創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と暴力団…20

2014-08-17 08:08:55 | Weblog
○池田大作と暴力団… <=20>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
 山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
 池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
 顧問(当時は都議)の密会テープである
 このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部長と
 して反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
 果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
 「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!

────────────────改頁────── 116
「東大法華経研究会」OBの進路実態
  財務省・経済産業省・外務省……日本の中枢に
  学会エリートはどれだけ浸透したか?
         福本潤一……元公明党副幹事長・元参議院議員
         取材・執筆……石井謙一郎……フリライター
  池田大作の「天下盗り」のため、各界に送り込まれた学会員。
  その触手は権力の中枢にまで及んだ。
  学会と決別した福本澗一氏か実態を明かす。

◆すべては池田大作の「天下盗り」のために
「学会員が官庁など公的権力の中枢にどのくらい食い込んでいるか、実態が見えにくい。その物
差しとして、東大法華経研究会がある」 と語るのは、元公明党副幹事長(元参議院議員)を務め
た福本潤一氏(63)。
福本氏は東大農学部卒業後に大学院を修了し、愛媛大学助教授を経て、1995年から2007年まで
公明党参議院議員(比例区)を2期務めた。
 昭和40年代に言論出版妨害事件で社会から厳しく叩かれた創価学会は、池田大作会長(現在、
名誉会長)の指示の下、「総体革命」という新しい戦略に邁進し始める。公明党の議席を伸ばすだ
けでは国の支配にまで至らないと考え、優秀な若い学会員を選んでエリートとして養成し、官界
や法曹界など国の中枢へ送り込む。そうやって、より完全な「天下盗り」を図ろうと目論んだの
だ。立法、司法、行政三権への侵入である。
 具体的には、国家公務員上級試験や外交官試験に合格させて大蔵省や通産省、外務省など主要
官庁の重要なポストを占めさせる。司法試験の合格者を増やして裁判官、検察官、弁護士に就か
せる。加えて、経済界や教育界、マスコミなどへも多くの学会員を浸透させようとした。
大学生を統轄する「学生部」の中に、優秀な学生を国家試験に合格させるために徹底して指導す
る「法学委員会」という特別組織が作られた。創価大学には特別に、「国家試験研究室」が設けら
れた。
 一方で学会には、これ以前から〝エリート養成組織〟があった。それが最高学府・東京大学の
「東大法華経研究会」だ。
 この会の発足は1953年春(昭和28)学会第二代会長の戸田城聖が、4人の東大生に法華経の講
義をしたのが始まりだ。このときの4人は、のちに学会理事長や公明党代議士になつている。
福本氏が、広島県の私立修道高校から東大に入学したのは、68年(昭和43)のことだつた。
「学会に入信して『法華経研究会』の会員となったのは、その年の10月です。
 斉藤SGI教学部長が同期で、(次期会長候補の)谷川佳樹氏らは、後輩です。
東大の駒場寮には、会の部屋が10室くらいあった。
8人用の部屋に4人で住みました。多くの会員が下宿から移りましたので、当時の駒場寮では、
民青(日本民主青年司盟=日本共産党の関連組織)などよりはるかに大きな勢力でした。
 12畳くらいの仏間も作って、学会本部でも話題になっていたほどです。
寮生活で連帯感を高め、信仰生活を鍛えようというのは、その後も続く会の方針だつたんです」
 福本氏が入会したときは、30人くらいの会員がいたという。学会本部で東大の指導に当たって
いたのは、原田稔学生部長(現,第六代会長)。京都大学にも同じような組織があって、こちらは
野崎勲男子部長(のちに副会長・聖教新聞主筆・故人)が指導していた。池田会長が、この2人を
競わせていた。
 1970年(昭和45)安保を控えて学生運動が盛んな時代、人数を集めて勢力を確保するこ
とは大切だった。本部からも多くの会員を獲得するよう指示が出て、文科系と理科系のダミーサ
ークルを作ることになつた。文科系は「東洋思想研究会」。福本氏らが作ったのは理科系のサーク
ルで、「海洋開発研究会」。
「海底遺跡や地震予知で有名になつた木村政昭氏(現,琉球大学名誉教授)を会長にして、僕は副
会長。このサークルはスキューバダイビングのメッカとなった一方、映画『日本沈没』の監修を
した東大海洋研究所の奈須紀幸所長を顧問教官に頼んで、学術的な活動もやっていました。 谷川
氏は、『信仰するために駒場寮に入ったのに、なんで海洋研……』と不思議がつていましたが。
『海洋研究会』なのに部室からは毎日2時間もお題目が聞こえるものだから、まわりからは
『海坊主』と呼ばれたりしていました(笑)」
 東大生は2年生まで駒場の教養学部で過ごし、3年生から本郷へ移る。当時は東大紛争中で、2
年入学組の中から、本郷へ行かずに駒場に残って後輩の指導に当たるメンバーを選ぶことに
なった。福本氏と、いま創価大学文学部の教授になっている宮田幸一氏が残り、2人は教養で4年
間を過ごした。
 会員を増やすため、福本氏らは高校生の受験指導も始めた。各自が帰省したとき、地元の学会
の責任者に成績優秀な高校生を集めてもらい、合格必勝法を教えた。さらに『受験戦線』という
雑誌まで独自に作り、受験生に配つていった。
「学会員の東大受験生を毎年250人くらい掌握し、駒場寮の仏間に名前を書いて合格祈願をしま
した。そのうち合格するのは、30名から35名といったところです。
68年(昭和43)に開校したばかりの創価高校生に対しては、ひとりずつ合格責任者を任命して面
倒を見た。ほとんどの卒業生は創価大学へ進んだが、一期3名二期7名が東大に合格してきまし
た。彼らはその後、東工大教授、弁護士や通産官僚になつています」

◆官僚が全体の5%、検事は1000人中100人
こうした熱心な勧誘活動の結果、法華経研究会のメンバーは最盛期の76年(昭和51)ごろには
400名を数えたという。「会の自由度は高かったし、おかしいことをおかしいと言える雰囲気もあ
りました。『学会を飛び出したっていい。批判者として歯向かうことをしなければいいんだ』という
話を、実際に聞いていました。学会の組織の中では池田先生に狂信的な婦人部とは対極にあるの
が、東大法華経研究会だつたと思う。
人数が増えれば、『お前は学会の活動より勉強をしつかりやれ』という余裕も生まれます。あのこ
ろは、『大学院へ行ったり、留年してでも学生部在籍期間を長くしろ』という指示もあつたんです。
また、学会員は学界に進出していないということで、同窓生には学者や大学の教員になつた人間
がけつこう多い。東洋哲学の東大教授もいるし、東大からよその大学へ行った教授もいます。
 しかし、東大生の一番のメリットは中央官庁に-ベりやすいことですから、どのメンバーも自然
と官僚志向になつていきます」
本誌は、東大法華経研究会の当時の名簿を入手した。そこから卒業生の進路を割合別に見ると─。
  ・大学教官 10%(うち1%が東大)
  ・弁護士・検事・判事 5%(弁護士の1%がのちに政治家へ転身)
  ・医者 5%(うち1%が東大の医学者)
  ・官僚 5%(うち1%が大蔵省。また、1%がのちに政治家へ転身)
  ・学会本部職員 5%
  ・民間(商社、建設、マスコミなど)70% (のちに県会議員などへの転身も)
「私は議員時代、農林省、環境庁、建設省を中心に国会で質疑をしましたが、答弁に出てきた局
長がかっての法華経研究会のメンバーで、『あ、あいつ、局長になったのか」|ということが3回く
らいあった。彼らは、答弁が終わつたら挨拶に来ましたよ。周りの人たちにはわからないけれども」
 福本氏によれば、学会員の事務次官はまだ出ていないが、局長クラスは、当時の経済企画庁や
環境庁などに何人かいた。自治省からの出向で副知事を務めた官僚も、数人いるという。
「総体革命」は、どのくらいの成果を上げたのか?のちに創価大学法学部長となる桐ケ谷章弁護士
が76年春(昭和51)に池田会長に宛てた報告書には、具体的な人数が書かれている。
  ・弁護士 33名
  ・検事 18名
  ・判事 3名
  ・修習生 16名
  ・国家公務員上級職 36名
  ・外交官上級職 9名
  ・同中級職 8名
  ・語研 18名
さらに、「今後5年間で現在の倍増、10年間で現在の4倍に達すること、検事は各都道府県に1人
、10年後には2人配置できる人数となる。国家公務員は各省庁に、外交官は各国に配置できるよ
うにしていく」と目標が記されていた。
昨年、創価学会の学術部員でもある国立,香川大学の高倉良一教授が、人権侵害を受けたとし
て池田名誉会長や原田稔会長ら学会幹部に対して損害賠廣請求訴訟を起こした。その経過の中で
高倉教授の代理人を務める元大阪高裁判事の生田暉雄弁護士は、法曹界における現在の学会員の
割合について、こう言つている。
「全国の検事およそ1000人中、100人。同じく地方判事1000人中、100人。弁護士は少ないが、全
国の2万人中300人以上いる」
法曹界だけに限っても、この40年ほどの間に相当に浸透が進んでいる様子が窺える。
 彼らはそれぞれの職場で、学会員の組織を作る。検事の「自然友の会」や「天空会」、弁護士の
「力ーネーシヨンクラブ」「旭日グループ」、外務省の「大鳳会」はよく知られている。
「学会にとって霞が関の官庁は、外務省とそれ以外に大きく分かれます。外務省の『大鳳会』は、
文化交流部長やインド大使などを務めた榎泰邦さんの下に、いま代議士になっている遠藤乙彦が
つき、この2人が中心になってまとめていました。榎さんは東大法学部出身です。
 外務省以外の官庁をすベて取りまとめる責任者もいました。私が議員だつたころは、修道高校
・東大の先輩に当たる建設省出身のKさんという人です。
 初当選したとき、挨拶に来てこう言いました。
『僕は官僚の責任者をやってる。福本君、困ったことがあったとき、官僚との連携は僕を通して
やってくれればいいから』
東大だけでなく、京大や九大など国立大学出身の学会員の官僚をまとめていた。外務省の榎や
遠藤は有名だけど、このKさんのことはあまり知られていないかもしれません」
 ───────(~114頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=

◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
  その親分は、カリスマでおぞましさ、史上類なき・池田大作

◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
   大衆に… 外形は人格者 中味はゴロツキ …で50年

◆1/13 リチャード・コシミズ 【「創価学会」大阪講演会09.06.20】
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池田大作と暴力団…19

2014-08-15 09:29:09 | Weblog
○池田大作と暴力団… <=19>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
 山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
 池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
 顧問(当時は都議)の密会テープである
 このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部長と
 して反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
 果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
 「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!

────────────────改頁────── 106
金満教祖のルーツ「関西創価学会」の裏面史        森功
池田大作をトップに君臨させた高利貸し時代の営業力とカネ
 西成の花園旅館で大阪支部の旗をあげた地田は,
 高利貸しの大蔵商事で培った営業力を宗教や政治の世界でもいかんなく発揮していった。
 創価学会の“聖地”大阪に“池田教”のルーツを探る。

─────(中略…以下)───────────改頁────── 109

◆内部闘争に勝利した戸田─池田コンビ
 もとはといえば創価学会は、小学校の校長だった牧口常三郎により創価教育学会として創設さ
れた。牧口が戦前、戦中の教育弾圧を受け、治安維持法違反の罪で二代目創価学会会長になる戸
田城聖とともに獄につながれた。それゆえ創価学会は常に教育の独立を訴えてきた。今度の大阪
維新の会との連携の過程で、橋下の軍門に下ったが、日の丸君が代教育に反対してきたのは、そ
うした歴史的な背景もある。
 もつとも池田大作に影響を与えたのは、牧口ではなく二代目会長の戸田だとされる。戸田の事
業意欲は知られたところだ。その腹心として池田大作は、宗教を広めるためには資金が必要だと
いう考え方を継承した。
 池田は24年1月、教育出版を手掛けた「日本正学館」に入社し、その後雑誌『冒険少年』の編
集に携わったが、間もなく日本正学館は倒産。戸田は出版事業から金融業へと事業の足場を移し
た。それが「東京建設信用組合」だ。だが、これが大きな誤算だったという。
先の古参幹部が説明する。「戸田先生は、創価学会を広めるためには銭がいるという考えでした。
なかでも資本主義では銀行(金融機関)を持たなあかん、と。そこへ24年、ちょうど中小の建設会
社相手の東京建設信用組合が売りに出た。それでパッと買うたわけです。しかし、いかにも時期
が悪かった。ちょうど25年6月に勃発した朝鮮戦争を前に、米国がドッジライン政策を断行し、
日本の国債発行を止めるよう圧力をかけてきた。日本は超緊縮財政のなか、24年、25年と不況に
陥っていきました。あげく東京建設信用組合は、貸し出し先の中小企業が軒並み不渡りを出して
倒産し、融資が焦げ付いてしまいました。そうして50年1月には、買ったばかりの東京建設信用組合
が破綻してまうんです。それを察知した戸田先生は創価学会の理事長を降りたんですが、それが学
会分裂の火ダネにもなりました」
創価学会の前身である創価教育学会会長だった牧口常三郎は戦中の19年11月に獄中死し、理
事長だった戸田城聖が終戦後にあとを引き継いだ。
しばらく会長ポスト空席のまま、理事長の戸田は創価学会と改称し、金融業に血道をあげるよ
うになる。ところが、そんな矢先に買収した東京建設信用組合の破綻が確実になり、戸田が創価
学会の理事長ポストから辞任せざるを得なくなつたのである。
「その当時の法律では、他人の金を集めて融資する金融機関は破綻しただけで、経営者が刑事罰
に問われた。戸田先生たちをはじめ、組合で働いていた学会員たちが犯罪者になる寸前やつたん
です。で、破綻した25年1月6日、戸田先生は逮捕覚悟で大蔵省に出頭した。すると学会の幹部
たちは会社から逃げ出し、新しく創価学会の理事長になった矢島周平さんについた。池田先生だ
けが残って会社を立て直そうとしたんです」
しかし、事態は思わぬ方向に転がる。監督官庁の大蔵省では、東京建設信用組合の経営破綻につ
いて、債務返済を条件に刑事罰を問わなかった。この債務返済で役に立つたのが、戸田の手掛け
たもう一つの貸金会社である大蔵商事だ。
「信用組合の破綻で、戸田先生や池田先生たちは、億単位の借金を抱えてしまった。その借金を
返さないとお縄になる、とノンバンクの大蔵商事を設立したんです。戸田先生は顧問として表に
立たない分、池田先生が大蔵商事の営業部長として、いったん矢島派に移つた創価学会の流れを
戸田、池田のコンビで巻き返そうと、大蔵商事で稼いででいつたんです」(古参幹部)
 大蔵商事は信用組合の破綻直後の25年10月に設立。創価学会の顧問弁護士だつた山崎正友の
告発手記などにも登場する貸金業者だ。創価学会の会員から集めた資金を高利で融資したり、中
小企業相手に手形割引を行なつて荒稼ぎしてきたとされる。折しも日本は25年5月に勃発した朝
鮮戦争の特需に沸き、大蔵商事にも面白いように利益が転がり込んできた。
 そうして戸田、池田コンビは37年5月、創価学会の内部闘争に勝利し、戸田は晴れて会長の座
を射止める。それをサポートしだ池田が戸田の信頼を得ていったのはいうまでもない。
 関西在住の公明党関係者(前出)が振り返る。
「戸田会長はもつばら事業を池田先生に任せ、日蓮正宗、創価学会の広宣流布、信者の獲得に全
力をあげようとした。会長就任時、『学会は現在三千人しか会員がいないけど、私の死ぬまで七年
で七十五万所帯にしてみせる。もし七十五万所帯の信者が達成できなかつたら、葬式の代わりに
品川の沖に骨を撒いてほしい』とまで公言しました。
 その信者獲得のため、ターゲットにしたのが同じ日蓮聖人が開祖の日蓮宗で、30年5月に小樽
の日蓮宗妙龍寺の擅家を狙い、北海道に学会員を導入した小樽訪問などはその典型です。 そして
西の信者獲得で最も力を入れたのが大阪、拠点が西成の花園旅館だつたんです」
   (以上、昭和に直した……)

◆高利貸しの営業力と選挙違反事件
 1950年代(昭和25)から1960年代(昭和35)にかけ、創価学会内における戸田と池田の行動
は目まぐるしい。戸田の命を受け、創価学会の大阪支部長になつたプ口野球選手の白木義一郎は
31年6月、第4回参議院議員選挙に立候補し、当選する。まだ創価学会は政党を持っていなかった
ため、無所属からの出馬だが、これが事実上、公明党議員の第一号でもあった。
白木は36年の公明政治連盟の結成や39年の公明党結党の立役者として、その名を刻んだ。党
の副書記長や副委員長、中央統制委員長などの要職を歴任している。その白木をサボートしたの
が、大蔵商事の営業部長だった池田大作なのは繰り返すまでもない。戸田の肝いりで、西成の花
園旅館で大阪支部の旗をあげた池田は、高利貸しの大蔵商事で培つた営業力を宗教や政治の世界
でもいかんなく発揮していく。
 再び公明関係者(前出)が指摘する。
「昭和31年の参院選時点で、まだ結成間もない学会の大阪支部は、信者が3万所帯もいませんで
した。だが、当選するには21万票は獲得せなあかんかった。その票を獲得できたのは、白木義一
郎いうプ口野球のスタータレント候補だつたからでしよう。戸田先生や池田先生は、それを計算
していたのでしょう
 けど、そこから大阪における学会の組織力が固まっていきました。以来、この前の2009年の総
選挙で民主党に大敗するまで、大阪における公明党の得票数は国政、地方統一選挙を含めて常に
トップ。2位になったことすらなかったんです。池田先生をはじめ古手の学会幹部たちにとって、
大阪、西成は公明発祥の地という意識もあり、絶対に負けられない地域だから、いつも熱が入る
のです」 過去、関西で連戦連勝を重ねてきた創価学会・公明党にとつて、白木の当選とは反対
の意味で、大きな出来事があった。それが昭和32年4月、西成地域を舞台にした「大阪事件」と呼
ばれる選挙違反だ。
 創価学会は、白木当選の勢いに乗り、この年に行なわれた参議院大阪地方区の補欠選挙で中尾
辰義を擁立。中尾はあえなく落選したが、選挙期間中に創価学会員が、あいりん地区に住む日雇
い労働者をタパコで買収したとして、摘発されるのである。大阪地検が、創価学会理事だつた小
泉隆や渉外部長だつた池田など、47人を公職選挙法違反で逮捕。大阪事件は、創価学会の組織を
あげて行なった選挙違反として、関係者の間で語り継がれるようになる。
このときの状況を知る創価学会幹部が打ち明ける。
「白木さんと違い、学会が送り込んだ中尾辰義という人は知名度がなく、かなり無理しなければ
ならなかった。結果も落選です。そのとき、東京からやつて来た応援部隊があいりん地区でバー
ッと金を撒きよつたわけです。タバコの中身を抜いて箱の中に札を入れてた。100円札とも500円
札ともいわれました。この選挙違反で選挙参謀として陣頭指揮を執つていたとして個
別訪問教唆で池田さんが引っ張られたわけです」
 さらにこう続ける。
「ほんで、その金は一体どこから出てきたんやてなる。実は東京から動員された蒲田支部支部長の
小泉(理事)さんたちの捜査で、その買収資金が大蔵商事から出てる、となった。まさしく
池田先生のところからとなり、疑いが向けられたんです」
 池田大作は戸田の腹心として大阪支部の立ち上げに成功し、タレント候補を使って選挙に勝つ
と同時に、選挙を通じて飛躍的に信者を伸ばしてきた。
 すでに次期会長の有力候補として日の出の勢いにあつたといえる。そこに飛び出したのが大阪事
件だ。
 1957年(昭和32)に始まった大阪事件の裁判は5年続き、1962年1月(昭和37)25日に判决
を迎える。その間、会長の戸田は池田らの無罪釈放を主張するが、初公判の翌58年(昭和33)に
鬼籍に入る。すると、創価学会は反池田の勢力が盛り返し、またも分裂の危機に瀕した。
 創価学会次期会長候補レースは、理事の石田次男と池田の争いになる。それを決する大きな要
因が、大阪事件の裁判の成り行きだ。そのせいで2年ものあいだ、創価学会の会長は不在になる。
裁判を傍聴してきたという東京の創価学会員が指摘する。
 「石田さんは池田さんより年上で、創価学会の理事や参議院議員を務めた。対する池田さんは、
当時まだ総務担当の部長どまり。石田さんを中心に、刑事被告入が宗教法人の会長になれるんか、
という批判が集まりました。実際、宗教法人法によると、有罪の確定した者は宗教法人の役員に
はなれません。そうして内部闘争を繰り広げたんです」

◆創価学会が空中分解していた!?
 ところが、大阪事件の判決を前にした1960(昭和35)年、なぜか池田が三代目会長のイスに座
ることになる。前出の在京の学会員が、その理由を明かす。
「公判の中で裁判長が、逮捕した関係者の取り調べ調書があまりに出来過ぎている、と捜査に疑
義を差し挟んでいつたのです。釈放するから認めろという誘導尋問ではないか、という疑いが浮
上したんです。そうして検察側の旗色が悪くなつていくと同時に、池田さんが反撃に転じていきま
した。被告人として裁判があるごとに大阪へ下る。
 その都度、大阪の学会活動に力を入れ、信者を増やしていきました。次第に大阪では東京に対
抗する意識が強まり、ますます池田人気が高まつていつたのです。
 そうして大阪を中心に池田派の勢力が大きくなり、会長に就任できたんです」
 すでに途中から裁判の成り行きが見えていたせいかもしれない。最終的に1962年1月(昭和37)
に大阪地裁で無罪の判决、2月には検察側が控訴を断念した。結果、名実ともに池田大作が創価学会
の頂点に君臨し、現在にいたっているのである。
 しかし仮に、この西成の大阪事件が反対の展開になっていたら、事態はまつたく変わっていたに
違いない。創価学会はその後、池田教になるどころか、空中分解していた可能性もある。 再び公
判を傍聴してきた学会員の話。
「判決前の最終弁論に立つた池田さんは、無罪を確信していたのかもしれません。宗教団体が選
挙運動するのは国民に与えられた権利ではないか』とまで述べていました。その判決があつた翌
日の1月26日、本部幹部会で公明政治連盟の結成を発表しました。そこから本格的に政治に乗り
出したのです」
創価学会が三代目会長,池田大作のカリスマ性により、今日の隆盛を築いてきたのは論をまた
ない。だがその実、常に分裂の危険をはらんだ内部抗争を繰り広げてきた。
 その池田創価学会の原点が大阪西成にあるといつても過言ではない。創価学会と公明党による
政教一致問題も、ここから始まっている。彼らにとって絶対に負けられない選挙区だとする理由
は、そのあたりに由来する。
 ところが昨今、強固な地盤を誇り、連戦連勝を重ねてきたその創価学会選挙にも、陰りが見え
始めている。なりふり構わず、橋下徹詣でを重ね、大阪維新の会に選挙協力を取り付けたのは、
もはや単独では選挙に勝てない証左でもある。大阪は日本の近未来が現れている縮図だといわれ
るが、それは創価学会にとつてもあてはまるかもしれない。かって西成の花園旅館で生まれた池
田創価学会は、予想以上に急速にその威勢を失いつつある。(文中敬称略)

 ───────(~114頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=

◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
  その親分は、カリスマでおぞましさ、史上類なき・池田大作

◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
大衆に… 外形は人格者 中味はゴロツキ …で50年

◆8月号の大百蓮華で任用試験特集号
  ◎悪と戦う
  ◎宗門事件の経過
  ◎日顕宗の大罪と邪義
  ◎広布破壊のほうぼう
  ◎法主信仰の邪義
  ◎誤った血脈観
  ◎僧俗差別
  ◎化儀の悪用
  ◎腐敗堕落
 庇を借りて、ニセ本尊で破門(平成2年)され…逆ギレ・千年恨みの刷り込み洗脳…700万信徒?

◆石井一議員 創価学会を追及1/3
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池田大作と暴力団…18

2014-08-13 08:54:22 | Weblog
○池田大作と暴力団… <=18>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部
長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!

────────────────改頁────── 106
金満教祖のルーツ「関西創価学会」の裏面史     森功
 池田大作をトップに君臨させた高利貸し時代の営業力とカネ
 西成の花園旅館で大阪支部の旗をあげた地田は,
 高利貸しの大蔵商事で培った営業力を宗教や政治の世界でもいかんなく発揮していった。
 創価学会の“聖地”大阪に“池田教”のルーツを探る。

◆橋下徹にすがってでも勝ちたい関西公明党
 創価学会では毎年2月1日を「関西の日」と呼ぶ風習がある。その由来は、まだ戦後の匂いの
残った昭和27(1952)年に遡る。この年の2月1日、大阪市西成区の花園町にある「花園旅館」で、
創価学会大阪支部が産声をあげた。西成地域は関西における創価学会発祥の地であり、政治活動
もここからスタートしている。そんな深いかかわりは、今にいたるまで連綿と続き、政治や行政
と密接に絡み合つている。
池田大作率いる創価学会の活動において、多くの幹部たちが最も重要な拠点と位置付ける特別
な場所である。
「公明党は先の消費増税法案を巡る民主、自民、公明の三党連立よりずっと前から、来る解散総
選挙をにらんで着実に準備を整えています。その最も大きな動きの一つが橋下(徹)市長の大阪維
新の会との連携です」
 大阪の選挙事情について、大阪在住の公明党関係者が打ち明ける。「昨年の大阪府知事、大阪市
長のダブル選挙後、民主、自民とも次期総選挙における撟下人気に恐れをなし、維新の会にすり
寄っていますけど、すでに公明は選挙協力の約束ができている。
 総選挙では、公明の出る小選挙区に維新が対抗馬を出さないよう、双方の取り决めができてい
ます。前回の衆院選では、公明党の結党以来初めてといえるほど、民主に惨敗しました。
創価学会にとって大阪は聖地ですから、それを取り返さなければならないと必死なのです」公明
党と大阪維新の会による選挙協力体制の象徴が大阪市議会だ。そこには、関西創価学会発祥の地
である西成地区との縁もある。公明党関係者が続ける。
「橋下さんは大阪都構想のなかで、西成特区をぶち上げ、大阪市議会で西成出身の辻(淳子)いう
女性の大阪市会議員を議長に据えた。ほんで一方の公明党は小玉(隆子)を副議長として出して
連携を図っています。だから議会は維新、公明の運営で安定してる。それはもちろん衆院の選挙を
控えているから。当初は七月投票を想定していた。延びたら準備を整えられるので儲けもんやけ
ど、この1年以内には間違いなく解散がある。これで大阪の議席は守れるという体制を整えてい
るのです。それだけ創価学会にとって、大阪は大事なんですわ」

◆池田大作の“ルーツ”は西成あいりん地区
 日雇い労働者の町である西成のあいりん地区は、橋下徹の西成特区構想や生活保護問題でもク
ローズアップされた。かっての花園旅館はそのあいりん地区に隣接していた。
「昭和27年2月当時、大阪にはまだ創価学会員が一人もいませんでした。そこで初代大阪支部長
になったのが、白木義一郎さんでした。プロ野球のセネターズ(注:のちの東急フライヤーズ、現
日本ハムファイターズ)のピッチャーとして活躍した白木さんが、肩を傷めて阪急ブレーブスにト
レードになつた年です」
関西在住の古参創価学会幹部がそう振り返る。
「学会内で関西の日と呼ばれる2月1日は、その阪急のキャンプインの日ですねん。白木義一郎
さんのお父さんは、初代創価学会の会長である牧口常三郎さん時代からの数少ない幹部だつたん
ですけど、本人は若い頃、学会に対するアレルギーが強かった。プロ野球界に入ってからも学会
に反発して入信せなんだんです。けど、肩を傷めて阪急にトレードに出されるのがよほど堪えた
んでしょう。日蓮正宗に帰依するようになり、学会活動も熱心になった。
 それで、二代会長の戸田城聖先生にトレードの件を報告したところ、戸田先生が、『大阪に行く
ならいい機会だ、君を支部長心得にするから、折伏して向こうで信者を増やせ』と命じたんです」
 白木義一郎は1919年9月20日、東京蒲田に生まれる。慶應義塾大学のエースピッチャーとして
鳴らし、終戦の翌46年(昭和21)にセネターズ入りし、いきなり30勝をあげスターになる。
プロ野球選手初の国会議員としても有名だ。
もつとも1年目の負け数も22あつた。そんな当時の無理な登板が肩を傷める原因になったのか
もしれない。そうして熱心な創価学会員となる。
 大阪に移住した白木が、創価学会を広めるために拠点にしたのがほかでもない、西成の花園旅
館だったのである。
 ちなみに白木は池田大作夫人である香峯子の旧姓だが、義一郎と池田夫人はいとこ同士にあたる。
「池田先生にしてみたら、すでに白木さんは身内のようなものだったのかもしれません。その白木
さんのお目付け役として、戸田先生が大阪に送り込んだのが、池田名誉会長でした。
 信者の折伏となれば、泊まるところや集まる場所、座談会ができるところが必要になる。それ
ができる旅館を押さえ、いうんで、陣取ったのが花園旅館でした。
 そうして花園旅館に池田先生をはじめ数人の幹部が集結し、関西創価学会の基礎を築いていっ
た。と同時に、政治活動も行ない、国会や府市議会に議員を送り込んだのです」(前出、古参幹部)
 関西創価学会発祥の地となつた花園旅館は、あいりん地区に沿って南北に走る南海本線の脇にあ
った。現在のスーパー、イズミヤ本店の隣に位置する。
 近くには、日雇い労働者やホームレスがたむろするあいりん地区の三角公園もある。
その木造旅館の大広間を借り切り、若き日の池田大作たちが日蓮正宗の曼荼羅を拝んだ。花園旅
館は創価学会の信者折伏のため、作戦を練った場所である。
 28年生まれの池田はまだ24歳。白木より9つ下だ。高利貸しの大蔵商事の営業部長として頭角
を現し、二代目会長の戸田城聖の黒子役として奔走していた時期にあたるが、創価学会内では青
年部の第一部長に過ぎない。三代目会長どころか、まだまだ組織内では認められてはいなかった
という。
「池田先生が戸田先生に『これからこの創価学会は東日本だけでは駄目やから西の拠点をつくり
ましょう』と提案したのが大阪支部づくりだといわれています。大阪を押さえたら西日本は制覇
できるいう話になり、そこへ白木さんの大阪行きがきまった。白木さんのいとこである香峯子さ
んと池田先生が付き合つていたこともあり、白羽の矢が立ったのだと思います。花園旅館で寝泊
まりしながら、東京の応援部隊といっしょに数人で西成地域の住人リストを作成し、名簿を持っ
て折伏して回つたといいます。そうして池田先生は実績をあげた。だから今も創価学会にとって
大阪は聖地であり、西成は聖地の中の聖地なのです」
と先の古参幹部。創価学会大阪支部の旗揚げから2ヵ月後の5月3日、池田大作は香峯子と結
婚。池田自身、大阪での信者獲得や政治活動により、創価学会内での存在感を増していったとい
う。池田たちが広い大阪で、広宣流布の狙いを西成地区に絞ったのにはそれなりの理由もある。
「西成には日雇い労働者だけやのうて、わけありの人がぎょうさん集まつて来ていた。貧しい人
も多い。それは折伏の狙い目でもあるんです。“貧・病・争”つまり貧乏、病気、家庭内の争いを
抱える人は悩みがあるので、宗教にすがる傾向があります。東京などでも下町に学会員が多いよ
うに、折伏しやすかつたんや思います」(同、古参幹部)

 ───────(~109頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=

◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
  その親分は、カリスマでおぞましさ、史上類なき・池田大作

◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
大衆から (マゾヒスト)叩かれヨガリ 50年

◆「言論妨害」と言えば池田大作(創価学会/公明党)
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池田大作と暴力団…17

2014-08-11 08:43:59 | Weblog
○池田大作と暴力団… <=17>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部
長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!

────(以下、引用)──────◇─────(100頁から)──◇─────

カリスマの潰えた野望
池田大作「ノーベル平和賞受賞」工作の軌跡
  日本国内で多くの批判を浴びてきた池田大作は、
  ならば海外でと、本気で平和賞の受賞を狙っていた。

────(中略・以下、引用)──────◇─────(104頁から)──◇─────

◆フランスでの予期せぬ反発
 91年春、パリ郊外のヴィクトル・ユゴー文学記念館の開館式にあわせた池田大作の訪問が予定
されていた。その準備に忙殺されていたフランスの学会員に、驚愕のニュースが飛び込んできた。
「エソンヌ県サクレーの原子力エネルギーセンタIのエンジニアが創価学会に加入した。前か
らこの団体に目をつけていたDGSE (国防省対外安全保障総局)は簡単な調査をした。驚くことに
数人のエンジニアや技術者──5人といわれる──がこの仏教組織に加入している。なかには
『防衛機密』に触れる者もいる。内部浸透の試みにきわめて近いものである」(週刊誌『レべヌマ
ンニァュ・ジューアイ』91年4月18日号)
 実はそれ以前にも、似たような記事がエソンヌ県の新聞に出ていたことがある。だが、あく
までも一地方紙の話題でしかないため、反響はなかった。しかし今度は大手の週刊誌に書かれ
たのだ。これをきつかけに、「ルノワール事件」や脱税疑惑さらには言論弾圧事件、そしてフラン
ス国内のマインドコントロール被害まで、全国規模の新聞、雑誌、テレビで創価学会の実態が大
きく報道されることになつてしまったのだ。
DGSEは、フランスの諜報組織のひとつである。前述の週刊誌記事によると、創価学会の施設
が超機密の原子力関係施設の近くにあるというので、もうひとつの諜報機閔DST (国土監視局)も
マークしていたという。
当時の様子を知るフランスの消息筋が次のように語る。
「彼らは個人的な関係を使って内部協力者を作リ、中性子爆弾についての情報を狙いました。当
時SGIは、核廃絶運動を盛んに行なっていたため、池田に盲従する一部の学会員の間で『平和』
『反核』が絶対の信念になり、一線を越えてしまったのです」
 フランスでは、学会員であるパリの現職警官が、敵対関係にあった日蓮正宗(91年に創価学
会を破門)僧侶の個人情報に不法アクセスをしたことが発覚し、有罪判決を受けたこともある。
────────────────改頁────── 105
この事件でも、「自主的」に「良かれと思って」行動したのだという。
 とはいえ、いくらなんでも「創価学会がスパイ行為」とはにわかには信じがたいのだが……。
いずれにしろ、91年6月、池田は予定通りに訪仏した。だが、ミッテラン大統領との再会は直前
に中止されてしまい、政財界の要人が一堂に会する一大イべントになるはずだつた文学記念館開
館式にも招待者が誰も来ず、かわリに押し寄せたのは、現地マスコミのカメラマンだった。
 池田の姿を撮影しょうとする彼らと、妨害しょうとする信者との間でもみ合いが起こり、惨憺
たる状況になつてしまつた。失態を演じたフランス創価学会は、マスコミ相手に名誉毀損訴訟を
連発。その裁判では、元駐仏日本大使が創価学会を弁護する書面を提出している。
 それにもかかわらず、創価学会は、95年と99年の2回、『国民議会特別委員会報告書』に有害
カルト(フランス語でセク卜)としてリス卜アップされてしまつたのである。

◆あれは日本の大統領か?
 80年代中ごろのある晚、パリ中心部の最高級ホテル「リッツ」の前で、通リがかリのフランス
人から「あれは日本の大統領か?」と聞かれたことがある。
 指をさす方向を見上げると、2階にある最高のスィートルームのべランダで、手を振っている池
田大作の姿があった。
 やがて、黒塗りの大型リムジンが「リッツ」の玄関に椟づけされ、その前後に信者の運転す
る車が並んだ。池田がそそくさと乗り込んで出発したのだが、公式車列ではない悲しさか、最
初の信号で池田の車が停止し、列を分断された前方の車は、はるか彼方に消えてしまつた。
 池田はついに日本の「大統領」にはなれなかった。ノーベル平和賞もまた夢に終わるのか。
 いや、まだ幕は下りていない。総力かけて乾坤一挪の大逆転を狙つているのか。しかしその
身体には、もはや余力が残っていないのではないか…。

 ───────(~105頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=

◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
    その親分は、カリスマでおぞましさ、史上類なき・池田大作

◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
    大衆だます 正義(偽善)面で 偉ぶりごっこ …50年

◆勝谷誠彦 - 大手マスコミが報道しない、公明党・創価学会のP献金(ラジオ)
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池田大作と暴力団…16

2014-08-09 09:01:45 | Weblog
○池田大作と暴力団… <=16>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部
長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!

────(以下、引用)──────◇─────(100頁から)──◇─────

カリスマの潰えた野望
池田大作「ノーベル平和賞受賞」工作の軌跡
  日本国内で多くの批判を浴びてきた池田大作は、
  ならば海外でと、本気で平和賞の受賞を狙っていた。

◆日本で評価されない反動

 第2次大戦後、進駐軍の兵士と結婚した日本女性が夫についてアメリカに渡った。そのなか
には、朝なタなに「南無妙法蓮華経」とお題目を熱心に唱える者もいた。彼女たちは細々と座
談会と折伏を続けていった。
 1960年3月、池田大作が第三代会長に就任する。
 その年の10月、池田は後に第四代会長となる北條浩や第五代会長となる秋谷栄之助らを引き連
れてアメリカに渡った。
「だが、そのとき彼らを迎えた各地の信者は、まだ微々たるものであった。たとえば、ハワイ
のホノルル空港に出迎えた各地の信者は、わずかに三〇名ほどであった。それがこの地の全会
員であった」(『海を渡った日本宗教』井上順孝、弘文堂刊)
 池田らはハワイからアメリカ本土に渡り、信者の組織化やアメリ力総本部の立ち上げを進め
ていった。このアメリカ旅行で、池田は終生抱きつづけた野望の原点ともいうべき体験をする。
 国連訪問である。
「(その記憶は)今なお鮮明でぁリます。当時は、ハマーショルド総長の時代で、国連本部で
は折しも、アメリカのアイゼンハワー大統領やソ連のフルシチョフ首相をはじめ、世界各国の
首脳が数多く出席した、第15回国連総会が行われておりました。
本会議や委員会の議事を傍聴する中で、私の胸に深く残ったのは、独立してまもないアフリ
力諸国の代表が、生き生きと討議に参加している姿であります」と後に池田は述べている
〔2006年8月30日、池田の国連提言「世界が期待する国連たれ」より)。
 もっとも、"訪問"とはいつても、いわば一観光客として国連を見学しただけだつたのだが。
初の国連訪問から10年ほどして、池田.創価学会に大きな転機が訪れる。
ひとつは、69年に起こった言論出版妨害事件である。藤原弘達の学会批判本『創価学会を斬る』
の出版を妨害したことなどで、池田大作と創価学会、公明党が社会的な批判にさらされた。
学会事情に詳しいジャーナリストの段勲は、この事件と池田の海外進出の関係についてこう
指滴している。
「『言論出版妨害事件』が沈静化すると池田大作の目は海外に向けられた。『SGI』(注:創価学会
インタナショナル)の組織作りに励む一方で、海外の要人を尋ねて、盛んに渡航を開始したのであ
る」〔『フオーラム21」03年2月1日号)
 もうひとつの転機は、72年10月に日蓮正宗の大石寺(静岡県富士宮市)で創価学会が進めた
「正本堂」建設のための寄付の呼びかけに、学会員から350億円を超える莫大なカネが集ま
つたことである。池田にとっても予想外の金額で、創価学会の持つ潜在的な資金収集力を、あ
らためて思い知らされることになった。
日本国内での批判と破格の動員力、そして豊富な資金──これらの要素がからみ合い、国連
へのアプローチに拍車がかかつていく。
 正本堂完成後から半年もたたない73d年2月には、ベトナム難民救援、6月には、ビアフラ難民
救援と立て続けに募金活動を行なった。また、核廃絶1000万人署名を集め、それを提出
するという名目で、75年、池田は国連のワルトハイム総長との面会に成功。82年には、ニューヨ
ークの国連本部で「核兵器ー現代世界の脅威」展を開催(その後、世界25都市を巡回)。そして83年
には、「国連平和賞」を受賞している。 面白いことに、「国連平和賞」受賞の事実について、SGI
は積極的な宣伝は行なつていない。
英語のSGIオフィシャルサイトや英国SGI、アメリカSGIなどのサイトをのぞいても、池田大作の経歴
紹介の中にさえ出てこないのだ。日本国内での喧伝ぶリとは、あまリにも落差が大きい。
「国連平和賞」(国連平和メダル)は、実は結構乱発されている。たとえば、創価学会とともに95年
のフランス「国会報告書」(後述)で有害カル卜にリストアップされたサハジャヨガの教祖シユリマ
タジでさえ受賞しているのだ。
 ちなみに池田は、89年に国連難民高等弁務官事務所から「人道賞」を受けているが、これはネ
ルソン・マンデラなどが受賞した国連総会の決議にもとづいて創設された権威のある「国連人権
賞」とは別物である。

◆ノーベル平和賞取リの工作資金
 ところで、写真週刊誌『FRIDAY』10年12月10日号は、ルノワールの絵画を介した創価学会の
使途不明金事件に関与した陶磁器店「立花」の役員、立花玲子が「(取引は)創価学会の裏ガネ作リ
を目的としたもの。行方不明の3億円は八尋副会長に渡リ、池田氏のノーベル平和賞取リの工作資
金だった」と告白しているテープの存在について記事にしている。
 この「ルノワール事伴」が起つたのは89年のことだった。
その年の5月から6月にかけて、池田大作はヨーロッパを歴訪し、英国ではアン王女、サッチヤー
首相と、フランスでは大統領官邸でミッテラン大統領と会談した。パリでは大統領夫人の財団と
創価学会およびフランス革命200周年記念行事実行委員会共催のコンサー卜も開かれている
(報道によればコンサート直後に当時のレートで約630万円、3力月後に約370万円が創価学会から、
大統領夫人の財団に寄付された)。
 そしてノーベル賞の提唱者アルフレッド・ノーベルの母国スゥェーデンにも足をのぱし、グ
スタフ国王、力ールソン首相と会談。国王と王妃は、国立東洋美術館で開かれた「自然との対
話」と題した池田大作写真展のオープニングにも出席している。
 創価学会は海外において、こうした池田がらみの"イベント"をどのように仕込んでいるのだ
ろうか?
 まず直接アプローチするのではなく、ターゲットとする分野の有力者をシンパにし、彼らを
「卜ロイの木馬」としてワンクッシヨンを置いたうえ、政界や経済界などに働きかけるのが一
股的だ。
「トロイの木馬」は、なにも信者である必要はない。むしろ、そうでないほうがかえつて世間の
信用を得られやすい。視点を変えてみれば、この工作は折伏、つまリ布教とは別の次元にあるとい
える。
 たとえば、国連における「トロイの木馬」の一人が、後に公明党の推薦を受けて東京都知事
選に立候補した幹部職員、明石康である。明石が、カンボジア暫定統治機構事務総長特別代表
に就任(92年)した際、学会青年部が隣近所をまわつて何十万個もの使い古しのラジオを集め
て送った。彼の地で選挙が円滑に実施されるよう、国民にメッセージを届けるためにラジオの
配布が必要になつたからだ。
創価学会から破門ざれた元弁護士の山崎正友によれば、池田はこの見返リとして、明石から
ノーベル賞獲得に向けてできるかぎリ協力するという約束を取りつけたという(『池田大作日
本経済乗っ取りの野望』「自由の砦」編集局)。
 こうした外交・政治ルー卜が、ノーベル平和賞受賞工作に使われてきたことは、想像にかたく
ない。

◆ノーベル平和貢受賞者への接近
 物理学、化学、生理学医学、文学、経済学5分野のノーベル賞は、スゥェーデン王立科学ア力
デミーなどが審査を行なうが、ノーベル平和賞だけは、ノルウェー・ノーベル委員会の5人の委
員が密室審議のうえで、毎年受賞者を決定している。
 候補者に選ばれるためには、……
当該国の閣僚や国会議員、裁判官、著名学者らの推薦状を選考委員会に送り、同時に世界各国
の著名な政治家、学者、国際司法裁判所裁判官、過去の平和賞受賞者からの支持の多数の手紙を、
委員会に送らなければならない。
 5人の委員は「世界中から集まった候補者の推薦文、手紙、著書などを考慮しながら、ノーベル
研究所所属のアドバィザーの助けを借リ、独自の調査方法で40~50人の候補者を次第に絞つてい
く」(浜田和幸『ノーベル平和賞の虚構」一宝島社刊)。
こうした仕組みを知ると、これまで池田が仕掛けてきた無定見にも見えるノーベル平和賞受
賞者との面談も、案外、理にかなつた戦略なのかもしれない。
ライナス・ポーリング(化学者で核実験反対運動活動家、62年受賞)、
ヘンリー・キッシンジャー(政治家、73年受賞)、
 ベティ・ウイリアムズ(北アイルランド平和活動家、76年受賞)、
 アドルフォ・ペレス・エスキべル(アルゼンチン平和活動家、80年受賞)、
エリ・ヴィーゼル(ユダャ人作家、86年受賞)、
 オスカル・アリアス・サンチェス(コスタリカ大統領、87年受賞)、
ミハイル・ゴルバチヨフ(元ソ連大統領、90年受賞)、
 ネルソン・マンデラ (南アフリカ大統領、93年受賞)、
ジヨセフ・ロートブラッ卜(平和活動家、95年受賞)……。
まさになリふリかまわず、手当たり次第にノーベル平和賞受賞者に接近してきた。
 このほか05年にノーベル平和賞を受賞した国際原子力機関〔IAEA)にも接近、同じく平和受賞
者である同機関のモハメド・エルバラダイ事務総長に創価大学の名誉博士号を与えている。さら
に、もっと込みいつた手も使ってきた。
 アメリカの数少ない黒人名門大学モアハウス大学が、01年に「ガンジー・キング・イケダ平和
賞」を創設し、「ガンジー・キング・イケダ展」の巡回展示を始めた。
 形式上、創価学会はあくまでもスポンサーのひとつにしかすぎないとされている。
 だが翌02年になると、さっそくノーベル賞の創設者アルフレツド・ノーベルの曾甥、マイケル
・ノーベルに自前の平和賞を与えているのだ。
 各国著名人との歯の浮くような対談集(もっとも外国語に翻訳されると随分締まつた内容に
なる)も、創価大学名誉博士号や賞の乱発も、池田自身が受けた300に及ぶ名誉市民や名誉博士号
も、ノーベル平和賞取リには少しは役立つてきたのかもしれない。

◆SGIは池田の広告代理店か?
 創価学会の海外進出は、公式にはあくまでも布教活動が目的だった。だが、財務(学会員からの
お布施)が慣例化され、創価学会の資金力が飛躍的に拡大してからは、池田大作本人を人道主義者、
平和主義者として売リ込むことにシフトしていったといえるだろう。
 たとえば、先ほど紹介した〝国連提言〟でも、主語は創価学会ではなく、あくまでも「私」で
あリ、池田大作の提言とされている。その意味で、75年1月に創価学会インタナショナル(SGI)が
結成された意義は大きい。
SGIは単なる創価学会の国際部と見られがちだが、「軽視してはならない」とある学会ウォッ
チヤ—は言う。
「池田がトップに君臨する直属組織であることを忘れてはなりません。外国の信者は、SGIを通
じて直接池田に結びついている。まさに池田による池田のための組織です。しかも、当初看板に
していた日蓮正宗との関係が悪化しても、万が一何らかの理由で日本の創価学会が解散しても、
SGIは進出国の最高指導者との関係を維持でき、池田の勢力は温存されるのです」 海外進出に際
して、SGIの名前が頻繁に使われるようになつたのは83年ごろからだ。
 非宗教的な響きのあるSGI(直訳すれば国際価値創造学会)は、宗教と距離を置いた「人道平和
団体」という印象を外部に対して与えてきた。海外進出が、布教から池田の称揚にますますシフ
トした証といえよう。そして、その先にはノーベル平和賞の受賞という目的があつたのだ。しか
し皮肉なことに、人道平和運動の強力な推進が、逆にノーベル平和賞取りにブレーキをかける事
態が池田を襲っている。
舞台はフランス。文化の国、ナポレオンの国として池田が賞賛してやまない国であリ、SGIのヨ
ーロッパ布教の拠点で、それは起こったのだ。

 ───────(~97頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=

◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
  その親分は、史上類なき・(おぞましき・カリスマ)池田大作

◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
  大衆犠牲 悪しき天才、底なし俗物 …で50年

◆昭和32年7月10日 創価学会
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