「立派な成果」2月21日
批評家濱野智史氏が、『若者のセックス離れ 背景に目を向けよう』という標題でコラムを書かれていました。その中で濱野氏は、『この問題はネット上では大きな反響を呼んでいた。そのなかでもよく見られたのが、これは「青少年健全育成」の結果ではないかという指摘である~(中略)~青少年を対象とした過剰なまでの性的コンテンツからの<隔離政策>が進んだ昨今、若者のセックス離れが起こるのは当然の結果だというわけだ』と書かれています。
濱野氏は、皮肉として「青少年健全育成」を取り上げていますが、私は真正面から考えてみたいと思います。かつて性教育が「寝た子を起こす」的な考え方で攻撃され、その後もいわゆる「純潔教育」的な発想と性の自由、性の自己決定権的な考え方が混在し、現在では後者の考え方が大勢を占めているというのが私の認識です。もちろんこれは、あくまでも学校教育におけるという限定付きですが、学校外の社会では、援助交際や下着の売買を経て現在のJKビジネスに至るまで、「性的コンテンツからの隔離が進む」というのとは逆の現象が進行中なのですから、学校における性教育に絞って、若者のセックス離れとの関係を考えることは無意味ではないと思います。
私が近隣区合同の生活指導担当指導主事会のチーフをしていたころ、報告されるのは、中学生による継続的な婦女暴行事例や複数の女生徒が参加した乱交パーティー、覚醒剤を使用した乱脈な性交事例などでした。当時の彼らは今30歳前後になっているはずです。つまり、セックス離れが著しいといわれる若者世代です。
彼らの多くは高校に進学していきました。中退した者も多かったと思われますが、一応高校で学んだわけです。中学校時代に活発な性行動を見せていた彼らが、高校における性教育の成果で人が変わったように慎み深くなったということは想像できません。善悪の価値評価を抜きにして、もしそれだけ劇的な効果を現す指導法があるのであれば、授業法の研究者としてその方法を知りたいものだと思うくらいです。
ですから私は、若者のセックス離れの原因が健全育成の成功にあるという論には賛成できません。むしろ、性教育、性における自己決定権に基づく性教育は失敗していると考えています。もし仮に、上記の立場の性教育が成功していたならば、自分が社会的に性行為に伴う結果に対して責任を取ることが出来ると認識するまでは性衝動を抑える努力をし、社会人として、大人として成熟した後は、人生の重要な一部として性生活を充実させるという「望ましいとされた行動」をとる若者が増えたはずだからです。
濱野氏が紹介したネット上の指摘とは逆に、青少年健全育成の中核をなしてきた学校における性教育は、成果を挙げることができずに失敗しており、その結果が若者のセックス離れにつながっているというのが正しいと思います。
自分が社会的に性行為に伴う結果に対して責任を取ることが出来ると認識するまでは性衝動を抑える努力をし、社会人として、大人として成熟した後は、人生の重要な一部として性生活を充実させることができる若者を育てる、という視点に立ち、学校の性教育をもう一度点検することが必要だと思います。
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