高層マンションの一室で、青田淳は一人テーブルに突っ伏していた。
しんとしている室内。
淳は人差し指で、そっとテーブルをなぞった。
つるりとした少し冷たい感触が、肌に心地良い。
淳の口元には、柔らかい笑みが浮かんでいた。
先ほど耳にした、彼女からの告白が蘇る。
”好きだってこと‥”
初めて聞いた「好き」という言葉。
真っ赤になって、声を震わせて、一生懸命思いを伝えてくれた。
”先輩のことが‥前より‥もっと‥”
初めて彼女の方から、自分に手を伸ばしてくれた。
”ただ、先輩を知りたいから‥”
自分を受け入れてもらうという、心地良さ。
彼女が自分の傍にいるという、この安心感‥。
淳は安らかな笑顔を浮かべながら、その心地良さに身を任せていた。
彼女の恥じらう姿や一生懸命なところが、いじらしくて堪らない。
はは、と小さく笑いながら、淳は少し頭を俯せに倒した。
腕にピッタリと付けた右耳から、自分の心臓の音だけが聞こえる。
トン、トン、トン、トン。
生まれながらに持ったそのリズム。規則的に刻む心の音。
淳は思った。
でもね、雪ちゃん。
互いに正直に話をするということは‥
頭の中に、レポート事件で言い争いになった時の雪の姿が浮かぶ。
”本当に先輩がやったんですか?” ”ありがとうとは言えそうにないです”
あの時、淳は呆然として眺めていた。
徐々に自分から離れて行き、だんだんと小さくなっていく、彼女の後ろ姿を。
あの時の記憶が淳を縛る。
そして彼はこう思うのだ。
互いに正直に話をするということは、
理解してくれるという前提があってのことだろう?
規則的なリズムを刻む身体が、秩序の保たれた部屋で一人考える。
「理解‥」
トン、トン、トン、トン。
そのリズムの中に、「理解」という単語がその秩序を乱して入り込む。
理解‥
頭では分かっていた。
その単語の意味も、必要性も、その意義も。
けれどそれを前提とさせるためのやり方が、分からなかった。
淳はその一定のリズムの中で、じっと”理解”について思考を巡らせる‥。
「先輩?」
しんとした部屋を震わせる、鈴の音のような心地良い声。
淳はその声に身体を起こし、微笑みながら振り返る。
「ん?」 「疲れちゃってます?」
そこには、彼の服を着て、腰の辺りを押さえながらこちらにやって来る雪の姿があった。
彼の顔を見て、雪はどこかぎこちない面持ちだ。
雪は照れくさそうに、時計を探しながら彼に言った。
「あ‥こんな遅くなっちゃって‥」 「ううん、大丈夫だよ」
微笑んだ淳がそう返すと、二人は顔を見合わせて黙り込んだ。
しかし次の瞬間、雪のズボンがズルリとずり落ちる。
「ひいっ!」と言いながら雪は、必死にズボンを腰まで手繰り寄せた。
淳が「結べばいいんじゃない」と言いながら、彼女の腰に手を伸ばす。
雪は真っ赤になりながら、「いや先輩がやる必要ないからっ!」と彼の手を拒んだ。
その強い力に押し退けられる淳。
淳は両手をホールドアップしながら、彼女を見上げてクスッと笑った。
何を今更、そんな表情をして雪を見る。
雪は淳のその顔を見て、彼の考えていることを感じ取って赤面した。
シャワーを浴びる前のあの出来事‥。今思い出しても、顔から火が出そうなのだ。
淳もまた雪の赤面を見て、彼女が考えていることが分かった。
ニコニコと笑いながら、彼女を後ろから抱き締める。
「服は持って帰って、洗ってお返ししますね‥」「んー?気にしないで。大丈夫だよ」
そして淳はその体勢のまま、雪の頬に二度軽いキスをした。
思わず雪はその姿勢で固まる。
いつまでたっても自分を離さない淳を、雪はまたもや軽く押し退けた。
「か、髪がまだ乾いてないの!髪が!」
「大丈夫だってば」
彼から抱き締められて、キスをされて、再び身体があの感触を思い出す。
雪は恥ずかしくて堪らないという表情をしながら、淳の方を振り返る。
淳はそんな彼女の反応を見て、本当に楽しそうな顔で笑った。
はは、と声を上げながら。
涼しい顔をしている淳を見て、雪は少し怒ったように彼に背を向ける。
「もう!からかわないで下さい!」
淳はポケッとした表情で、彼女の後ろ姿を眺めた。
向けられた背中、小さくなっていく後ろ姿‥。
何度も目にした彼女のそれだが、今の彼女の後ろ姿は、今までとはまるで違う。
‥耳まで真っ赤だ。
ずり落ちるズボンを気にしながら、恥ずかしさを必死にこらえながら、
今彼女は彼の部屋に居た。
彼と同じ空間の中に。
自分を受け入れてくれる存在が、自分と同じ空間の中に居る。
淳はそんな今の状況を理解しながら、雪の背中を見つめていた。
何よりも望んでいた彼女との平穏な時間が、今この手の中にある‥。
淳は雪の背中に追い付くと、彼女の肩に手を回した。もう片方の手で雪の頭を撫でる。
「髪が乾いてから家に送って行くからね。親御さんが心配されるから」
「え?いや地下鉄まだあるし大丈夫ですよ。先輩明日も出勤だし‥」
淳は優しく微笑んで返した。
「ううん、大丈夫だよ」
そして彼は悪戯っぽい笑みを浮かべると、以前彼女からされた仕打ちを話題に出す。
「絶対送っていくよ。また蹴られるのはゴメンだからね」 「あーもうっ!」
淳はククッと笑いながら、雪の身体にその長い腕を回して歩く。
雪は苦々しい顔をしながら、からかってくる彼に対して仕返しする。
「先輩寝てる時歯ぎしりしてるの知らないでしょ?イビキかいてヘソ掻いて寝てるんだからね!?」(嘘 )
「ククッ‥それでも足で蹴るよりいいじゃない」 「くっ‥」
歩いている先から、雪のズボンはどんどんずり落ちて行く。
淳はそれを止めようとする雪の後ろから、お腹のあたりをコチョコチョとくすぐった。
「ほらほら、またもがいてる」「あっ‥!ああぁーーっ!」
二人の声が、先程まで静謐だった部屋に賑やかに響いている。
止めて止めてと、雪が笑う。そんな彼女を見て、彼が楽しそうに微笑む。
雪のことを見つめながら、淳は思った。
もし正直に話したら、きっと君はまた怒ってしまうから‥
この今の平穏な時間を、失いたくない。
彼女の笑顔を、手放したくない。
たとえ自身を、押し隠すことになったとしても。
雪と淳は二人並んで、共に歩いた。
ふざけ合いながら、笑い合いながら、二人一緒に。
けれど既に淳は、気がついていた。
もう分かってるんだ。
それは残酷で目を覆いたくなるような結論だったが、しかしそれこそが淳が辿り着いた真実だった。
俺達は、互いに別の人間だということを。
彼女を”同類”だと思っていた彼は、数々の衝突を経て今、その真実に気がついていた。
だからこそ、怖かった。
全てを曝け出すことなんて、もうとっくに出来なくなっていた。
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<俺と君>でした。
もう今回の盛りだくさんなことと言ったら‥!
まず前提として「二人が結ばれた後のシチュエーション」という解釈から記事を始めさせて頂きました。
だってコーヒー零した雪が着替えるだけなら、雪がシャワー浴びる必要も、淳が着替える必要もないわけで‥。
(しかも雪ちゃん、あんまり敬語じゃなくなってる!)
とにかく二人は一線を越えたと、そう解釈させて頂きました‥!
そして淳のモノローグ。
ここの内容が、3部27話の後の「特別編」の雪のモノローグと重なります。
(ブログ記事はこちら→<特別編 あなたと私>)
”私達は完全に別の人間だから”という、あの時の雪の結論と淳の結論が今回重なったわけです。
(2部最後の方で変態男に言った、「俺とあの子は同類だから」という淳の考えがそこから変わったことが判明しましたね)
けれどその先で二人が取っている行動が全く違う。
雪が正面から淳にぶつかったのに対し、淳は雪が「去って行く」のを恐れて自分を押し隠す。
幼い頃、父親から「おかしな子供」を見るような目で見られた傷が、まだ彼の中に残ってるわけです。
雪が不器用ながらに家族とぶつかって良い方向へと道が開けたように、この先彼も自分の手で扉を開けなくてはなりませんね。
埋めてきたコアを、自分を変えるのは、自分しかいないのですから。
物語が、佳境に入って来ましたねぇ‥。
さて次回は<彼のコレクション>です。
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