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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

見てるだけでいい

2025-06-30 08:15:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嫌なんだけど」6月21日
 『広がる「ペット婚」 当世結婚式 主役は嫌!?』という見出しの記事が掲載されました。『近ごろはペットを前面に押し出した「ペット婚」が定着しつつあるらしい。新郎新婦たちが「目立ちたくない」「主役になりたくない」と考えるためだとか(略)令和の結婚式事情を探ってみる』という趣旨の記事です。
 私は犬も猫も大嫌いです。ペット婚など想像もできません。でもそれはここでは触れません。気になったのは次の記述です。『最近は「ゲスト全員が参加できるイベントがしたい」との声も多い。例えば、クイズだと、テーブルごとにチームを組んで対抗戦にするといった具合だ。新郎新婦とゲストとの距離を縮めるため、新郎新婦のメインテーブルをなくしてソファにすることもある(略)ウェルカムスペースで自撮りができるように鏡を置いたり、ゲストが一筆ずつ描いて完成させる絵画を準備したりと、ゲストの参加を促す取り組みが多い。インスタントカメラやレンズ付きフィルムをテーブルごとに準備して、周囲の様子を撮影してもらうことも珍しくない』。
 最後に結婚式に出席したのは、もう15年ほど前になります。最近の結婚式事情は全く知りませんでした。私はこの記事を読み、こんな結婚式には招待されても出席したくないと思いました。
 理由は、結婚式で何かさせられるのは嫌いだからです。私が教え子などの結婚式に呼ばれたころ、よくあったのが新郎新婦への寄せ書きでした。字が下手なこともあり、これが苦痛でした。気の利いた言葉を考え出すのも苦手でした。自意識過剰な面があることは否定しませんが、おかしなことを下手な字で書き、「先生」の権威を損ないたくなかったのかもしれません。
 それなのに、今では、同じテーブルの初対面の人と一緒にクイズをするというのです。嫌ですね。周囲の写真を撮る、センスが問われそうです。嫌ですね。私は、静かに飲食しながら、「○○さん、卒業してからそんなことがあったのか」などと感慨にふけりたいのです。私にとってそれが良い結婚式なのです。
 結婚式に関していえば、もう呼ばれることもないでしょうから、どうでもよいのですが、私は似たようなことが学校でも行われているのではないか、と考えました。授業参観日、我が子の様子を見て安心し、ホッとした気持ちで帰宅し、下校してきた我が子に「教は頑張っていたね」と声をかけ、夕食には少しごちそうを奮発する、そんな昔風の授業参観を好ましく感じる人はいるはずです。
 しかし、せっかく保護者が来校したということで、親子で共に体験学習、などの企画をする学校が増えているように思います。子供をよく知ってもらいたい、家庭とは異なる学校における我が子の姿を見てほしい、学校の教育活動への理解を深めてほしい、そんな善意に基づく試みです。
 でも、そんな配慮が裏目に出て、いろんなことをさせられるのなら授業参観は欠席しよう、と考える保護者もいるのではないでしょうか。授業参観に限らず、学校でも、保護者とともに活動という発想で、行事等が組まれることが増えています。それが、学校に行きづらいという意識を生んでしまうとしたら、本末転倒になります。
 そんなことを考えるのは私だけでしょうか。思っていても言い出せない保護者はいると思うのですが。

 

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専門分野のはずなのに

2025-06-29 08:29:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知ってる?」6月19日
 『小学生向けピル外来誕生』という見出しの記事が掲載されました。『初潮を迎え、生理痛などの不調を抱える小学生からの女性が受診できるピル外来が東京都内に誕生した』ことを報じる記事です。
 記事には、『思春期は子宮の過収縮による生理痛などの月経困難症が多い』『不妊の原因にもなる子宮内膜症も10~20代で増加』『生理痛については43%が「我慢している」、35%が「薬で我慢している」、15%が「勉強や体育がつらい」』などの実態が紹介されていました。
 そして、『小中高生らが婦人科を受診する心理的ハードルは高い』『ピルには否認目的のイメージが強く、敬遠されがち』『婦人科では「内診台での診察が必須」と勘違い』など、医療に結びつきにくい状況も記されていました。
 私自身、知らないこともありました。つれあいが高校生のときに婦人科の診察を受けに行ったとき、緊張して体が硬くなり、診察を受けられなかった話を聞いていたにもかかわらず、心理的なハードルの高さについて真剣に考えたこともありませんでした。ピルについては知っていたものの、私の現役時代には今ほど使われておらず、小学生に~など考えることもできないことでした。
 猛省するとともに、さすがに今の学校では改善されているはずと思っていましたが、記事では『生理痛がつらく、体育のマラソンを座って見学したいが、男性の熱血系教師に「ゆっくり走れ」と促され、座らせてもらえない』という声が掲載されていました。何たることでしょう。体育の教員ということは、体の仕組みについては他の教科の教員よりも詳しいはずですし、保健の授業で生理や生理痛などについて指導する立場であるはずです。それなのに、この無知さかげんは犯罪的です。
 性教育について、いろいろな議論がなされていますが、その前にまず教員が生理や生理痛、ピルの効果などについて正しい知識をもち、子供たちと向き合い、保護者にもアドバイスができるようにならなくてはいけません。各教委はそのための研修機会を設けるべきです。早急に。
 まさか、ピルについて教えると、安易な避妊につながり不純な性行為が蔓延してしまう、などと主張する寝ぼけた反動派に遠慮しているなんてことはないでしょうね。

 

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刑事の勘は無視できない?

2025-06-28 08:42:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「珍しい」6月19日
 『中3英語スピーキングテスト 量と質 効果検証を』という見出しの記事が掲載されました。『中学3年生を対象に、2022年から導入された「英語スピーキングテスト」(略)英語教育に詳しい明治学院大の新多了教授に、スピーキングの必要性や同テストの方向性について聞いた』記事です。
 私はこのブログで英語教育についても再三触れてきました。しかし、今回は英語教育とはあまり関係のないことについて述べます。新多氏は、英語スピーキングテストについて、『コストに見合う効果があるかどうかで判断すべき』と述べています。そして具体策の一つとして『生徒の点数が上がったかどうかという「量」と、教員が子どもたちの能力向上を感じられるかどうかという「質」の両方を検証した方がいい』ともおっしゃっているのです。
 今どき、とても珍しい見解です。いけないと言っているのではなく、最近このようなことを口にする「専門家」はほとんどいないという意味です。私自身は、新多氏の考え方に賛成です。
 私が着目したのは、『教員が生徒の能力向上を感じられるかどうかという「質」を検証すべき』という指摘です。これは極端に言えば、教員の感じ方、直感のようなあいまいな感覚を尊重すべきという主張に他なりません。専門家の勘を信用するということでもあります。
 現在、企業でも行政でも、エビデンスに基づく意思決定が正しいという考え方が主流になっています。それは、情報公開につながる考え方で、意思決定の理由を住民やステークホルダーに説明するためには、エビデンスに基づかなければならない、ということが半ば常識のようになっているのです。そこでは、現場の人間の勘とか、感じ方などを持ち出す余地はありません。
 学校教育における施策の立案と実行においても事情は同じです。テストの結果によって自作の効果を検証するということは広く受け入れられても、教員の「何だか生徒のやる気が感じられないんですよね」というつぶやきが重んじられることなどないのです。新多氏の提言は、そうした意味で画期的なのです。
 ドラマでは、「刑事の勘」などという言葉がよく登場します。多くの場合、若手の刑事やデータ重視の管理職から時代遅れと疎んじらながらも、最終的にはベテラン刑事の勘が事件の解決に寄与するという流れが多いようです。
 現実が同じであるかどうかは分かりません。しかし、人々の心の奥底に、長年その分野に従事してきた者の「勘」には何か理屈では説明できない真実が含まれている、という神話が生き残っているのではないでしょうか。
 教育政策における現場教員の感じ方や捉え方を生かすすべはあるのか、研究課題としてもよいのではないでしょうか。

 

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知恵者にかかれば自由自在

2025-06-27 08:40:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当は知っていたはず」6月18日
 『農水省 コメ在庫量調査へ 今月末時点 小売業者も対象』という見出しの記事が掲載されました。農水省が『国に届け出ている全てのコメの出荷・販売業者に対し、食糧法に基づき、6月末時点の在庫量の報告を求める調査を実施すると発表』したことについて報じる記事です。
 記事によると、『大規模な在庫調査は現行のコメの流通制度となった2004年以降で初めて(略)国のコメの需給見通しが正しかったかどうかを検証する材料にもする』とのことです。20年以上、不正確な調査を行い、それに基づいて農政を行ってきたのか、と驚く人もいるかもしれません。私もその一人です。
 と同時に、もっと恐ろしい想像もしてしまいます。それは、今回の騒ぎになるまで、調査の不備に気付かなかったというミスがあったのではなく、調査に不備があることは百も承知だったが、自分たち(農水官僚や農水族の政治家)にとって都合の良い数字を出すことができるやり方を続けようという確たる意思の下で、調査を続けてきたのではないか、という勘ぐりです。
 私は長年教委に勤務してきました。巨大な利権が絡む農水省とは比べものになりませんが、一応行政機関です。行政機関である以上、思い付きや勘で施策を打ち出し、実行するわけにはいきません。説得力のあるデータが必要です。そこで、「調査」が行われます。
 しかし、この「調査」というのが曲者です。意図的にあることについては訊かない、選択肢を増やしある回答に集中するのを防ぐ、設問に否定的な事実を潜り込ませ回答を誘導する、回答者をある立場のものに限定する、自由記述を増やし賛否様々な意見があったと集約するなど、自分たち(行政側)にとって着手しやすい施策への指示が増えるように誘導する手立てをとることもあったのです。
 さすがに、調査結果を改竄することはしませんでしたが、調査をする段階で「悪だくみ」をすることは、むしろ知恵者として認められるような雰囲気さえあったのです。そして私たちのレベルでは、こうした「悪だくみ」は個人的な利益や損得勘定で行われるのではなく、施策の実現、早期着手など、主観的には「善意」に基づいて行われるケースがほとんどだったのです。
 一見すると公平・公正なものと思われる調査や情報収集にも、担当者の「善意」から偏向や不備が生まれ、長い間にそれが慣習として疑いもなく定着していったしまう、そんな怖ろしさがあるのです。今も文科省や教委の行う調査にそんなものがあるかもしれません。

 

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友達はいなくなっても

2025-06-26 08:14:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうすれば」6月17日
 オピニオン編集部小国綾子氏が、『NO!と言えるために』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『NOって言えたら、自分を守ることができるし、まわりの人に大切にしてもらうことができる。そうやって私たちは大きくなるんだ!NOと言えるようになったとき、自分が決めたYESが言えるようになる』という『NO!と言えるようになるための絵本』の言葉を引用して紹介なさっています。
 そして、『必要な時きっぱりとNOと言えるようになるには幼い頃からの練習が必要ではないか』ともおっしゃっています。全く同感です。コラムでは、同絵本に書かれた『具体的な提案』も紹介されています。『自分の中の小さな声に耳を傾けてごらん』『小さい紙にNOと書いてポケットに入れておくと勇気が出る』『一人で言うのが難しい時は信頼できる人を見つけよう。きっと手伝ってくれる』などです。
 正直ガッカリしました。これらの方法で、NOが言えるようになるとはとても思えないからです。昔、「NOを言える日本」という本がありましたが、ノウハウ本というわけではありませんでした。まして、小学生を対象にした、心構えだけを述べるようなものではなく具体的に役に立つものとなると全く思いつきません。
 実は私は、自覚はありませんが、相手の気持ちや場の雰囲気を無視して「NO」を口にしてしまう人間のようなのです。ですから、自分はどんな人かということを基に考えれば、多少は役に立つ考えが浮かぶのではないか、と思いました。
 まず、迎合的な相槌をうたないということです。「そうですね~」「なるほど~」などと相手の言葉を受けとめてしまうと、その後に否定や拒絶の言葉を口にすることは難しくなってしまいます。「ちょっといいですか」「そうかなあ」などと納得できていない、質問がある、という反応を口にすると、少なくとも本意ではないYESを言わずに済みます。
 もう少し否定の度合いを上げるとすれば、「ごめんね」と返すことです。この言葉を出してしまえば、もうYESは言えません。しかも最初に同意できないことを謝ってしまっているのですから、相手のきつい言葉で追及しにくくなっているはずです。
 また、比較的使いやすいのが、「どういうこと、よく分からない」という対応です。NOという立場を自分の中で確認しながらも、もう一回最初から話させることで、断り方を考える時間を確保するのです。できれば、二回目の説明を聞く際には、盛んに首を傾げたり、頬を膨らませたりして、疑問が高まっていることをさりげなく伝えるようにするといいでしょう。
 こうしたことを繰り返し、この人は「断る人」という評判が立つようにすれば、よりNOを言いやすくなります。でもその結果、私のように友達がいなくなってしまうという状況に耐えなくてはいけなくなるかもしれませんが、迎合で結ばれる人間関係ならない方がましと割り切ることも必要です。
 学級内の人間関係を大切に考える教員には役に立たなかったかもしれませんね。

 

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中高では無理でした

2025-06-25 08:28:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「性教育で取り上げたら」6月17日
 『性風俗の除外 最高裁「合憲」』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナ対策の持続化給付金などの対象かた性風俗事業者を除外した国の規定が、法の下の平等を定めた憲法14条に反するかが争われた訴訟の上告審判決』について報じ、解説する記事です。
 記事では、『デリバリーヘルスは、子どもの健全な育成を阻害しないように営業場所が限定されるなど様々な規制が設けられていると指摘。規制がなければ風俗環境が害される恐れがあるという現行法上の位置付けからすれば合理性を欠くとはいえない』と判決理由が要約されていました。
 さらに、『裁判官の個別意見に目を向けると。職業差別を容認するような誤ったメッセージとならないように配慮』されているとも指摘されていました。私はこの問題について、地裁判決段階で、職業差別という視点で教材として取り上げ議論させることを提案しました。今、上告審判決が出た段階で、この問題を「性教育」の領域で取り上げることはできないのか、考えてみました。
 そもそも「デリバリーヘルス」という事業がなぜ存在するのか、社会にとって必要なのか、ということについて考えさせることによって、性の問題の本質に迫ることができるのではないか、ということです。
 性教育の歴史をたどれば、昔はいわゆる「純潔教育」でした。欲望を抑え、淫らな行為を慎むことが大切とされてきました。ときは移り、現在では、性は恥ずかしいこと隠さなければならないものではなくなり、性の自己決定権も認識されるようになってきています。その前提に立って、デリバリーヘルスが子どもの健全な育成を阻害するものと位置づけられていることの適否について考えさせるのです。
 それは、愛情の発露や人間同士の絆としての性とは異なる欲望としての性、快楽としての性について考えるということでもあります。そしてそうした側面こそ、我が国の性教育が「苦手」としてきたことでもあるのです。
 外国の事例、宗教による違い、売春の歴史、様々な面からのアプローチが考えられます。中高では難しいでしょうから、大学での取り組みはどうでしょうか。あれ、大学には「性教育」ってないんでしたっけ?

 

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3つともに不満が

2025-06-24 08:21:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「3つとも不満」6月16日
 勝田友巳氏が、連載コラム『映画のミカタ欄に、『戦争を記憶する』という表題でコラムを書かれていました。その中で藤田氏は、『日本の戦争映画の基調は「反戦」だ。鑑賞後に「だから戦争はいけない」と考えさせる』と述べ、『いくつか傾向があ』ると指摘なさっています。
 そして、『一つは「非人間多岐な戦場や軍隊が、人間を狂わせる」(略)もう一つは「罪のない庶民が理不尽な暴力に苦しめられる」(略)それから「未来を担う若い命が、理不尽に奪われた」』と、具体的な作品名を挙げて解説なさっています。
 分かりやすい解説でしたし、映画について博識さには脱帽させられました。ただ私は、そこに日本人の戦争観、ひいてはそうした戦争観を植え付けてきたことに一役買ってきた戦後の「平和教育」に対する物足りなさを感じてしまいました。
 これらには、戦争を起点としてそれが及ぼす負の影響を描くという機能しかなく、なぜ戦争を防ぐことができなかったのか、誰が戦争への道を推し進めたのか、どうすれば戦争を防ぐことができたのか、と考えさせる機能に欠けていると思うからです。
 さらに、3つのパターンに共通するのは、描かれる人々は受け身の姿勢だということです。最初の例では、人々は狂わされる被害者ですし、次の例でも苦しめられる被害者です。そして最後の例も未来を奪われた被害者です。ただ、戦場に駆り出された兵士、銃後の民間人で主に女性や子供、若人と微妙に立場が変わるだけで、加害性のない被害者です。
 私は戦後行われてきた「平和教育」が戦争の悲惨さを強調する情緒的なものが主流になっていると批判してきました。戦争という事象を、歴史的、文化的、経済的、地政学的に分析し、戦争学とでもいうべき領域を構築して、戦争に至る萌芽や経緯、戦争を食い止めるための行動や思想などについて子供の発達段階に応じて学ばせる、科学的、論理的な戦争阻止学的な学びこそ「平和教育」の名にふさわしいと訴えてきたのです。
 映画の作り手は、見てもらえる映画を作ろうという本能のようなものをもっていると思われます。ですから、国民がどのような戦争映画を望んでいるかを肌感覚で把握しているはずです。そしてそれは、今回の勝田氏の戦争映画分析にあるように、戦争は避けられない歴史上の大きな歯車のようなもので、それに押しつぶされる善良で力のない庶民を描けば共感が得られるという物語なのです。
 これでは次の戦争は防げません。よく考えることなく異論を排し、自分と異なる意見の者を敵視し、プロパガンダに熱狂し、法や制度や慣習を無視するリーダーを救世主と勘違いする、これらこそが戦争への道の第一歩であることに警鐘を鳴らすような平和教育が待たれます。

 

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システムだけを作っても

2025-06-23 08:23:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「馬耳東風」6月14日
 『私学生徒の権利 誰が守る いじめ・ハラスメント対応「自主性」の壁』という見出しの記事が掲載されました。『部活動の顧問からいじめやハラスメントを受けて学校や自治体に相談しても、対応してもらえない(略)私立学校は公立学校に比べ行政による指導監督権限が及びにくい』ということで、『私立に通う児童・生徒の権利が侵害された場合の救済機関の必要性を訴え』る記事です。
 記事では、『「私学の自主性」が「私学の治外法権性」を生み出している』との指摘がありました。その通りです。物事には、ある面での長所が別の面では短所として働くという場合があります。というよりも、ほとんどの場合がそうなのです。記事では、私学の自主性という長所はそのまま残し、治外法権性という短所だけ取り除くことが主張されていますが、そんなことは不可能です。私立校とはそういうものだ、と理解した上でそれでも私立校を選ぶのか否か、と保護者が自問自答して判断すべきなのです。
 私は、教員時代に私立や国立の教員も含む勉強会に参加していました。学習院や成城、成蹊、学芸大附属などの教員と共に、授業の在り方について研究し、勉強会後はお茶を飲みながらそれぞれの学校について情報交換しました。「皇族の方は何と呼ぶの?名前で?様付で?」「宮様、そういうことはしてはいけません、とか言うんだよ」などという会話を交わしたものでした。
 そのとき、公立校とは異なる慣習や感覚に驚かされたものでした。でもそれが校風なのでしょう。私立の治外法権化の改善とは、端的に言って、独自の校風を変え公立化するということです。そして公立化の要点は、監督指導機関が飴と鞭をもつということです。言い方を変えれば、飴と鞭なしに、仕組みだけを作っても効果はないということです。
 私立校がいじめやハラスメントを隠蔽し、対応しなかったとします。行政が、「きちんと調べ、報告しなさい」と言います。私立校は「学校内に調査委員会を設け、関係者にヒアリングしました。その結果いじめもハラスメントもありませんでした」と報告してきます。おかしい、そんなはずはないと思っても、それ以上何もできません。再調査を命じても同じ報告が返ってくるだけです。
 公立校ではそうはいきません。なぜか。それは人事評価と異動、懲戒権を教委=行政がもっているからです。私は現役時代都内某市の指導室長をしていました。40代の若造です。それでも50代の校長や教頭は、私の指示に従い(表面だけだったかもしれないが)、調査報告、対応をしていました。私が「この報告書ではダメ」と言えば、徹夜してでも新しい報告書を作り持参してきました。
 それは、私が実質的に教員人事の権限を握っていたからです。数百人の教員の昇給順、市内での異動先、教頭、校長への昇任、都教委への処分の内申、形式的には教育長の職務でしたが、指導室長である私が作成した案に部長と教育長は承認印を押すだけというのが実態だったのです。
 ついでに言えば、教員人事も校長にとっては重大な関心事です。問題のある教員、処分歴のある教員、指導力不足の教員を自校に配属させられては学校経営がうまくいかないからです。指導室長は、そんな「いじわる」もできる権力者だったのです。
 こういう鞭があるから、治外法権は成り立たないのです。私立校に対して管理監督権限をもつ行政部署を設けるということは、その部署の長に人事権、懲戒権という鞭をもたせることなしには機能しないのです。しかし、そうした鞭を持たせれば、私立校の自主性や校風、特色は色あせていきます。すぐには変化が見られなくても、10年、20年の間には、団栗の背比べのような私立校が並ぶことになるのです。
 それでもよいというのなら話は簡単です。あなたはどちらを選びますか。

 

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ただ、はない

2025-06-22 08:18:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これもバラマキ?」6月16日
 読者投稿欄に、茨城県I氏による、『「ゴミを捨てる」は便利だが…』と題された投稿が掲載されていました。その中でI氏は、3日掲載の『導尿カテーテルの捨て場所ほしい』という投稿や、ご自身の子育て体験として『おむつを替える場所はあっても、おむつ用ゴミ箱がない所も多く、よく自宅に持ち帰っていた』ことを例に、『外出時に捨て場所があったら便利ですが、自分の代わりに、仕事としてそのゴミを処分してくれる人がいます。その分は利用料や税金に反映されます』と述べ、『どこまで便利さを求めるのか』と問題提起されているのです。
 とても興味深い指摘であり、問題提起であると思いました。今、私たちは様々なことを「権利」として求めます。子供の登下校時の安全確保、巡回警備員を配置すれば、税金が人件費としてる使われます。学校給食は、保護者の負担以外に補助金が支出されています。部活に外部指導員を導入すれば、新たに人件費が生じます。
 学校教育における「要望」も、その多くは税金という形で、誰かの何らかの負担によって成り立つものです。目に見える予算措置などがない場合は、どこかにしわ寄せがいっているものです。教員のサービス残業で部活動の指導が成り立っていたように。
 そうした社会の原理に無頓着に、権利の行使といわんばかりに「要望」ばかりする人、「要望」が受け入れられないと不満をもつ人、そのくせ自分が何らかの形で負担を負わされることになると文句を並べる人、そんな人が少なくないように感じます。そうした人には、I氏のような思考法を身に付けてほしいものだと思います。
 最近、選挙が使づくと、減税や給付金などのバラマキを「公約」として打ち出す政党や政治家が目立つようになりました。有権者も安易なバラマキには批判的な目を向けるようになりつつありますが、どこに出かけてもごみを持ち帰る面倒をなくすためにゴミ箱を整備します、という「公約」にも、ある意味人気取りのバラマキという側面があるということに、I氏の投稿は気づかせてくれます。
 ある施策の導入を考えるときに、それは一人一人が自分の責任で取り組むべきものなのか、そうであるにもかかわらず便利だからと「公」に要求してしまっているものなのか、一度立ち止まって考える習慣をもつべきだと思います。
 まず、中高の運動系部活動の指導について考えてほしいものです。教員のサービスによる場合でも、公費で指導員を確保する場合でも、非部員の生徒と部員の生徒の間に公平性は保たれているのか、など。
 

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子供を信じ、可能性を信じ……、という放置の言い訳

2025-06-21 08:40:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「30年前の論争」6月14日
 読者投稿欄に、愛知県大学生K氏による『子どもの個性伸ばせる教師目指す』と題された投稿が掲載されていました。その中でK氏は、『子どもたちには幅広い自由な考えを持ち、個性を伸ばしてもらいたい。そのためのサポートができたらと考えている。今後も多様な意見や表現を受け入れる姿勢を大切にしたい』と書かれていました。
 今から30年ほど昔、学校教育をめぐっては、個性尊重、個性を生かし伸ばす教育などの言葉が叫ばれていました。新米指導主事だった私は、個性尊重と基礎基本の徹底ということについて、学校に、教員に伝えることが仕事の一つになっていました。
 個性には伸ばしてはいけないものもある、伸ばしてはいけない個性を撓め修正するのが教育の役割、読み書き算盤に代表される基礎基本という土壌があってこそ個性という花が開く、など当時使っていた言葉がいくつも思い出されます。
 学校教育の世界は流行に飛びつくのも早いが忘れ去られるのも早いという特徴があります。こうした議論は数年で治まり、教員や学校の関心は別の問題に移っていきました。しかしそれだからこそ、この問題についての共通理解は深まらないまま現在に至っています。
 本当に人は自由な考えをもってよいのでしょうか。私は、トランプ米大統領やプーチン露大統領、ネタニヤフ首相のような考え方や価値観をもつ人が増えてほしい、とは思えません。
 個人名を出すのは止めましょう。周囲の人の迷惑など無視して自分さえ良ければそれでよいと考える人、優秀な自分は愚かな他人たちとは異なり特別な待遇を得るのが当然だと考えている人、受けた恩は水に流し受けた仇は岩に刻む執念深い人、みんな嫌です。私に子供はいませんが、我が子がそうした人に育ってほしくないと思います。
 子供のころから人を殺してみたかったから殺してみた、と平然と話す殺人犯、人が苦しむところを見たかったと語る連続殺人犯、そんな個性は伸ばしたくないと考えてしまいます。他人は自分に尽くすのが当然と感じ感謝の念をもたない人、店員に「俺は客だ」と上から目線で怒鳴りまくる人、強面の人には黙っているけど弱そうな子供や高齢者にはわざと体をぶつけ「気を付けろ」と怒鳴ることで憂さ晴らしをする人、どんな育ち方をしてきたんだろうと思ってしまいます。
 私は、個性には大事に伸ばしていくものと、矯正することで社会の中に居場所を作ってあげるべきものがあるという立場です。そして、実際に教員になってみると、この矯正ということが思いのほか難しいということに気づきます。
 特に、個性伸長が絶対的な善というイメージで捉えられている場においては、指導をせずに放置することには「子供の個性を尊重したかった」という言い訳が通用する面がありますが、必死に矯正を図る行為は「子供を枠にはめようとしている」という批判がついて回るだけに、です。
 K氏のような教員を目指す若い人には、個性を伸ばすことについて多方面から考えてみてほしいと思います。

 

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