「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

鎌倉幕府を作ったのは源頼朝だけど、その幕府体制を守ったのは妻の北条政子さん!(女傑!)

2014年08月13日 | 夜の日本学


一人の髪の毛の長い背の高い細身の女性が机に座り、ノートパソコンを叩いています。

彼女の名はレイカ(31)・・・とある雑誌の取材記者です。

「えー、それでは、タケルさん、夜の日本学「先人考察(女性編)」・・・お願いします。今日は誰について語ってくれるんですか?」

と、レイカはノートパソコンを叩きながら、赤縁のメガネを手で直し、こちらを見つめます。

「うん。そうだな・・・月曜日に源頼朝さんを見たから・・・ここはやはり「尼将軍・・・北条政子」さんを見ていこう」

と、タケルは話し始めます・・・。


さて、今日の「夜の日本学」はじまり、はじまりー・・・・。


「北条政子さんは、源実朝が暗殺された時、絶望から「子供達の中でただ一人残った右大臣殿(源実朝)を失い、これでもう終りだと思いました」」

「「尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか、淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐しているんだよね」

「まあ、本音だったろうね、それが・・・」

と、タケルは言葉にする。

「北条政子は旦那である源頼朝の死に出会い、長男である頼家は暗殺され、次男である実朝も暗殺され・・・その前に長女である大姫も病死し」

「次女の三幡も病死しています。大姫の死は、元々、木曽義仲の長男であった義高を大姫の婚約者としたのに・・・木曽義仲の死後、これを暗殺したからで」

「北条政子の子供達は次女の三幡以外・・・政治の犠牲になって、死んでいったんですね・・・」

と、レイカ。

「女性としては・・・北条政子にすれば、やりきれなかったと思います・・・」

と、レイカ。

「確かにそうだね。でも、源頼朝の直系の男子達は・・・それぞれ将軍という立場に就き・・・権力を振るったのだから、その政治に失敗すれば」

「殺されるのは、お約束・・・特に頼朝が死んでからは、正解と言うモノが無くなってしまったんだから・・・北条政子が指導したにもかかわらず」

「頼家や実朝は、その言葉を聞かなかったところが暗殺のきっかけになっているんだよね・・・」

と、タケル。

「民や部下の言葉を聞かなくなった権力者は、この日本においては、暗殺されてしまう・・・この日本のお約束ですね」

と、レイカ。

「そうだ。特に鎌倉幕府は日本に初めて出来た武家政権だったから、当人達も何が正解で何が不正解なのか、理解していないところがあったと思う」

「それこそ雲を掴むような話だ・・・その中で確かなのは将軍職の存在・・・その将軍に源頼朝の急死が直接の原因になって、18歳と言う若さで源頼家が」

「将軍になってしまったのが、そもそも運の尽きだったんだ・・・」

と、タケル。

「当時、源頼家は、たった3ヶ月で、訴訟の裁断権が取り上げられ、有力御家人13人の合議制へと移行していますね」

「それだけ、頼家の裁断はむちゃくちゃだったんでしょうか?」

と、レイカ。

「ま、当たり前だろうね。生まれた時から次の将軍家と目され・・・ちやほやされてきた不肖の二代目だよ。初代はいろいろ辛酸もなめて」

「人間が出来てくるから使い物になるわけで、生まれた時からちやほやされた二代目なんぞ、しかも、18歳の若者なんぞ、使い物になるわけがない」

「ま、要は「俺偉い病」なんだから、自分勝手に決っているじゃない・・・この日本において最もやっちゃいけない行為だ」

「・・・特に将軍家だったら、なおさらだ。将軍家は「和を以て貴しとなす」が出来なければ、役に立たないからね・・・」

と、タケル。

「確かにそうですね・・・頼家はその後、鎌倉の御家人達の反発に遭い・・・1199年、二代目の鎌倉殿になってから、4年後の1203年」

「鎌倉殿の地位を追われ、千幡(後の実朝)がこれに代わっています。この時、頼家は「自分の子、一幡を三代目の鎌倉殿にして・・・」との計画を北条政子に聞かれ」

「それが元で、北条時政に先手を打たれ、一幡は殺され、自身も伊豆修善寺に押し込められる事になるんですね」

と、レイカ。

「そ。それを実行したのは、母である北条政子その人なんだ・・・鎌倉幕府体制を守るためには息子でさえも・・・北条政子は完全にやり手政治家だったんだな・・・」

と、タケル。

「頼家はその後1204年7月18日何者かの手によって暗殺されています・・・もちろん、鎌倉幕府体制を守る誰かの手によって」

「それを北条政子も黙認したのでしょうね・・・」

と、レイカ。

「ああ・・・母であっても政治家になってしまえば、修羅の道を歩むことになるんだなあ・・・」

と、タケル。

「そして、その後、源実朝が将軍家となり、三代目の鎌倉殿になりますが・・・実朝も周囲の意見を聞かない将軍だったんですね」

「御家人の利益と相反する、公家との融和策を取り・・・これもある意味、御家人側から浮き上がってしまうことになるんですね、実朝は」

と、レイカ。

「その度に、尼御台である北条政子は、実朝に苦情を申し立てたようだけど・・・鎌倉殿になってしまった実朝は自分のやる事に口出すな的に」

「頑なになってしまう・・・彼は渡唐を夢見て、その為の船も作らせるんだけど・・・結局、その船は海に引き出せず、そのまま、砂浜の上で朽ち果てたんだ」

「まるで、現実感の無い夢の中をただ生きていた実朝そのものの将来を暗示した風景にも思えるね・・・」

と、タケル。

「実際、その造船失敗の話は、1217年4月17日の話なんですが・・・この時、実朝25歳なんです・・・25歳にして、この分別の無さは異常とも言うべき」

「状況でしょう?あまりに現実を知らないと言うか・・・で、結局、1219年1月27日・・・鶴ヶ岡八幡宮にで、甥の公暁によって暗殺されてしまうわけです」

「享年、満26歳・・・実朝は、精神的に幼過ぎたと言えるでしょうか・・・」

と、レイカ。

「この間、北条政子は、それこそ、影になり、日向になりながら、子供達の政治の様子をチェックしているんだよね」

「実際、公暁を実朝の猶子にさせたのも、実は北条政子の指導なんだよね・・・それが完全に裏目に出たカタチ・・・やるせなかったろうね、北条政子は」

と、タケル。

「ここまで、実は触れませんでしたが・・・鎌倉では北条家を出し抜いて、自分たちが力を握ろうとする有力御家人の謀反事件が相次いでいます」

「それだけ多くの有力御家人が北条家に挑戦してきたんですが、それをすべて跳ね返したのは北条義時と北条政子なんですよね」

「時に、北条政子の父親である、北条時政すら、権力奪取を企て・・・それを北条政子、北条義時のタッグが跳ね返してきたんです」

と、レイカ。

「つまり、実際に政治を見てきたのは、北条政子であり、その弟である北条義時・・・」

と、タケル。

「あまり触れられていませんが、北条政子の妹であり、千幡の乳母であった阿波局も、大きな働きをしています」

と、レイカ。

「その阿波局を殺そうとしたのが頼家で・・・その頼家より阿波局を取ったのが北条政子だったんだよね?」

と、タケル。

「そうですね・・・頼家は実朝が邪魔になったんじゃないですかね。自分の息子に三代目の鎌倉殿を継がせる意向だったみたいですから」

「実朝の存在は頼家からすれば、単なる邪魔者に過ぎなかったから・・・」

と、レイカ。

「・・・となると、鎌倉は北条政子を中心に、弟の北条義時、妹の阿波局によって・・・守られていた・・・そう言ってもいいと言うことになるね」

と、タケル。

「自分の息子、娘達を殺しながら・・・それでも北条政子は、鎌倉幕府体制を守り続けたんです・・・彼女は夫頼朝の意向を守るために」

「はからずもそう生きてしまった・・・尼御台そのものなんですね・・・」

と、レイカ。

「それをすべて知ってから・・・冒頭に掲げた北条政子の言葉を読んでごらん・・・また違った感慨に打たれるはずだよ」

「「「子供達の中でただ一人残った右大臣殿(源実朝)を失い、これでもう終りだと思いました」」

「「尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか、淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」・・・どう取る?レイカちゃん」

と、タケル。

「全部自分のしてきた政治の結果ってだけじゃないですか・・・すべて自分の意思で実現してきた政治の結果・・・彼女は絶望などしていませんよ」

「彼女は自分のやってきた政治の結果をしっかりと受け止めて・・・この後も鎌倉幕府体制をしっかりと守っていく所存でしたよ、この時も・・・」

と、レイカ。

「な・・・面白いだろ?その人のやってきた事歴を辿ると・・・同じ言葉も違う感慨となるんだ・・・」

と、タケル。

「彼女は実朝が死んだ後、京から摂関家の血筋の「三寅」を連れてきて新将軍家として、その後見役につきました」

「その時、彼女は尼将軍と呼ばれ・・・程なく「承久の乱」が起こっています」

と、レイカ。

「その時、動揺する有力御家人の前で「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」とやった尼将軍の演説はあまりにも有名だね」

「この演説が一気に有力御家人の動揺を解き放ち・・・京へ進軍するエネルギーになったと言うんだから、北条政子は渾身超政治家だったんだよ」

「要は女傑さ・・・鎌倉幕府は源頼朝によって創始されたけれど、こうやって見てくると、北条政子によって守られた部分の方が多いようなそんな気になるね」

と、タケル。

「ええ・・・尼将軍は、本当に優れた政治家だったんですね。同じ女性として、嬉しい事ですわ」

と、レイカは結論的に言った。

「1224年、北条義時の死後、その子泰時が執権になるんだけど、彼を高く評価していたのが、北条政子だったんだね・・・彼は北条泰時の政治ぶりを高く評価し」

「目を細めてその仕事ぶりを眺めたようだよ・・・そして、程なく1225年、北条政子は亡くなっている。ほんと、女傑だな」

と、タケルは言った。


「さーて、今日はお盆だし、仕事はこれくらいにして、飲み行こうか、レイカちゃん」

と、笑顔で立ち上がるタケルでした。

「はい。もちろん、お供しますわ」

とレイカは立ち上がり、赤縁のメガネを取り、髪を解いた。


(おしまい)

北条政子は源頼朝の妻と言う視点でばかり、見てきたような気がしますが、

こうやって考察してみるとなんのなんの、渾身政治家ですよね。

ほんと、鎌倉幕府体制を守ったのは、北条政子と北条義時の家系・・・北条泰時も含めて、そういうことだとわかってきました。

いやあ、女傑ですよ、やっぱり。

たまーにこういう女性政治家が出てくるからこそ、日本の歴史って面白いんですね。


さ、飲みに行きますか!


ではでは。

最新の画像もっと見る