ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

憐れみを施す

2024-09-06 08:50:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「上から目線」8月31日
 連載企画、法学者谷口真由美氏と作家雨宮処凛氏の往復書簡、今回は谷口氏の担当でした。その中にとても印象に残る記述がありました。『人権は本来、権力にあらがう概念です。「下々」に身につけられては力のある側が難儀します。暴力による学校運営をする先生たちは、生徒に抵抗されては困る側。となると、いじめだって人権教育を通して無くすようにもっていくわけもなし。おかげで、「思いやりを持とう」とか「仲良くしましょう」とか曖昧な感覚や感情を強調し、「問題は心のありようで解決する」といった雑な道徳を説く先生が多かった』です。
 とても明解な分析です。端的にズバッと正鵠を射たというところです。私は、以前、このブログでも書いた、指導力があると言われていた教員の担任する学級でいじめがおきたときのことを思い出しました。
 私は校長に対し状況の確認と指導を指示しました。担任教員は、実態解明と解決を約束しました。その後、被害者にも非協調的な言動があり、多くの子供から避けられていたという現状認識を口にし、子供たちを指導し、今までの不愉快なできごとは水に流し、被害を訴えている子供を仲間として向かい入れる約束をしたそうです、という報告が校長からありました。
 その教員の意識こそ、谷口氏が指摘した人権意識の欠如に他なりません。被害者の人権が損なわれているという人権問題として解決に当たろうとするのではなく、学級の秩序や雰囲気を乱す者がいるという認識からスタートしているのです。
 指導力があるということは、自分の思い通りの学級に作り上げているということです。そこでは、自分の価値観、理想の実現に貢献する子供が良い子供です。つまり、多数派の子供、多数派のいじめ加害者たちこそ、自分の権力に従順な善なる存在なのです。意図的にではないものの学級の雰囲気や秩序を乱す被害者の子供は、力をもつ教員、権力者である教員に抵抗するものとして認識されています。ですから、いじめ行為は、権力者である担任の敵を罰する行為であり、教員にとっては何ら問題ではないのです。
 でも、教委の室長、校長という自分よりも強い権力をもつ者からの介入によって、方針転換を迫られた担任は、自分の「統治」を邪魔したいじめ被害者を許さざるを得なくなり、自分に忠実な多数派に許すことを宣言させたのです。担任としては、これが最大限の譲歩です。
 しかし私はそんな考え方、対応を非難し、指導主事を派遣して直接担任を指導させました。権力関係に敏感な担任は、表面的には私の、つまり指導主事の指導に従い、担任としての対応のまずさを被害者に謝罪することから、指導にあたることを約束しました。形式的に頭を下げるだけというような担任の対応が被害者の心に届くはずもなく、単に表面上は何事もないという状態のまま卒業式を迎えることになってしまいました。私も踏み込み不足でした。
 いじめ被害者に思いやりをもって接するというとき、そこには可哀想な者に対して憐みをかけるという上から目線が感じられます。本来であれば、そんなことをする義務はないのだけれど、特別に施しをしてやるという感覚です。そうではなく、人権を守るという教員に課せられた義務を果たす、義務なのだから果たすことができなければ罰を受けるのは当然だ、というような厳しい自覚が必要なのです。

 

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