしょう。

そういう意味では、今回の件は、あまりに氏の気持ちが伝わり過ぎて、

正直、心が痛いです。


普段、ニュースを見るとき、「もし、自分がそうなったら」という視点でモノを考えるように

していますが、今回程、その状況を想像することが、つらい話もありませんでした。


自分の計画のために、自分を慕い、自分の会社に入社してくれた登山のスペシャリスト達。

普段から目的を共にし、何度もつらい状況を耐えぬいてきた戦友とも言える友を、

その戦場で亡くしてしまった状況は、男にとって、悲痛以外なにものでもありません。

自分を「ある高み」へ導こうとしてくれた戦友を己の判断ミスで亡くしたことは、

彼の人生にとって、どれほどの痛みになるのか。どれほどつらいことか。


いや、一生をかけても、償えるものでは、ないように思えます。

氏が、それをすでに理解していることが、映像から垣間見え、

それほどの傷を負った、氏の姿を見るにつけ、感情的につらいです。



自分ら、サイクリストは、楽しくて気持ちのいい時間を過ごす一方で、

非常に怖い瞬間に出会うことも多々あります。

自動者運転者のちょっとしたミスで、簡単に命を奪われるからです。

自動車を運転する人間には、いろいろなひとがいます。

しっかり規則を守るひと、守らないひと。周りをしっかり確認できているひと、

確認できていないひと。車に乗ると急に自分がつよくなったと錯覚し、

ひどい運転態度になるひと。これは、日頃、気がちいさくて、きょろきょろしている

ひとに多いような気がします。そして、年齢的に、周りも見えないし、

ルールも守れないひと、という存在もあります。


そういう人たちは、自分の存在をおびやかす、我々のようなサイクリストを

目の敵にし、「ちゃらちゃら走ってんじゃねーよ」と悪態をつきながら、

車で威嚇したり、妨害行為をしたり、します。そう、車道は戦場なのです。


自分の存在をおびやかす人間を敵としてとらえ、攻撃を加える、無思慮な

人間達。車道はそういう場所です。自分が生きることに精一杯で、

他人は敵と考える意識の低いひと達。それらによって、サイクリスト達は、

脅され、辱められ、屈辱的な想いをもつことも多々あります。


もちろん、自分も自動車を運転する立場でもあります。

ですから、自動車を運転する立場から見たサイクリストについても、

批判的な気持ちを持っています。信号を守らず、赤信号での歩行者の意識で、

ふらふらと渡ってしまう意識の低いサイクリスト達。仲がよくて、

楽しいのか、2台で横並びになり、自動車の走行をさまたげる、

自分本位だけのサイクリスト達。そんなサイクリストを見れば、

誰だって頭にきます。だから、自動車運転者ばかり、責められないのです。


我々、サイクリストは、そういう戦場では、弱者です。

ほんの一瞬の自動車運転者の「ついうっかり」で命を落とします。

自分ももう何回もそんな「ついうっかり」で命を落としかけています。


後ろの安全も確認せずに、突然開けられた左ドア。目の前で開けられたので、

スピードも落とせず、そこに突っ込み全治3週間の重症。

左後を確認せず左折した車に巻き込まれ、全治1ヶ月の重症。そのときは、

頭部から血を吹き出し、救急車が来るまで意識がありませんでした。

あと、小さいものは数限りなくあります。


そういう事故を起こしておきながら、多くの人間は、その自分の起こした

結果というものについて、理解しない人間がいかに多いか、ということにも、

改めて驚いています。自己責任から逃れるための必死のいいわけ、

ミスを相手におしつけ、自らは何の反省もしない、大人たち。

そういうだめな大人達や、理解力のない、理解しようともしないお年寄り達、

そういうひどいひと達をたくさん見てきました。


それらの傷を受けているうちに悟ったのは、「人間は信用してはいけない、

たやすく、過ちをおかす存在なのだ」、ということでした。


それこそ、ある意味運命みたいなモノを感じるんです。

運命に支配され、目の前にいる、この人間は、自分の前に現れ、

自分を殺しかけたのだと。


そして、それは、ある意味自然現象なのだ、とさえ、感じています。

当然なのだ。運命だから、当然の帰結なのだ、と。


人間は、自然の一部です。自然が我々サイクリストに恐怖を与えて

いるんです。だから、我々は怖い思いをし、怪我をするのだ、と。

そうでも思わなきゃ、「やってられん」という想いがあるのです。

そういう想いが、我が身についた、数々の傷から、

連想させられるのです。


だから、戦々恐々としながらも、六感を研ぎ澄まし、戦場で、自転車に

乗っているのです。「あ、こいつの運転やばい」と気づけば、先にいかせます。

「なんか、変な車がくるな?」、と六感がささやけば、あえて止まってやり過ごします。


自然現象ですから、自己責任において、とにかく、危険は回避する。


ある意味、戦場に出れば出るほど、六感は研ぎ澄まされ、危険回避能力は

シビアにしごかれていきます。楽しいだけの自転車ではないのです。

楽しさと恐怖は、「紙一重」、なのです。


そういうサイクリストの立場からいえば、

右京さんの危険回避のセンサーが働かなかったことが、悔やんでなりません。

いや、そうではない。それは見方を間違っている。

そんな簡単なものではない、それを超える状況だった、と見ることこそ、正解でしょう。

優秀なサイクリストである、右京さんは、そういう危険回避センサーを

シビアに身につけているはずですから。


「自然は、こわい」と月並みなコメントに終始する以外ありません。


そして、右京さんのその、哀しみがいかばかりか・・・。

同じサイクリストとして、亡くなった御友人お二人の冥福を祈るしか、

今、自分にできることはありません。


そのために、この文章を書きました。


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