ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ハグまでなら

2014-09-30 08:06:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「基本的な考え方の欠如」9月24日
 川柳欄に、米子市の浮々氏の『聖子サン ハグにしとけば良かったネ』という句が掲載されました。橋本聖子スケート連盟会長と日本代表選手高橋大輔選手とのキス騒動について、キスをせずにハグ程度に止めておけばセクハラだとして問題にはならなかったのに、という意味の句です。
 面白い句ですが、浮々氏の認識には問題があります。おそらく浮々氏はそんなことは百も承知で、面白さを優先して投稿なさったのでしょうが、そうではなく本当にハグなら問題なかったと考えている人もいるような気がするので、あえて取り上げてみます。
 ハグなら問題なし、と考える人は、こうした行為はOK、こんな行為はOUTという基準があるという考え方をしているのです。キスとハグの間にセクハラか否かの基準線があるということになれば、いちいちこれはセクハラか否かと考えないで済みます。手を握るはOK、髪の毛を触るもOK、デートに誘おうがベットに誘おうが口先だけのことですのでOKとなります。頭を使わなくてもよいので、楽ですね。でも、それでは思考停止のバカになるだけです。
 大切なのは、セクハラの定義について正確に知り、なぜセクハラという行為がいけないのか人権侵害の視点から考え、様々なケースについて、「加害者」「被害者」「傍観者」の立場に身を置いてその心情を慮ることです。その際、他者の気持ちがわからないというのであれば、自分の恋人や配偶者、子供などが「被害者」だとしたらどう感じるかと想像力を働かせるなど、とにかく自分の頭で考えることが必要なのです。そうした作業を頭の中で絶えず繰り返して、機械的な線引きではなく、セクハラが禁止されている基本的な理由、趣旨について身に沁みこませるのです。これは、ある意味面倒くさいことですが、こうした手順を省いてしまっては、この世の中からセクハラはなくなりません。
 同じことは、体罰にも言えます。以前もこのブログで書いたことですが、私が教委に勤務し、体罰防止研修の講師を務めたとき、必ず訊かれたのが、「どこからが体罰になりますか」でした。この質問の背景には、体罰で処分されるのは避けたい、でもそのためにいちいち自分で判断するのは面倒くさいし、判断が間違っていたら体罰をしたつもりはなくても処分されてしまう、だから明確な線引きを知りたい、という意識があります。
 そこには、子供の人権という思想も、教育者としての矜持もありません。あるのは姑息な計算だけです。ですから私は、「子供と物理的な接触があり、子供か保護者から体罰だという訴えがあれば教委はすべて調査します」と答えるのを常としていました。そして、千匹を知ろうとするのではなく、なぜ体罰が禁止されているのか自分の頭で考えてほしいと話すことにしていました。
 教員は、セクハラもパワハラも、体罰もいじめも、「線引き」を知ろうとするのではなく、なぜ許されないのか根本に立ち返って考える癖をつける必要があります。

 

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