ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

そんなこと言いましたっけ

2018-11-20 08:29:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうだったっけ?」11月14日
 専門編集委員与良正男氏が、『改革後19年の惨状』という表題でコラムを書かれていました。その中で与良氏は、桜田五輪担当相を例に政治家の劣化について取り上げていらっしゃいます。その指摘には同感なのですが、最後の一文が気になりました。『(国会審議活性化法成立時の総理大臣)小渕氏は能弁ではなかったが、常識を大切にした誠実な首相だったと今、思う』というものです。
 小渕氏と安倍現首相の対比で述べた所感なのでしょうし、両者の比較であれば、私の同様の評価をします。しかしそれでもなお釈然としないのです。小渕氏が総理の座にあったときに与良氏は、その政策や姿勢を批判していたのではなかったか、と思うからです。
 もちろん、小渕氏の政策や姿勢については、赤字国債の大量発行など、立場によっては批判に値する行為がありました。また、ジャーナリストとして権力に対する批判的な姿勢は、必要でもあります。さらに、「政治家についてはこれが最悪だと思っていると、すぐもっと悪いのが出てくる」という箴言があるように、当時は評価できないと思っていても、現在の基準で評価し直すと、今の首相よりもずっとまし、というのも理解できます。そして、人間は過去や故人を美化しがちなものだという点についても、です。
 でも、もし今小渕氏が生きていらっしゃったら、「おいおい、あの時は随分~」と苦情の一言も言いたくなるのではないかと思ってしまうのです。戦後の学校教育についても、同じようなことがあるのではないかと考えます。当時は、猛烈な非難や批判にさらされたものが、その後はまったく逆の評価を得てしまうということがあると思うのです。
 例えば教員の勤務評定です。60年前には、教員の賃金に差別を設け分断を図るものとして批判された歴史がありますが、15年前には、教員の横並びぬるま湯意識を改革するものとして評価され導入されました。また、主任制度についても、40年前には同様な批判がありましたが、やはり15年前に学校の組織体としての活動を支えるものとして評価され、主幹・主任制度として導入されました。
 初任者研修制度も、国定教員づくりという批判がありましたが、今では教員の資質向上のために研修の強化が求められるようになりました。教育内容面でも、道徳について修身の復活というような批判がなされた時代から、いじめ対策の一環としての道徳教科化が一定の支持を受けるようになりましたし、系統主義と経験主義の間の揺り返しは既に数回繰り返されています。
 いずれのケースも、過去に意見を述べた人や団体が見解を撤回または微調整させた理由について明確に説明責任を果たされたことはほとんどありません。そのことが、教育論争を底の浅いものにしているように感じます。まるで健忘症に罹ったかのように、過去の議論の蓄積を軽視し、一から同じような議論を繰り返し深まりのないまま時代の雰囲気で方向性を決めていってしまうという体質を作っているような気がするのです。

 

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