ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

〇〇も▽▽も

2024-03-09 08:57:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員は支援者?」3月3日
 専門編集委員滝野隆浩氏が、『語尾は「ね」で終えよう』という表題でコラムを書かれていました。その中で滝野氏は、めぐみ在宅クリニック院長小澤竹俊氏の講演会の内容を紹介なさっています。『先生は「苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいるとうれしい」と繰り返す。そうした「わかる人」になるためには、相手の話に対し「……なのですか」と疑問形ではなく、「……なのですね」と反復する形で答えようと訴えている』。
 その後も、『質問したら心は閉ざされる』『聞きたいことを聞くのではない。相手が話したいことを話してもらうのだ』などの記述が並びます。援助的コミュニケーションにおける「三つの約束」として、『語尾は「ね」で終わる』『メモを取らない』『安心感のある態度で聴く』を提示しています。
 とてもよく分かります。私自身、話すのは好きだけれど聞くのは嫌い、という性格なので、話している最中に「……か」と質問されるのは好きではありませんし、聞く側のときにはつい質問してしまい不快な顔をされることも度々でした。本当にその通りだと思います。そう考える一方で、こうした話を耳にするといつも浮かぶ疑問があります。
 それは、教員は基本的には「援助的コミュニケーション」を心掛けるべきであることは否定しないものの、そうではないコミュニケーションを求められる場合もあるのではないか、ということです。
 分かりやすい例でいえば、モンスターペアレンツに対応するときです。メモも取らずに、「……ね」と頷いてばかりいては、とんでもない結果に陥ります。刑事事件になるような問題行動をとった子供に対して事実関係を確認するという場合はどうでしょう。テクニックとして相手の話を聴き続けることは私もしましたが、どこかで「聞きたいことを聞く」がないと事態は前に進みません。
 より日常的な例として、授業中のコミュニケーションはどうでしょうか。その多くが「質問」から始まります。良い授業は、教員が「話させたいことを話させる」のではなく「子供が話したいことを話させ」つつ、授業の目指す方向性に沿って話を展開させるのですが、それでも「質問」なしでは始まりません。
 教員研修では、ほとんどの教委で、名称はともかく、教育相談的手法について学ぶ機会を設けています。そこでは受容の大切さ、共感の重要性が強調されます。もちろん、正しいのですが、中には教員と子供の間のコミュニケーションは全ていわゆる「援助的コミュニケーション」であると誤解してしまう若い教員がいるのです。
 それでは授業も学級経営も成り立たないのです。援助的コミュニケーション以外の○○コミュニケーションと▽▽コミュニケーション、そういう使い分けが必要なはずなのですが、○○も▽▽も意識して学ぶ場は少ないのです。教員育成の問題点だと感じているのですが。

 


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