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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

高校でもやれば

2025-07-20 08:31:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当?」7月8日
 『「学校ウサギ」ピンチ』という見出しの記事が掲載されました。『ウサギの学校飼育をやめる-。今春、各地の学校でそんな動きが相次いだ。「命の大切さを教える」などとして長く続いてきた学校飼育だが、その風景は変わりつつある』ということで、その現状や背景を探る記事です。
 私は以前から、学校飼育に対して否定的な考えをもっています。記事では、大手前大学教授中島由佳氏の『(学校飼育は)人間以外の種と世話を通して深く触れ合い、命を実感する得難い機会』という言葉を紹介されていましたが、本当にそうなのか疑問だからです。
 予算や体制の問題、教員の多忙化の問題はここでは触れません。あくまでも教育的な効果に話を絞りたいと思います。まず、中島氏の指摘のような効果があるのであれば、なぜ、中高でも学校飼育が行われないか、ということです。高齢者がペットを飼うことで生活の質、満足感が高まるという報告があります。生き物との触れ合いの効果が小学生段階に限られるということはないはずです。学校という場で、多くの人的時間的コストを払いながらも、コストを上回る効果があるのであれば、中高においても飼育が積極的に行われるはずですが、そうはなっていないのです。
 また、「触れ合い」といいますが、具体的にどのような触れ合いを想定しているのでしょうか。私が勤務した学校でも、飼育活動は行われていました。しかし、それは高学年の児童で構成される飼育委員会が担当し、他の子供が動物に触れる(触る)機会はほとんどありませんでした。全校児童350人程度の小学校の場合10数人の委員会所属児童を含め、実際に動物に触ったことのある子供は1割前後、というのが私の実感です。1割の子供にでも効果があればいいという考えなのか、見ているだけでも、校内に動物が飼われていると意識するだけでも何らかのプラスの効果があるという考えなのか、それは正しいのか、疑問なのです。
 さらに、社会の変化という視点からも現状通りが良いという考え方には疑問があります。かつて、家でペットを飼っているという家庭は多くありませんでした(東京下町の実感)。経済上の問題などがあったのでえしょう。しかし現在では、犬や猫の飼育数は右肩上がりで、多くの家庭でペットが、それも家族同様に大切に飼われるようになってきています。
 つまり、動物と触れ合う機会は増えているのです。それなのに昔と同じように、日本がそれほど豊かでなくペットのいない家庭の方が多かった時代と同じように、学校飼育を続けなければいけないのか、ということです。
 学校飼育は、原則廃止とし、特色ある教育活動として取り組む学校だけに認めるという方向が望ましいと考えます。

 

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配慮って何?

2025-07-19 08:28:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「雑な括り」7月7日
 田村彰子記者が『配慮は誰のため』という表題でコラムを書かれていました。インクルーシブ教育についてのコラムです。その中で田村氏は、『特別支援学級などでは、細かい配慮や指導を受けられるというメリットはあるだろう。しかし、そうした「配慮」は本来全ての子どもに必要だ。インクルーシブ教育の理解が進み、広がっていけば、障害のある子どもだけではなく今「普通」とされているこたちだって、もっと生き生きと暮らせるに違いない』と書かれていました。
 一見するとスラスラと読めてしまいますが、実に雑な論述だと思いました。田村氏は、文中で「配慮」という言葉を使われています。しかし、全ての子どもに必要な「配慮」と特別支援学級で受けられる「配慮」、両者は同じものなのでしょうか。現状は違います。それとも、「本来」という言葉を使われていることから、2つの「配慮」は同じであるべきという理想を述べているのでしょうか。
 特別支援学級や特別支援学校においては、一人の教員が数人の子供に対応しています。ときには、一人の子供に複数の教員が関わったり、介助員が付き添ったりしています。一方、通常の学級では、一人の教員が30人程度の子供を相手に指導をしています。物理的に、あるいは時間的な制約の中で、教員は5分間、10分間、15分間、ある子供には一度も声をかけられない、という状況が日常なのです。
 こうした現状を知る者としては、インクルーシブ教育への理解が進めば、通常の学級でも教員が一人一人の子供の側に立ち、声をかけ、個別に指導をし、評価をし、それと同時進行で学級全体の集団としての学びも進めていく、そんな神業を全ての教員が行えるようになる、などというばかげた妄想は勘弁してほしいという気持ちになります。
 このことは逆の見方をすると、今の通常学級を担任している教員たちは、やればできることをやらないで済ましている怠慢な存在であると言っていることになるのです。多忙な中、日々クタクタになるまで頑張っている教員からは、冗談じゃない、と怒りの声が返ってくるでしょう。通級指導学級の教員にしても、本来は一人でできることを何人もの教員や介助員でやっていると言われていることになるわけですから、反発したくなるでしょう。
 教員の努力、尽力に敬意をもち、教員の意識が変われば理想が実現するというような妄言を安易に吐かないでほしいと思います。
 

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あみだくじ

2025-07-18 08:46:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「○○用語」7月6日
 『「鑑」の役割持つ報道 スポーツと戦争用語』という見出しの記事が掲載されました。『米大リーグなどで話題となった「魚雷バット」は報道の言葉としてふさわしいのか』という問題意識に基づき行われた、日本新聞協会用語専門委員関根健一氏へのインタビュー記事です。
 インタビューに応え、関根氏は、『「魚雷」を使ったからといって戦争を賛美するものではない』『戦争用語といっても、使われ方や定着度は違う。適、不適の線をどこで引くのか判断するのは難しい』『戦争の記憶がよみがえる人もいる』『報道に携わる者として、、そういった想像力を持てるか、問われている』『知らなかった、考えたこともなかったというのは言い訳にならないだろう』などと語っていらっしゃいました。
 自らが携わる「報道」の役割を「鑑」とする関根氏、そうであるならば、未来を担う子供を育てる教育に携わる者として、こうした「用語」の問題は、教員もまた考えなければならないのではないかと思います。
 戦略、戦術という言葉を使う部活の指導者は少なくありません。こうした戦争用語については、今後も議論されていくことでしょう。私が気になっているのは、宗教用語です。私たちの日常には、宗教に端を発する言葉がたくさんあります。例えば、「あみだくじ」です。単に「あみだで決めよう」などと使われることもあります。私はまったく意識しませんが、いうまでもなく「あみだ」は仏教の「阿弥陀如来」の光背部分に由来する言葉です。キリスト教やイスラム教の信者である保護者から、学校で特定に宗教に由来する言葉を使うことは避けるべきだ、という苦情や抗議が寄せられた場合、どう対処すべきか考えている校長や教委の幹部はどれくらいいるでしょうか。
 ばかげている、と思うかもしれませんが、私は学芸会で「かさこ地蔵」を演目に選んだところ、キリスト教の牧師をしている保護者から仏教における地蔵信仰を強要する選択だと長文の抗議文を受け取ったことがあります。信仰に関する感覚は人によって大きく異なりますが、私を含め日本人はその点に鈍感なところがあります。
 戦争用語だけでなく、公教育における宗教派生用語の使用についても、きちんと議論しておくことが必要であるように思います。

 

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勘とエビデンス

2025-07-17 09:33:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「必修化?」7月6日
 『高齢者楽器で認知力維持』という見出しの記事が掲載されました。『高齢になってから始めた趣味の楽器演奏を、その後も「続けた人」と「やめた人」とでは、脳の老化現象に差が出るとの研究結果を、京都大のチームが米専門誌に発表した』ことを報じる記事です。なお、『「やめたグループ」の中には趣味で運動していた人も多くいたが、認知機能低下を防ぐには楽器練習の方が有効』なのだそうです。
 詳細はよく分かりません。ただ、高齢者として、認知症に対する恐れが強い私は、この手のニュースに敏感に反応してしまうのです。そして、記事になっているのは、高齢者についての研究ですが、子供においてはどうなのだろうと考えてしまいました。
 『1曲通して弾けるように曲を覚え、他人と合わせて演奏することが認知機能に良い』という仮説が、子供にも当てはまるのであれば、学校教育において、子供の潜在的な知力向上のために音楽の楽器演奏の分野を拡充すべき、音楽の授業時間を増やすべき、高校でも必修化すべき、というような議論が行われるようになるのではないか、と考えたのです。
 お伽噺でしょうか。今、世の中はエビデンスの時代です。学校教育行政においても、エビデンスが重視されるようになってきています。だからこそ、今後科学的な研究成果が積み上がり、子供の知力と楽器演奏について、ほぼ確実であるというレベルまでエビデンスが明示されれば、それに基づいて教科編成が変更されるという可能性はゼロではないと思うのです。
 エビデンス重視の時代と言うことは、逆の言い方をすると、現場の人間の感覚や感じ方、伝統などが軽視される時代であるということでもあります。長い経験をもつ教員の「それはちょっと違う気がする」という声が、「根拠に欠ける」として無視される時代と言うことでもあります。
 もし、知力と楽器演奏の相関関係が「証明」されたとき、楽器業者は喜ぶでしょうが、とばっちりを喰う人たちも出てきます。そうすると今度は、別の何か、知力と俳句や知力と囲碁、あるいは知力とゲームとか知力とペットとの触れ合いなど、別の研究に力が注がれ、新たなエビデンスが提示されるという、混乱状態が生じてしまう可能性もあります。我田引水は世の常ですから。
 私は、エビデンスだけでなく、現場の声に耳を傾ける姿勢こそ、混乱を避けるために大切なことだと思っています。エビデンス社会における現場の感覚の意味付け、考えておくべきテーマであるような気がします。

 

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「評価」はある

2025-07-16 09:17:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誤解のないように」7月5日
 『「学ぶ態度」評定対象外に』という見出しの記事が掲載されました。文科省が、『従来の成績評価の方法を見直し、評定をつける際に「主体的に学習に取り組む態度」を考慮しないとする』案を示したことを報じる記事です。
 記事ではその背景として、『適切な評価が困難で教員の負担にもつながっている』という指摘があることがあげられていました。具体的には、『評価理由を保護者らに対して客観的に説明するためにノートの提出の頻度や課題提出の締め切りを守れるかなどの形式的な「勤勉さ」の評価にとどまる事例もあった』ということです。
 また、この改革案に対しては、『(主体的な態度の)重要性が低くなったという印象をもたせないことが大事』『知識・技能中心のあり方の戻すと短絡的にとられないか』などの疑念が出されてもいるようです。
 改革の方向性への賛否については、ここでは触れません。ただ、誤解が生じそうな点について述べておきたいと思います。まず、「評価」と「評定」の関係についてです。今回の改革は、「主体的な態度」について、評価しない、もしくは評価しなくてもよい、という趣旨のものではありません。
 評価することなしに授業を進めることなどあり得ないからです。教員が、ある学習課題を提示したとします。その課題について、子供が興味をもっているか、疑問を解決したいという欲求をもっているか、予想を立てることができているか、解決に向けてある程度の方向性をもてているか、などの状況を把握しないまま、授業を進めることなどあり得ないのです。
 そして、こうした子供の状況を知ることを「評価」というのです。「評価」は授業のあらゆる段階、場面で行われ、その「評価」に応じて教員は柔軟に対応を変え、授業計画の微修正を重ねて、実際の授業を進行させていくのです。
 一方、「評定」は、ある基準に基づき、子供の現状を数値化、順位化して示すことを指します。ですから、基準は明確に示され、その基準に基づき子供のいつの、どの場面の、どのような言動が「5」に値したのか、「3位」なのか、教員はどのような方法で確認したのかなどを、データを基に説明することが求められるのです。
 しかし、「評価」はそうではありません。45分間の授業の間に、何回も、何十回も行われる「評価」は、教員の感覚や勘による部分があるからです。いちいち記録を撮りデータ化する時間的な余裕はないのですから。
 このことを教員も保護者も、そして子供自身もきちんと理解しておく必要があります。そうしておけば、上述した専門家の疑念も払拭できるはずです。詰込み式の学習であれば、教員→子供の一方通行型になりやすく、子供の状況を「評価」する必要はありません。「評定」はなくなっても「評価」はある、ということは、子供中心の主体的な学びが目指されているということなのですから。

 

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嫌いとヘイトの間

2025-07-15 09:10:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嫌!」7月5日
 『立花氏「黒人やイスラム怖い」兵庫・街頭演説』という見出しの記事が掲載されました。『政治団体「NHK党」党首の立花孝志氏は4日、兵庫県加古川市での街頭演説で「黒人とか、いわゆるイスラム系の人たちが集団で駅前にいると怖い」などと発言した』ことを報じる記事です。
 立花氏らしい雑な炎上目的とも思える発言です。実際にこうして「記事」になっているのですからニンマリというところでしょう。私も取り上げるのは腹立たしいのですが、少し気になり取り上げることにしました。
 この発言、新聞記事通りだとして、ヘイトスピーチに当たるのか、というのが私が感じた疑問です。「怖い」は感情です。その人固有のものです。それを非難することはできるのでしょうか、ということです。もし、黒人は犯罪者が多い、イスラム系は暴力的といったとすれば、それは間違いなくヘイトスピーチです。事実認定があいまいですし、人をある一つの基準でグループ化してレッテル貼をする、典型的な差別であり、人権侵害です。
 でも「怖い」は違います。私は犬が怖いです。小学生のころ名犬ラッシーのような大きな犬に嚙まれたことがあるのです。愛犬家などという存在が理解できません。犬に顔を舐めさせて喜んでいる人を見ると、正直ぞっとします。これは、いくら犬の素晴らしさや可愛さを説かれても変わりません。ペットの存在が高齢者にとって良い影響を及ぼすという研究成果を示されても、「怖い」や「嫌い」は変わりません。
 もちろん、私個人が嫌いだからといって、怖いからという理由で、犬を駆除すべきだとか、愛犬家を町から追い出せとか主張するつもりもありません。でも、犬を好きになれない人間は何か欠陥があるのだ、というようなことを言われれば反発を覚えます。
 犬を例えに出したのは適切ではない気もしますが、好き嫌いとか怖いとかいう感覚は、個人的なものであり、嫌いとか怖いとか感じること自体を責められるべきではないと考えている、ということを言いたいのです。
 さて、最初の問いに戻ります。今回の立花氏の発言はヘイトスピーチなのか、問題なのか、非難されるべきなのかということです。そして、教員という立場に立って考えたとき、子供が「黒人やイスラム系の人は怖い」と言ったときどう対応すべきかということを考えてしまうのです。
 私は、教え子がそうした発言をしたら、「どうしてそう思うのか」と問い返し、理由を話させます。そして、他の子供たちにどう思うか尋ね、話し合わせます。さらに、教員として、根拠のない思い込みや偏見のもつ怖さについて話します。また、自分が「日本人は何だか怖い」と言われたらどう感じるかという問いを提示して、立場を変えて考えることを体験させます。こうしたプロセスを経たうえで、「いろいろ考えたけどやっぱり怖い」という子供がいたら、それ以上は立ち入りません。
 教員の皆さんはどう考えますか。差別につながるから絶対にダメ、と言いますか。

 

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読めません

2025-07-14 07:30:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これ何?」7月4日
 論説委員小倉孝保氏が、『筆記体は難しい』という表題でコラムを書かれていました。その中で小倉氏は、『古文書を読むのは難しい。歴史の浅い米国でも事情は同じである。特にスマートフォンやパソコンが普及し、手書きの文書が減った今、古い書類の解読には一定のスキルが必要になっている。理由に一つは、アルファベットの活字体のhか筆記体があるためだ(略)年配者が手書きで記したカードを、若者が読めなくなっては世代間の断絶を深めてしまう』と書かれていました。
 私の中学生時代は、英語の時間に筆記体を教わりました。私のつれあいも同じです。彼女は今でも筆記体の方が書きやすいし読みやすいと言います。この記事を読み、活字体で英文を書こうとしたら、とてつもなく時間がかかり、どうして筆記体をやめちゃうんだろう、と文句を言っていました。
 私が指導室長をしていたとき、議会で英語教育についての質問があり、現在では筆記体は指導しないと答えたとき、私より年配の議員から「エーッ」という声が上ったことを思い出してしまいました。我が国においても、英語の筆記体派と活字体派の溝は深そうです。
 とはいえ、英語は所詮外国語です。深刻なのは日常使う日本語の問題です。行書や草書となると、書けない、読めないという若者が増えているのではないでしょうか。古文書が読めないのは仕方がありません。私も読めません。しかし、手紙などで使われる現代文で行書や草書が読めない、書けないというのは語学教育として、伝統文化の継承という意味において、どうなのでしょうか。
 習字の授業では、行書や草書に触れる時間はごく僅かです。高校生になった「芸術」として書道を履修すれば、行書や草書に触れることになりますが、書道を履修しなければ、そうした機会がないまま成人になってしまいます。
 学校教育全体で、文字の読み書き、筆字だけでなく、万年筆や鉛筆での楷書以外の書き方や読み方について、どのように習得させていくか、あるいは必要なしとするのか、きちんと共通理解をもつ必要があるのではないでしょうか。

 

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分かりやすさと一面的

2025-07-13 08:48:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「忸怩たる思い」7月2日
 『推し細胞で盛り上がる小中高生 漫画「はたらく細胞」が呼んだ生物人気』という見出しの記事が掲載されました。『子どもを対象にした生物学のイベントが近年、人気を呼んでいる(略)人気の理由には、ある漫画の存在があった』という記事です。
 ある漫画とは、『15~21年に「月刊少年シリウス」で連載された漫画「はたらく細胞」』です。『細胞を擬人化し、親しみやすくした』ことで人気を集めたとのことです。記事の中に気になる記述がありました。
 『難しいものを分かりやすく説明できる漫画の強味を生かした』という分析と、それに関連して、『人気は教育現場にも波及した。学校からは「教材に使用したい」という要望があり、医療を学ぶ学生からも「とっつきにくい免疫学や生物学を学ぶ時にイメージしやすくなった」という声が上る』という記述です。
 私は教員時代に、「個に応じた学習」をテーマに社会科の研究に取り組んでいました。個に応じたというとき、学習を構成するいくつかの要素、学習過程・学習活動・学習環境などを個に応じて多様化することをイメージしていました。その中の一つが情報源=資料の多様化でした。ある情報に取り組ませるときに、それをグラフで、写真で、文章資料で、音声資料(録音)で、といくつもの形で準備し、子供が選択できるようにするというものでした。その一つが漫画だったのです。
 漫画日本の歴史が代表的な例です。適当な漫画がないときには、親しかった図工の教員に頼んで、私が作ったストーリーで漫画を描いてもらったこともありました。ですから私は、授業における漫画活用においては、ある程度豊富な実践経験をもつといってもよいと思います。
 その上で考えてしまうのです。漫画活用の危うさを、です。確かに漫画は分かりやすいです。イメージが鮮明です。しかしそれだけに、強く印象に刻み込まれてしまうという特性があるように思います。社会事象は、あるいは自然事象もそうですが、多彩な面をもっています。一つのイメージが深く刻み込まれることで、他のイメージを受け付けない、あるいは修正ができにくいという危険性があるように思うのです。私自身、教員生活の終わりの方になって(教委に勤務するようになる直前)、そうしたことを懸念するようになりました。
 さらに、漫画の分かりやすさに慣れてしまうと、文章や統計資料などの「分かりにくい」資料、情報を丁寧に根気強く見るという習慣が薄れてしまうことも気掛かりでした。漫画の効用を否定するつもりは全くありません。
 ただ、医療を学ぶ学生にも~などという記述を見ると、「えっ!」と思っていまうのです。教育現場における漫画の活用に際しては、年齢、学習過程(導入が相応しいと考える)、内容、回数など慎重に検討してほしいと思うのです。当たり前ですが。

 

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戦争容認党

2025-07-12 09:11:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「反平和教育」7月1日
 『安倍氏 財政規律に疑義 脱・戦後レジーム狙う』という見出しの記事が掲載されました。参院選を控え、『減税を求める声が消えない。減税論はどこから生まれ、日本の政治に何をもたらすのか。「減税の潮流」を読み解く』という趣旨の記事です。
 その中にハッとさせられる記述がありました。『戦後間もない1947年に試行された財政法は、4条で「国の歳出は、公債または借入金以外の歳入をもって、その財源としなければならない」と定める。国の「借金」である赤字国債発行を原則禁じる条項だ。その目的は健全な財政運営だけでなく、憲法が掲げる平和主義とも関係する。法制定に関わった大蔵省の平井平治氏は、解説書で「公債のないところに戦争はないと断言し得る。本条は憲法の戦争放棄の規定を裏書保証する」と記している』です。
 私は、日露戦争の戦費が国債で賄われ、それにロシアに敵対する外国の支援があったこは知っていましたし、太平洋戦争時には膨大な国債が発行され、国民に国債の購入が奨励されていたことも知っていました。
 また、このブログで、我が国の平和教育が、情緒的なに戦争の恐ろしさを訴える側面が強く、戦争を阻止するために、戦争への道の萌芽となる事項を見定め、戦争を阻止するために具体的な行動を取る意思と能力を培うものになっていないと批判してきました。
 しかし、国債を戦争への萌芽、いや戦争に不可欠なものとして位置づける発想はもてていませんでした。だから、ハッとしたのです。ウクライナ侵攻を継続するロシアは戦費の調達に苦労しています。対抗するウクライナも膨大な資金難に直面し、国債の発行が急増しています。国際なしに戦争はできない、は現代にも通じる現実なのです。
 ということは、国債発行に極めて禁欲的であるということこそが、戦争への道に踏み出さないために重要な意味をもつということです。そうした観点から考えると、与野党ともに減税や給付金バラマキで、国債発行に寛容な現状は、戦争への下地が整いつつあるともいえそうです。いくらなんでも飛躍しすぎだろう、という指摘があると思いますが、国民の間に、カネが足りなくなれば国債がある、という認識が広がることは、戦時の国債発行をも容認してしまう風潮を醸し出す働きがあることは否めません。
 国債と戦争、反戦教育、戦争阻止教育において、きちんと位置付ける必要があると考えます。
 ところで、バラマキを主張している立憲民主党や共産党、社民党など、まさか戦争を容認・志向しているのではないでしょうね。自民党や国民民主党、参政党や維新ならば驚きませんが。

 

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幼稚園児は難しい

2025-07-11 08:11:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「すごいことが起きている」6月30日
 『育児で実感 子の個別性の物語 滝口悠生さん短編集「たのしい保育園」』という見出しの記事が掲載されました。著者である滝口氏の言葉が印象に残りました。『保育や子育ては<子どもとの共同作業>の連続(略)抱っこ一つとっても、子どもも抱っこされる体の使いかたをしているから成り立つのであって、作業としては一緒にしている(略)親にあわせた抱かれ方が子どもの数だけある。そうした無数の「個別性」が同居する保育園には「保育士さんたちの複雑な技術があるはずで、すごいことが起きているんじゃないか」』。
 さすがに作家らしく、すごい感性であり、表現であると思いました。抱っこは親がしているのではなく、親子の共同作業という発見が新鮮です。そう考えれば、例えば、教員が子供を叱るのも、褒めるのも教員と子供の共同作業だということが腑に落ちます。教員が叱る、その目の前で子供は俯き「ごめんなさい」とか「分かりました」などと小声でつぶやき、ときには少し涙を浮かべる、それで初めて叱るという行為が完結するのです。
 もし、叱っている教員の前で、子供がニコニコ笑っていたり、「ねえねえ昨日さ~」と話しかけて来たり、「へんし~ん」とおかしなポーズをしたりしていたら、叱るという行為は成り立ちません。叱る叱られるも、共同作業なのです。共通認識があるという言い方かもしれません。
 保育園や幼稚園、学校という場には、教員と子供の間の無数の共通認識に基づく共同作業があります。それがないところには、指導するとか教え導くという行為は成り立たないのです。教育とは、いかに多くの共同作業を可能にするかという営みだとさえ言えるかもしれません。
 つまり、指導力のない教員とは、子供と共同作業ができない存在ということです。一人一人が異なる個別性をもつ子供と、その子に応じた共同作業の型を築き上げる、それで学校も学級もなりたっていくのです。
 そして、この作業は子供の年齢が低いほど難しいのです。保育園や幼稚園での型作りの上に小学校の型ができ、低学年の型の上に高学年の型ができるのです。幼稚園や保育園での学びを軽視する発想では、よりよい学校教育を構想することはできないのです。

 

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