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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

後悔先に立たず

2025-07-10 08:32:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「魂からの言葉」6月28日
 連載企画『街角ことば拾い』は、『揺らぐ学問の自由』というタイトルで、国会議事堂前で、日本学術会議改変法案に反対する人を取り上げていました。その冒頭にこんな記述がありました。
 『「もう遅い。こんなざまで殺されるなら、なぜ命懸けで(戦争に)反対しなかったのか」太平洋戦争で亡くなった学徒兵、中村徳郎さんは激戦地に向かう直前、部隊まで面会に来た弟に「死んじゃだめだ」と請われ、こう言って悔やんだ(略)同じことばを私は千代田区の国会議事堂前で目にした。雨の降る中、70代男性が傘を差して歩道にしゃがんでいる。携えた段ボールにペンで書かれていた』。
 戦争には反対だ、学問の自由は大切だ、異なる意見を封殺してはいけない、等々、多くの人はそう考えているはずです。しかし、現実の社会では、こうした「理想」とは相容れない出来事が起きています。そんなとき、少しだけ顔をしかめ、「困ったものだ」とつぶやき、それだけで見過ごしてしまう、そんな人が多いのではないでしょうか。
 理由はたくさんあります。理想と現実は違う、確かにいいことじゃないけど自分には関係ない、変に目立って「意識高い系」と思われたくない、自分が声高に反対しなくても誰かがやってくれるかもしれない、忙しくてそれどこじゃない、今の日本には民主主義・自由主義が根付いているから独裁国家みたいなことにはならないよ、選挙にはちゃんといってきちんと意思表示しているから、等々。
 実は、私もそうです。新聞を読み、テレビのニュースも見て、つれあいともいろいろなことについて話し合っています。選挙は棄権したことがありません。このブログでも民主や自由、法治の大切さにふれています。まあ、真ん中よりは少し「意識高い系」なのではないかと思っています。
 しかし、決して「命懸け」で、意思表示しているわけではありません。デモに参加したことも、座り込みをしたことも、ハンガーストライキをしたこともありません。おそらく、これからもしないでしょう。でもそれでいいのか、ということを問いかける記事でした。
 アラ古希の私はもう戦争に行くことはないでしょう。でも、今の若い人は冒頭の中村徳郎さんのような嘆きを繰り返す可能性があります。あのとき、一声あげていれば、一歩踏み出して行動していれば、と後悔する時を迎える可能性があるのです。
 そうならないために、反戦教育も、主権者教育もあるのです。一声、一歩に結びつかないのであれば、教育は失敗なのです。今学校の教育現場にいる教員の皆さんには、そうした覚悟をもって、反戦教育や主権者教育に向き合ってほしいものです。

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数を競うのは教員の仕事ではない

2025-07-09 08:24:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「今も?」6月27日
 『日本人のふりしない 在日3世 宿泊時に通名求められ ホテルを提訴「本名で生きる毎日 闘い」』という見出しの記事が掲載されました。『在日韓国人3世で大学教員の女性が、予約していた東京都新宿区のホテルを訪れた。本名を伝えると、フロントで従業員の男性から旅券か在留カードを提示するよう求められた。女性は「携帯義務がなく、持っていない」と伝えると、宿泊を断られた。その後、男性から「通名を書くならば泊まれる」と持ちかけられた。普段から本名で暮らす女性はこれを断り、ホテルを出ることになった』という事案を受け、女性がホテルを提訴したこととその背景を報じる記事です。
 記事では、女性が、差別に直面し、『悔しさと恐怖を感じると同時に、本名で生き抜くことを誓った』今までの経験が綴られています。胸が痛むような記述ですが、ここでは触れません。
 私は今回の記事で、約30年前、某区教委に勤務していたときのことを思い出しました。私が勤務していた教委では、管轄下の学校において、人権教育の取り組みが盛んでした。なかでも、同和教育とともに、障害者差別、朝鮮半島出身者に対する差別についての取り組みに力を注ぐ教員集団がいました。
 彼らは、本名通学を推奨していました。通名で区内の小中学校に通っている子供の保護者に対し、家庭訪問をして「朝鮮半島出身者としての誇りをもって生きるべき。親が通名を選択すると、子供は朝鮮半島出身ということは恥ずかしいこと、隠さなければいけないことと思い込んでしまい、自分の出自に自信をもてないくなる。それは、自信のないまま人生を送っていくということ。親として我が子のそんなみじめな人生を歩ませて良いのか」と熱く説くのです。
 保護者が、「でも、子供が差別されたり、肩身の狭い思いをしたりすると可哀想で」と躊躇いを見せると、「そんな差別はなくさなければならないのです。一緒に戦いましょう」と叱咤激励するのです。
 その通りです。名前はその人のアイデンティティそのものです。それを隠して生きることを強制される社会は間違っています。でも私は、彼らの取り組みには共感できませんでした。それは彼らが、通名使用を勧め、保護者が通名を選択すると、それで「我が事終れり」で、その後の関与をしなかったからです。一緒に戦うのではなく、後は我関せずで、保護者や子供が辛い思いをしていても、差別を容認している学校が悪い、校長が悪いと言うだけで、自分たちは何もせず、次のターゲットとなる保護者への働きかけをするだけだったからです。
 私は以前このブログで、障害のある子供の通常学級への入学や進学を勧める教員について書いたことがあります。そのときも、通常学級への進学を勧めながら、その後のフォローをせず、学校生活で生じる不都合はその学校の校長の責任というだけでした。まったく同じ構図なのです。
 障害のある子供の学びも、本名就学も、大切な取り組みです。しかしそれらは、一人一人の子供と保護者に「幸せ」をもたらすものでなければなりません。自分の主義主張、運動の成果として「数」をアピールするものであってはならないのです。一番大変なのは、実際に一人一人の子供に寄り添って、その子のために学校体制やシステムを変えていくことです。教員はそれを内側から働きかけなければならないのです。声高に叫ぶだけなら、運動家や評論家に任せておけばいいのです。
 

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学校でペット、は無理だけど

2025-07-08 08:34:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「休め、の勧め」6月27日
 『勉強の合間に休養を 散歩、仮眠、ペット、掃除…組み合わせて』という見出しの記事が掲載されました。『休養を学問として研究し、ベストセラーになった「あなたを疲れから救う 休養学」の著者で、一般社団法人日本リカバリー協会の片野秀樹代表理事に、休み方のコツを聞いた』という記事です。
 記事では、『高齢者より若者の方が疲労を感じている人が多かった』『(高校生は)約66%が日常的な疲労を抱えている』などの実態が紹介され、その背景として『睡眠不足や、スマートフォンの長時間利用などがある』という指摘もありました。納得です。そしてこれは、おそらく小中学生においても同じなのではないかと思われます。
 休養が人にとって重要であるのは昔も今も変わらないはずです。それなのに今、特に休養の注目しなければならないのは、『昔はパソコンやスマートフォンがなかったので、「隙間時間」には、ぼーっとしたり、周りの人と雑談をしたりして脳を休めることができました。そうした余白の時間が減っているからこそ、自分で意識的に休養を取ることが重要』だという指摘には説得力があると感じました。この説に基づけば、大人よりも小中学生の方が意識的に休養することが大事になると考えることができます。
  片野氏は、『休養には大きく分けて①休息、運動、栄養といった「生理的休養」②交流や趣味などの「心理的休養」③周りの環境を変える「社会的休養」』があると述べています。そして①の例として、『軽く歩いたり、立ち上がってつま先立ちを繰り返したり(略)白湯を飲んで体を温める(略)15分程度の仮眠』をあげ、②の例としては、『ペット、自然との触れ合いや、趣味、料理などの造詣活動を通じてやすらぎを得る』、③の例として『机の整理、掃除、洋服を着替える』などをあげていらっしゃるのです。
  私はこの記事を読んで、これらの「休養」をうまく学校生活に取り込むことによって、学びの質を向上させる、そんな取り組みが必要になってくるような予感がしました。現在の学校では、休み時間の過ごし方は基本的に子供に任されています。人は誰かに強制されて取り組むことのついては負担に感じるものですから、子供の選択は大切にしなければなりません。ただ、子供が望めば適切なタイミングで望ましい休養を取ることができる環境やシステムを工夫することは有意義です。
 校庭に遊歩道を作る、教室に白湯が飲めるポットを置く、手芸や編み物などができるコーナーを設ける、登校後に好きな私服に着替えることを認めるなど、各校で工夫できるのではないでしょうか。企業の取り組みなども参考にできそうです。特色ある教育活動の一つとして取り組む教委や学校が現れないものでしょうか。話題性はあると思うのですが。

 

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落第

2025-07-07 08:27:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰のために?」6月27日
 『的外れ 保育現場疲弊』という見出しの記事が掲載されました。こども家庭庁が『全ての子どもの育ちを支え、子育ての負担を軽減』という目的を掲げて試行した「こども誰でも通園制度」について、『子どもにも施設事業者にも負担がかかり、目的と実態の間でズレが大きい』ことを報じる記事です。ちなみに同制度は、『「保護者の立場からの必要性」に対応』する趣旨で、『6カ月~3歳未満の未就園児が対象で、利用時間は国が基本の上限を月10時間で設定』しています。
 記事の中に、『利用児は場所になれることができずに泣き続け、保育士2人は付きっ切りの対応に追われた。休憩の確保もままならず、担当外の保育士を投入したことも。同じ部屋で過ごす通常保育の在園児が活動に集中しづらくなり、保育士はフォローに追われるなど、保育活動全体にも影響した』という記述がありました。
 それはそうでしょう。1歳にもならない子供が、初めての場所、初めての人の中に放り込まれれば、不安で泣きじゃくるのは当然です。仮に4時間在園し、また10日後に今度は3時間となった場合、子供にとっては2度目の場所ではなく、やはり初めての場所、初めての人でしかありません。つまり、子供は毎回、初体験の不安を味わうことになるのです。
 こうした状況について、保育研究所所長村山祐一氏は、『限られた時間枠で子どもを慣れさせる仕組みは、大人からの一方的な押し付けだ。成長を支える目的が果たされていない』と非難なさっています。全く同感です。
 これは、保育園だけの、「こども誰でも通園制度」だけの問題ではありません。学校教育について考える場合にも共通する「大人のための改革」問題です。私はこのブログで、学校給食の廃止を提言してきました。教員の負担軽減と食文化の継承は各家庭ごとに家風に基づいて行うべきという考えからです。
 しかし、反対する人は、毎日昼食を準備するのは家庭の負担が大きい、という理由を挙げます。つまり、大人の都合からの反対です。私は中高と親に作ってもらった弁当を持って登校していました。良くも悪くも私の味覚はこの弁当で作られたと思っていますし、親の愛情を感じ感謝する気持ちも育むことができました。
 もちろん、親の都合、大人の事情を完全に無視するというのは非現実的です。しかし、大人の都合で、子供の育ちへの影響を無視してよいということにはなりません。少なくとも、保護者は自分の都合で子供に苦しい思いをさせているという自覚をもったうえで、制度の是非を考えるべきですし、行政は子供視点で施策をブラッシュアップすることを心がけなくてはなりません。
 また、「こども誰でも通園制度」における教訓はもう一つあります。それは、子供はものではない、ということを再確認する必要性です。毎日通い、トイレも園庭も廊下も部屋も馴染みの場所で、知った顔の仲間と知った顔の保育士がいる状況の子供、在園児にとっての3時間と初めての場所に保護者から置き去りにされた利用児にとっての3時間は、まったく違うものだということを理解するということです。
 工場で作られた「製品」であれば、どこの倉庫に置かれていても、温度と湿度が同じならば何の違いも生じません。しかし、人は、子供は違うのです。一人一人の子供が違う性格、違う育ち方、異なる個性をもっていることを失念し、もののように保育士の下においておけばOK、という発想そのものが、教育を語る者の発想ではないのです。
 さらに言えば、そうした発想は保育士という専門職への敬意を欠くものです。小さな子供を短時間預かることなんか誰にでもできる、と軽視する姿勢が丸見えです。異なる成育歴と個性をもつ大勢の子供に成長できる環境を保障する、それはとてつもない専門性を要することなのです。教員も含め、人に接する仕事の難しさ、それを担う専門性への理解なしには、教育は語れないのです。
 こども家庭庁、落第です。

 

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不信のシステム

2025-07-06 08:55:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「選択肢として」6月26日
  『女児画像共有2教員逮捕 盗撮容疑10人参加、SNSで 名古屋・横浜』という見出しの記事が掲載されました。『女子児童の盗撮画像を交流サイトのグループチャットで共有したとして、愛知県警少年課は24日、名古屋市立小坂小の教員、森山勇二容疑者(42)と、横浜市立本郷台小の教員、小瀬村史也容疑者(37)を性的姿態撮影処罰法違反(撮影など)容疑で逮捕した』ことを報じる記事です。
 記事によると、『チャット内では女児の着替え中の様子やスカート内などを盗撮した動画や画像約70点が共有されていた』『チャットは森山容疑者が管理し、全国の小中学校の教員10人程度が参加。校外学習の際に盗撮した画像などを共有し合い、「いいですね」「こんな機会があってうらやましいです」などと感想を送り合っていた』とのことです。
 言語道断です。いくら非難してもしたりません。しかしそんなことは私が言うまでもなく、誰しもが思い感じていることでしょうから、これ以上触れません。
 私が気になったのは、NPO法人「日本こどもの安全教育総合研究所」理事長宮田美恵子氏が語る「対策」についてです。宮田氏は、『教室の扉を閉めきらず、校長が目を光らせたりするなどして、「教員と児童が二人きりになる場面を作らせないことで事件を未然に防ぐこともできる」とする。また、「子どもが異変を感じた際、気兼ねせずに周囲の大人に伝えることができる雰囲気づくりも必要だ」』と話されています。
 もちろん、効果はあります。しかし、そんな常識的な発想では、こうした事件に対する防止効果は極めて限られたものに終わってしまいます。悲しいことですが、表面化しなかっただけで、女児を性的対象と見る大人は常に一定程度存在したと思われます。そして、教員の中にもいたはずです。しかし、近年になってこうした事件が急激に増えている印象があります。それはなぜか。撮影機能が付いたスマホの普及が原因です。
 昔の「変態教員」は、女児の画像を撮りたいと思っても、容易ではありませんでした。カメラを日常的に持っているわけにもいかず、更衣室に盗撮用隠しカメラを設置するのも、専門的な知識や機材が必要でした。また、それらは高価でもありました。だから盗撮ができなかったのです。別に、昔の教員は今の教員よりも倫理観や人権意識が高かったというわけではありません。
 体罰の様相や子供への接し方を見ると、昔の教員の方が体罰に抵抗感は少なかったですし、乱暴な言葉遣いや子供を召使のように私用に使うなどの行為も見られました。私のつれあいも、担任教員にタバコを買いに行かされたという「思い出」をもっています。
 つまり、教員の劣化を主原因として見るのではなく、環境の変化がこうした事件の増加の背景にあると捉えるのが正しいのです。そうだとすれば対策は、スマホなど情報機器への対応を中心に据えるべきことになります。
 具体的には、教員は出勤時に校長に私物のスマホを預け、退勤時に受け取るというシステムを導入するのです。また、更衣室を除く教室や廊下、体育館などには監視カメラを設置し、子供の在校中は常に作動させること、記録映像は1年間保存することをルールとして徹底させます。更衣室は鍵をかけ、毎朝複数の教員立会いで解錠し、その際に室内を点検することを義務づけます。
 移動教室等の学習活動の様子の撮影については、校長が指名した教員1名のみがカメラ等を持参し、撮影すること、帰校直後に校長が映像を確認することを徹底します。校内や校外活動中の緊急事態発生に対応するためには、病院などで使用している撮影機能のない院内携帯電話のようなものを準備し、教員は出勤時に校長から渡され、退勤時に返すという仕組みにするのです。
 これは、教員を信用しない、不信のシステムです。学校という教育の場に不信を前提としたシステムを導入することは、教員と子供・保護者の信頼関係を大きく損ないます。そのマイナスの影響は計り知れません。保護者の中に、我が子を守るためにぜひこうした制度を導入してほしいと考える人もいれば、そこまでしてほしくないと思う人もいるはずです。
 ですから、文科省や自治体、教委はこうした措置に必要な予算を見積もり、計上した上で各校ごとに保護者対象のアンケートを行い、導入の可否を決めることにするのです。そしてそれは毎年行い、ある学校では新たに導入することになったり、また別の学校では導入をやめるということも認めていくのです。もちろん、上記の方策のうち、あるものは採用し、別のものは見送るということもあってしかるべきです。
 最後に予算化ですが、導入時には大きな額になりますが、その後の維持費はそれほどかからないはずですので、実現性は高いと思います。

 

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それも「いいね!」

2025-07-05 08:43:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多様性の時代」6月23日
 読者投稿欄に、宇都宮市のI氏による『じゃないほう』と題された投稿が掲載されていました。その中でI氏は、女性活躍の推進という言葉を耳にするたびに、『活躍しなきゃダメですか』という思いが沸き上がってくると書かれています。
 『女性というだけで活躍できなかった人たちが、能力を発揮できるようになるのは喜ばしい。しかし、当然ながらこの国で働く女性全員が人の上に立ちたいと思っているわけではない。私のように置かれた場所で自分なりに頑張りたい女性だってたくさんいるのだ』ということです。
 そして、『上を目指す人も下から支える人も、働いている人も家庭を守っている人も、それぞれの持ち場で頑張れる世の中になればと思う(略)「じゃないほう」だって世の中には必要なんだぞ』という言葉で締めくくられているのです。
 共感しました。全くその通りです。しかし、I氏のような意見に対し、「組織の上に立つような生き方、多くの人から注目される生き方だけを推奨しているわけではない」という反論がありそうです。それはその通りです。今の時代、多様な生き方、働き方が選択できるというのが理想とされているのですから。しかしそれはあくまでも表向きには、です。
 学校のキャリア教育で、「就職したら、与えられた責任はきちんと果たし、たまには職場の人にありがとう、助かったなんて言ってもらえる人になりたい」などと口にしようものならば、自分で限界を決めて可能性を閉ざす発想として、否定的な評価を下されてしまうでしょう。特に女生徒が言った場合、昔から残る女性自らが女性を低く見る捉え方だ、と進歩的な教員からダメ出しをされそうです。
  そこで、周囲の反応や教員の思惑などの配慮して、学者や企業経営者、起業家、社会活動家や芸術家、政治家や高級官僚、弁護士や医師などの「夢」を語ってしまう生徒がいるのです。しかし、そのときだけ仮面をかぶっていればよいのならば、まだしも影響は限られますが、何回も繰り返しているうちに、そうした仮面を自分の本当の顔だと誤認してしまう生徒が出てきます。
 そうすると、その生徒は本当になりたい自分とかぶり続けてきた仮面とのギャップに苦しみ、常に「今のままでいいのか」と悩むことになってしまいます。誰でも「成功」を目指すことができる社会と、誰もが「成功」を目指さなければいけない社会は違います。むしろ、多様性が認められるという意味では正反対の社会です。
 私は、小市民という語感が好きです。英雄の時代よりも、小市民が日々の暮らしの中で小さな幸せを感じ取ることができる時代にあこがれを感じます。それが人として正しい感覚だなどというつもりはありません。ただ、そうした考えをもつ生徒に、建前ではなく本音で「いいね」といってあげられる学校であり、教員であってほしいと思います。

 

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押し付け可、押し付け不可

2025-07-04 08:32:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誤解」6月23日
 読者投稿欄に、神奈川県の高校生K氏の『作ってほしい「主権者教育」科目』と題された投稿が掲載されていました。その中でK氏は、『思想の押し付けと批判されるリスク』などの課題から、主権者教育の導入が進んでいないという見解を示し、『投票率を上げるために日本の教育界の人々には「主権者教育」の導入を真剣に考えてみてほしい』と訴えているのです。
 大変頼もしい若者です。ですが、一つだけ誤解していることがあります。それは、思想の押し付けと批判されるリスク、という考え方です。K氏だけではなく、国民の多くも誤解しているのではないか、と思われます。
 我が国の「主権者教育」においては、特定の思想を押し付けることは認められています。同様に、特定の思想を否定し排除することもまた認められているのです。我が国の学校教育は、民主的社会の形成者たる良き公民的資質を育成することを使命としています。
 つまり、民主主義、自由主義、法治主義、人権尊重などの価値観を、「押し付け」ることを「是」としているのです。また、独裁、個人崇拝、法を超える権力の存在、人種、宗教、性別等による差別などを否定し排除することも「是」としているのです。
 もっと分かりやすく言えば、中国や北朝鮮、ミャンマーのような体制を「悪」と判断できるようにするということです。もし、「習○○さんや金○○さんて、何でも自分でスパッと決めてすぐ実行する、カッコイイ」などという生徒がいれば、そのことの弊害について、いくつもの例を挙げ、生徒に話合わせ考えさせて、やっぱり独裁は良くないな、という結論に導く、そうしたやり方を積極的に認めているのです。
 教育には、どうしても「押し付け」や「強制」という側面、もっと強い言葉で言えば「洗脳」という側面が存在します。それは仕方のないことです。我が国の主権者教育は、民主を善、独裁を悪とする思想を押し付け、強制し、洗脳することを認めているのです。それは人類にとって普遍的な善であるという確信に基づいています。
 物価が上がって生活が苦しいという国民がいる、ではどうするか。給付金を配るという考えがあります。みんな一律に配るという考えと低所得者に限定して配るべきという考えに分かれます。そうではなく消費税を下げるという主張もあります。下げるのではなく廃止だという人もいれば、消費税は大切な福祉財源だから下げるのは食料品だけでいいという提案もあります。
 我が国の主権者教育では、この中のこれがいい、と押し付けることは禁止されています。それはK氏が懸念する思想の押し付けそのものだからです。ですからあくまで「考えさせる」止まりです。そして出した結論に正解はなく、視野の広さと論理性が評価されるだけです。
 押し付け批判にビクビクし、独裁や人権侵害、法の支配の逸脱を「そういう考え方もあるね」と容認するのは、我が国では主権者教育とは呼びません。

 

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否定が正解?

2025-07-03 08:43:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「支持せず、が正しい?」6月23日
 『「反自衛隊」の意識変化 県民の世代交代 増える容認派』という見出しの記事が掲載されました。沖縄県民の意識について、『日本に復帰すると、県内に自衛隊が配備された。当初は「反自衛隊感情」が強く、隊員の住民登録を拒否する自治体もあった(略)22年に沖縄県在住者を対象に実施した世論調査では、自衛隊の強化に賛成が40%、「どちらともいえない」が32%、反対が28%。18~34歳では肯定的な意見が多く、賛成が47%、反対派21%だった』という結果を報じています。
 そしてその背景として、『(沖縄)県内では6月の「慰霊の日」前に沖縄戦に詳しい人から話を聞く機会を作るだけの学校も多い。学校や家庭で沖縄戦や基地問題について学び、話し合う機会が減っている』を挙げています。要するに、平和教育が充実していないから、自衛隊肯定派が増えているということです。
 沖縄の平和教育が、体験者から話を聞くという形が主流になっているということは、私が再三このブログで指摘してきた、戦争の怖ろしさを強調する情緒的平和学習にとどまっているということであり、それだけでは戦争を未然に防ごうと考え行動する戦争阻止教育=真の平和教育になっていないという、私の主張を裏付ける結果とも言えます。
 そのことは繰り返し述べてきたので、これ以上触れません。今回私が気になったのは、この記事が、平和教育が充実すれば自衛隊への支持は減るはずだ、という発想で書かれていることであり、自衛隊を支持しないことが平和を求める国民として正しい姿だ、という考えを根底に秘めているということです。
 そうなのでしょうか。50年前のように、全国各地で、自衛隊員の子供は入学を認めないというような運動が広がる状況が望ましいというのでしょうか。私は違うと思います。それこそ、戦争のメカニズムに無知な、戦争の歴史を知らない人の言うことだと思います。
 過去の戦争を見ると、戦争と戦争の間の期間に、軍人が軽んじられ、軍人や軍隊が自分たちは不当な扱いを受けていると不満を募らせているときに、戦争の芽が育ち始めているのです。軍はその恨みを忘れず、自分たちの存在価値を認めさせたいという願いをもつようになり、それが戦争開始の圧力となるのです。
 我が国の歴史においても、第一次大戦後、軍人への軽視の風潮が強まり、軍人は軍服で外出するのを避けるようになったということが記録されています。娘の嫁ぎ先として、軍人だけはダメだというような考え方も広がっていたそうです。
  自衛隊否定が戦争を遠ざけるのではなく、かえって戦争を引き寄せてしまう可能性さえあるのです。自衛隊は、災害救助などにより、国民の信頼を得つつあります。殺さない「軍隊」としての歴史を積み重ねてもいます。実際問題として、一定の軍事力が他国の侵略意図を低下させることも事実です。
 自衛隊を過剰にでも過少にでもなく、正当に評価することは、戦争を阻止し、平和を構築する上で必要なことなのです。もちろん、国民による統治、政治によるコントロールの大原則を厳しく適用しながら、です。
 平和教育における自衛隊の扱い方をどうするか、教員は研究と研鑚を重ねなければなりません。

 

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現実的不正義

2025-07-02 08:21:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「トランプ流はダメ」6月21日
 『イスラエルへの自制促しは困難 トランプ氏』という見出しの記事が掲載されました。トランプ氏が、『イスラエルに対してイランへの攻撃をやめるように促すことは「非常に難しい」と述べ、交戦で優位な状況にあるイスラエルを抑えるのは困難だとの見方を示した』ことを報じる記事です。
 トランプ氏は、ロシアのウクライナ侵攻について、大統領就任前に24時間で解決できると豪語していました。いまだに何ら進展がありませんが、これまでの発言から、「劣勢な方が譲歩するのが現実的解決であり、正義不正義は関係ない」という考え方をしていることは明らかです。
 今回も同じです。正義不正義、戦争で言えばどちらが先に侵略攻撃をしたかには関係なく、今優勢な方の主張が優先されるべきという考え方です。優勢であるイスラエルが戦争は止めないと言っているのだから止めさせられないという理屈です。最悪です。
 しかし、こうした考え方を現実的という一点から支持する人もいるようです。スケールは違いますが、同じような発想で問題解決に当たろうとする人たちがいます。それは、いじめ問題を加害者寄りの立場で解決しようとする教員や学校管理職たちです。
 いじめ問題は、常に加害者側が優勢です。人数も多いですし、学級内の影響力も上回っていることがほとんどです。学級内世論も、加害者側がコントロールしているケースが多いのです。そうした背景の中で、教員は「多くの子供が納得する解決には、加害者側の顔を立て、メンツを守ることが現実的で早期の実現が可能」と「冷静に」判断します。
 そこで形式的正義、つまり表面的な軽い謝罪、「いじめているつもりはなかった。ふざけて遊んでいるつもりだった。そんなに嫌な思いをしているなんて思いもしなかった。でも嫌な思いをしていたのなら、それに気付かずにごめんね」という謝罪と、悪意はなかったんだから許すのが人の道という倫理観の押し付け、その裏には謝っている相手を許さないというのなら今度はお前が悪者だからなという脅しで、双方に握手をさせ、「これでお終いにしよう。みんな同じクラスの仲間なんだから」という教員の終結宣言で解決を装う、ということです。
 こんな茶番を解決と呼ぶならば、トランプ氏ではありませんが、どんないじめも24時間で解決してみせると豪語したくなります。いじめも戦争も、正義という観念抜きには真の解決はあり得ません。
  いじめ問題解決における正義は、人権の尊重です。極端なことを言えば、被害者が加害者とは絶対に口を利かない、永久に許さないと考えているならばそれでよいのです。被害者が自分の人権が尊重された、人として認められたと考えるならば、加害者との人間関係の修復など不要なのです。学校はまず第一に正義の実現を目指す場所でなければなりません。

 

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トランプ氏と同じ

2025-07-01 08:13:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「将棋より麻雀?」6月21日
 書評欄に、作家佐藤優氏による『「老いの思考法」山極寿一著 文藝春秋』についての書評が掲載されていました。その中に気になる記述がありました。『類人猿は自分と相手の2者間で交渉する際に相手の考えを読むことができますが、人間は3者間、4者間の社会交渉でそれぞれが何を考えているかを推し量ることができます』という記述です。
 この記述を読み、正直少しがっかりしました。私は類人猿に近いのではないか、と思ったからです。私は将棋が趣味です。自分ではやりませんが、新聞の囲碁欄にも目を通します。ですが、マージャンは大嫌いです。誘われたことはありますが、断固として断りました。理由はというと、自分以外の3人の相手について心を読まなければならないのが鬱陶しいのです。混乱してしまいますし、落ち着いてじっくり考えることができないのです。
 その点、将棋はたった一人の相手の心だけを読めばいいのです。楽ですし、深く掘り下げることができます。スポーツでも同じです。バレーボールは好きではありません。12人が一つのコートで同時に動く、やはり混乱してしまうのです。中高と部活は卓球部でした。1対1で向かい合う方が性に合っています。教員になってからも、新たに馴染んだのはバドミントンと軟式テニスでした。やはり1対1です。
 つまり私は4者間の社会交渉は苦手な類人猿型の人間なのだと思い、遅れた人間であるような気がしてしまったのです。まあそれはともかく、学校教育では、類人猿型ではなく、大勢の人々と同時に関係性をもつことができるタイプを目指すべきであることは言うまでもありません。
 特にネットを通じた交流が多くなり、自分と同じタイプの「仲間」都の交流ばかりが増えていく現在、意図的に大勢の人の心を読んで行動できる能力は大事です。一時期、学校教育に囲碁を取り入れるという取り組みが注目を浴びたことがありました。もちろんそれも悪くはありませんが、大勢の、ということを考えると麻雀の方が望ましいのではないでしょうか。
 また、読書や映画やドラマの鑑賞も効果がありそうです。スポーツも大勢が同時に動くもの、ラグビーやサッカー、バスケットなどが有望ということになります。と、ここまで書いてきて何かおかしいという思いも湧いてきます。広く浅く型ではなく狭いけど深い洞察をするタイプの人間も必要なはずですから。ただ、差別的な意味ではなく、類人猿型の子供にも、その逆の型の子供にも、今の自分に足りないものを身につけさえるための意図的な選択肢の提示という視点で考えてみることはあってもよいと思います。
 ところで、多国間の協議を嫌い、二国間のディールを好むトランプ氏、典型的な類人猿型なのでしょうか。私は彼とは反対のタイプでいたいのですが。

 

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