ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

処分はしなくても

2018-11-19 08:07:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「なんで私だけ」11月14日
 『最多国税庁も処分せず 障害者雇用水増し「事務的ミス」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『障害者雇用水増し問題で、職員の処分を見送る考えを示した厚生労働省に続き、総務省と経済産業省、法務省、国税庁も職員を処分しない方針』とのことです。その理由としては、『意図的な数字操作ではなく、事務上のミスのため』『不正の意図が確認されなかったため』『長年続いてきた問題で、特定の誰かの責任を問うのは難しい』が挙げられていました。
 こうした対応に対し、『障害者団体からは批判が強まっている』とも書かれていました。当然の反応でしょう。しかし、私はこの問題についてすっきりと割り切って立場を明らかにすることができません。
 以前もこのブログで書いたことですが、私は教委勤務時代に教員を処分する職務にかかわっていました。教員の世界にも、「長年続いてきた問題」はたくさんありました。私が教員になったころ、午後4時になると退勤してしまう教員がいました。教員の職務の特性から、労働基準法に定める休憩時間を勤務時間中にとることが難しく、その分を勤務時間の終わりにくっつけ、勤務時間短縮していたのです。もちろん、今では認められてはいません。つまり、当時はほとんど全員の教員が勤務時間の職務専念義務違反を犯していたことになりますし、それを認めていた管理職も管理職としての職責を果たしていなかったということになります。
 しかし、この不正な慣行が見直されるようになったとき、それまでの不正行為の責任を問われて処分された教員や管理職はいませんでした。もし処分が行われていれば、私も処分されていたはずです。後に校長になった私のつれあいも、です。もし、処分されていたとしたら、私は納得できないという思いにかられていたはずです。大学を卒業して教職に就き、右も左も分からないときに、先輩教員に誘われ、飲みに行って聞きたくもないお説教を聞かされて苦痛な時間を過ごしたことが処分に値する行為だったなんて、そんな理不尽な、と感じるのは自然な感情の動きでしょう。
 「ああ、自分は全体の奉仕者である公務員として、とんでもないことをしてしまった」と反省し、それ以後の教員人生における教訓として職務に精励するようになったかといえばその逆で、「校長のいうことも先輩のいうことも絶対に聞かないぞ」とひねくれ、職務への熱意を欠いていった可能性の方が高いと思います。
 不正が行われたにもかかわらず、誰も責任を問われないという事態に対して、憤りを覚えるというのは当然です。しかし、具体的に処分を行う場合、公平に行うのであれば、数十年遡らなければならないことになります。また、引き継ぎ事項を誠実に遵守しただけというケースでは、指導的立場にあった前任者の方が重い責任に問われるべきでもあります。違法な指示をしたわけですから。実際、「部下を管理するコツは四角い部屋を丸く掃く」ことだと言われたことのある人は多いはずです。つまり、厳密に法解釈すれば確かに違法なのだがこの程度は問題にならないから大目に見てやることが人心掌握術だという教えです。こんな管理職が「話が分かる=有能」とされる文化があった職場は日本中にあったはずです。そうした状況を無視して、処分を行うことが本当に職員の志気を高めることになるのか、という疑問を捨てきれないのです。
 もちろん、こんな考え方は、公務員を甘やかす間違った考え方であることは百も承知です。それでもなお……、なのです。教員の世界には4時退勤以外にも、実に多くの不正な慣行がありました。今ではそのほとんどがなくなりました。処分者はいなくても、改善は可能だという思いは間違いなのでしょうか。

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