ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

科学か経験か

2019-11-01 08:40:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「そういうこと」10月28日
 『「できる楽しさ」知らせる』と題された、「ビリギャル」著者坪田信貴氏へのインタビュー記事が掲載されました。その中で坪田氏は、『教育は科学的な側面で捉えられていることが実は少なく、ほとんど経験論で語られています。「お兄ちゃんはこの方法でうまくいったのに「俺は何回も書いて漢字を覚えた」・・・。「n=1」、つまり1人だけの経験論を当てはめてしまう(略)伝え方をあれこれ試す必要がありますね。教育は実験です』と語られています。
 「教育は実験」と言われてしまうと、子供は実験動物か、と反論したくなりますが、前段の「教育は科学ではなく経験論」という指摘には賛成です。学校教育について議論されるとき、様々な立場による対立があります。国力増強への寄与を重視する立場と学習者の知的満足を優先する立場、系統的学習を重視する立場と経験的な学びを重視する立場など、過去の教育改革論議でも、大きく揺れ動いてきました。
 私は、そうした対立に加え、教育を科学と捉えるか、経験の積み重ねと捉えるかという立場の相違も無視できないと考えています。教育を科学と捉えたとき、それは万人に共通する最善のものが存在するという考え方に行き着きます。科学的な結論とは反復性によって保障されるのですから、Aさんにも有効、Bさんにも有効、Cさんにも~というように、ある教育方法が優れたものであるということは、それは全ての子供に、ケースに当てはまると考えるのは自然なことです。
 そうした考え方を基に、学校教育の改善を考えると、数十万人もいる教員全てを最高レベルに引き上げるという非現実的なことに力を注ぐよりも、それぞれの分野で最高の教員の授業を全ての子供に届ければよい、という発想になります。それが、ビデオ等を活用した遠隔授業の普及という形で具体化するのです。理科の授業で最高峰に位置するH教員の授業を、全国100万人の子供に受けさせれば、我が国の理科教育の成果が向上するはずということです。良い授業のノウハウを獲得したAI教員が授業をするという改革案も、同じ延長線上にあります。
 一方、ある方法はAさんには有効だったがBさんの興味を引くことはない、という経験論的な考え方に立てば、最高峰教員H氏の授業を受けても、成果が上がるのは一握りの子供についてだけ、ということになります。当然のことながら、一人の教員ができるだけ少ない人数の子供を受け持ち、それぞれに合わせた方法を試みるという形態がベストとなります。
 現実の学校は、このどちらにも属しません。35人の子供は個別対応するには多すぎますし、全国100万人の子供に授業を行うのは一人の最高峰教員ではなく数万人の教員です。どちらの立場の論者からみても、中途半端で批判の対象となります。だからこそ、改革、改革と叫ばれ続けているのですが。
 しかし、予算や人員、施設等の関係で中途半端にはなっていますが、現行の学校は、坪田氏の主張に近い発想で構築・運営されています。つまり、経験論の世界であり、私が著書「教師誕生」や「教員改革」で主張してきた教員=職人論の世界なのです。教育は科学か経験か、この問題について議論することは、今後の学校像を描く上で欠かせないと思います。
 
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