ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

理屈ではなく「嫌い!」

2012-07-29 07:42:29 | Weblog
「本能的嫌悪感」7月24日
 手塚さや香記者が、精神科医斎藤環氏の著書「世界が土曜の夜の夢なら」を取り上げていました。見出しに『日本人がひかれる「ヤンキー的なもの」を分析』とあるように、斎藤氏の著者は、『ヤンキー文化にひかれる日本人の精神性を浮かび上がらせる』ものだそうです。
 その記事の中に次のような記述がありました。『橋下徹・大阪市長人気には「ヤンキー好き」の多さを実感した。市長の弁護士時代の「ツヨメ」なファッション、「ちょい悪」ぶり、家族主義…。逆に、橋下嫌いの「知識人」は深層に「ヤンキー的なるもの」への嫌悪感を秘めているという』。私は、このブログの中で、橋下氏流の「教育改革」について、いくつかの批判をしてきました。知識人ではない私にも、嫌悪感があったのでしょうか。
 それはともかく、理屈ではなく感じる嫌悪感というものがあるのは否定できないと思います。私が教員になってすぐに気付いたのは、教員の中に正反対の2つのタイプがいるということでした。それは、統一された行動に対する感じ方でした。私は、大勢の子供がきちんと整列したり、行進したりする姿を「美しい」と感じるタイプです。子供の頃に見た東京オリンピックの開会式の日本選手団の入場行進が原点です。赤いブレザーをきた選手団が整然と入場してくる姿が目に焼き付いています。そして、だらだらと歩いてくる他の国の選手団に対しては「だらしない」という感じを抱きました。
 しかし、教員の中には、私と正反対の感性の人が少なくありませんでした。運動会の開会式の練習で、足を揃えて歩く子供たちを見て、「軍隊じゃあるまいし」と不機嫌そうな顔をする先輩教員が何人もいたのです。そんな彼らも、「よそ見しないで」「ちゃんと足を上げて」「手を伸ばして大きく振る」などと、世間体や見栄えを考えて一応指導はするのですが、熱は入っていないのです。
 卒業式のときの国歌斉唱や起立、国旗のある方に向かっての礼の強制など、思想信条の自由を犯すとして、毎年「話題」になります。国旗国歌を侵略戦争の象徴であり、手岩で民主的な現代の日本には相応しくないという「理論」が根底にあるといわれます。確かにそうした面もあるでしょう。しかし、実は、本能的に感じる嫌悪感というものの影響が大きいように思うのです。理屈ではなく、嫌なものは嫌だということです。みんな一緒に歌うのが嫌だ、みんなで揃って礼をするのが不快だということです。
 実際、毎年の職員会議で反国旗国歌の論陣を張る教員が、「別に君が代が嫌いなわけじゃない。私一人に歌えというのなら独唱してあげったっていい」と言っているのを耳にしたことがあります。彼女は、「人間は一人一人違うもの。みんなが同じことをするなんて気持ち悪い」という感覚の持ち主でした。そうした感覚を中核に置き、その感覚を正当化するために、侵略戦争の象徴論をもちだしてきているとしか思えなかったのです。
 教員の感覚を子供に押し付けることも教育なのでしょうか。
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