「違いを精査」7月3日
『教習所「鬼教官」はもう古い? ほめちぎって育む 安全運転』という見出しの記事が掲載されました。『いま、じわじわと増えているのが「ほめちぎる教習所」だ』ということで、その実態と考え方について報じる記事です。
記事では、『右足の動作が間に合わず、クルマがとまったのは一時停止のラインを踏み越えてからだった…。「ブレーキ」と鋭く、冷たい指摘が飛んでくると思いきや、教習生に投げかけられたのはやわらかい言葉。「標識はきちんと確認できていたから、アロハブレーキの踏み方だね」』と、「ほめちぎる」実際の状況が紹介されていました。
『運転の技術を伝えるのに有効なのは、怖がらせるのではなく、運転する楽しさを伝えること』『ほめられた人は、運転中に人を思う気持ちが生まれます』などという基盤となる考え方も紹介されていました。
学校でも、褒める教育が望ましいとされる現在、やはり人を育てるには褒めることが大切で有効なのだ、という結論にまとめたいところですが、私はへそ曲がりなのか、し違うと思ってしまいました。
学校と教習所は、教える所という意味では共通していますが、細かく見ていくといくつも違う点があります。まず、教習所は学びたいという意欲をもった人が自ら進んで集まってくるところであるのに対し、学校、特に小中学校は本人の意思に関係なく集められているという点が大きく違います。
さらに、教習所は不合格という実質的な損害を伴う「罰」を与えることができますが、小中学校にはそれに匹敵する罰は存在しません。勉強がオール1だからと言って出席停止にはできませんから。
また、教習所が主に運転技術を習得させる場であるのに対し、学校は一人一人の個性を伸ばす場であるという違いがあります。技術はもっとも適切な型があり、そこにどれだけ近づけるか、という視点で評価されます。一方、学校での学びは、基礎的な知識は共通ですが、その知識を基にどのように考えるかは、人それぞれであり、同じである必要はないのです。江戸幕府の確立について、将軍や幕府の偉大さ、巧みさを感じ取る者もいれば、身分制に縛り付けられた庶民の苦しさを想像する者がいてもよいということです。
そしてそのことに関連して、教習所では教官のもつ技能を超える教習生は基本的に存在し得ませんが、学校では教員が気がつかないことに気づいたり、全く思いつかないような発想をしたりする子供がいても構わない、というよりもそういう子供を育てることこそ学校教育のねらいであると言ってもよいのです。
こうした違いを踏まえて、「ほめちぎる」教え方について考えたとき、教習所における「褒め」と、学校における「褒め」とでは、大きな違いがあることを指摘しなければなりません。前者は、いくつかある評価の観点の中で、合格レベルに達している事項について褒め、その後達していない事項について指摘する、という営みなります。一方後者は、その子供のもつ個性的な発想や思考の枠組み、着目点やこだわりなどのもつ「価値」を発見し、そのことを的確に伝えるということが中核になることになります。
もちろん、学校においても頭ごなしに叱ったり、叱ったり罰を与えたりする恐怖による支配で教え込もうとするようなことは論外ですが、だからといって、良い点を褒めてから課題を指摘するという単純なことで、「褒める教育」が成り立つと思っては不十分なのです。学校の「褒め」はさらに高度なのです。
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