ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

思想から個人へ

2018-03-27 07:55:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「思想ではなく人への」3月22日
 『文科省による前川氏授業調査 政治の「不当な支配」か』という見出しの記事が掲載されました。以前、このブログでも取り上げた問題について、自民党の2議員が圧力を加えていたという疑惑が表面化したことを受けた記事です。
 記事は、教育基本法の「教育は、不当な支配に屈することなく~」という精神に反する行為として批判するというトーンで書かれています。私も同感です。ただ、記事の中で使われている用語の意味やイメージについては、吟味が必要です。まず、『教育現場の自主性』という考え方です。
 「教育現場」とは何を指しているのでしょうか。一人一人の教員でしょうか。集団としての教員でしょうか。校長でしょうか。教育委員会でしょうか。今回の2議員の行為を批判し、「教育現場の自主性」尊重を掲げる人たちの間でも、異なるようにいます。なお、子供や保護者、市民を挙げる人もいるかと思いますが、少数派だと思われますので、ここでは除いて考えることにします。
 私は、学校現場=校長という考え方に近い立場です。法的に、学校の教育課程の編制権は校長にあるからです。教員や教員集団が学校現場であり、教育内容や方法についての裁量権をもつという考え方は、かつて日教組などの職員団体が主張してきたものであり、長年政府(戦後ほとんどの期間は自民党政府)と対立してきました。近年は、こうした対立が表面化することは少なくなりましたが、今でも一部地域では、教委・校長vs職員団体対立の底流にあります。今回の2議員と文科省の愚行によって、収まりつつあった対立が再発し、混乱をもたらすことがないように留意する必要があります。
 次に、『国家権力が教育内容に介入』という指摘です。ここには、2つの問題点が潜んでいます。まず、国家以外の介入なら罪が少ないのか、という誤解を生みかねない点です。以前も書きましたが、一般の公立小中学校において「圧力」を感じるのは、国会議員でもなければ文科省でもありません。首長であり、首長に影響を与える地方議員こそが、強力な圧力源なのです。私自身、首長自身の考えや首長に働きかけた議員の思惑によって、校長の異動を持ち掛けられた経験があります。区市全体の学校の教育予算や各校に割り振られる施設・設備費など、「政治」の圧力は無視できません。今回の件も、もし名古屋市長が「圧力」をかけたとしたら、結果は違うものになっていた可能性が高いのです。
 さらに、「権力による教育内容の介入」という文脈で語られるものについてです。従来はほとんどが、「思想信条」に基づく介入でした。具体的には、国旗国歌の扱いであったり、米軍基地や日米安全保障条約の扱いであったり、自衛隊への考え方であったり、憲法改正への考え方の扱いであったりしました。つまり、保守と革新の左右対立だったのです。その時代の雰囲気によって、保守側から自衛隊を否定するような授業に偏向教育という批判が集まったり、リベラル派から愛国教育に戦前への回帰という批判が加えられたりしましたが、共に根底には歴史観や思想の違いがあり、多様な価値観が混在する自由社会においては、対立があること自体はむしろ健全な社会であることの証明という一面もあったのです。
 しかし今回は、前川氏という一個人に対する好悪の感情に基づく介入、政権批判を繰り返す前川氏を叩くことで権力者にごまをするというような動機が疑われるという点で、極めて異質なのです。これは、北○○や中○、ロシ○やシリ○などの、非民主社会で起きる現象であり、社会の劣化を表すものなのです。従来の「政治介入」の延長線上で論じてはいけないのです。
 学校はある意味社会の縮図であり、世の中の動きと無縁ではいられないということを痛感させる事件でした。

 

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