○池田大作と暴力団… <=16>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部
長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!
────(以下、引用)──────◇─────(100頁から)──◇─────
カリスマの潰えた野望
池田大作「ノーベル平和賞受賞」工作の軌跡
日本国内で多くの批判を浴びてきた池田大作は、
ならば海外でと、本気で平和賞の受賞を狙っていた。
◆日本で評価されない反動
第2次大戦後、進駐軍の兵士と結婚した日本女性が夫についてアメリカに渡った。そのなか
には、朝なタなに「南無妙法蓮華経」とお題目を熱心に唱える者もいた。彼女たちは細々と座
談会と折伏を続けていった。
1960年3月、池田大作が第三代会長に就任する。
その年の10月、池田は後に第四代会長となる北條浩や第五代会長となる秋谷栄之助らを引き連
れてアメリカに渡った。
「だが、そのとき彼らを迎えた各地の信者は、まだ微々たるものであった。たとえば、ハワイ
のホノルル空港に出迎えた各地の信者は、わずかに三〇名ほどであった。それがこの地の全会
員であった」(『海を渡った日本宗教』井上順孝、弘文堂刊)
池田らはハワイからアメリカ本土に渡り、信者の組織化やアメリ力総本部の立ち上げを進め
ていった。このアメリカ旅行で、池田は終生抱きつづけた野望の原点ともいうべき体験をする。
国連訪問である。
「(その記憶は)今なお鮮明でぁリます。当時は、ハマーショルド総長の時代で、国連本部で
は折しも、アメリカのアイゼンハワー大統領やソ連のフルシチョフ首相をはじめ、世界各国の
首脳が数多く出席した、第15回国連総会が行われておりました。
本会議や委員会の議事を傍聴する中で、私の胸に深く残ったのは、独立してまもないアフリ
力諸国の代表が、生き生きと討議に参加している姿であります」と後に池田は述べている
〔2006年8月30日、池田の国連提言「世界が期待する国連たれ」より)。
もっとも、"訪問"とはいつても、いわば一観光客として国連を見学しただけだつたのだが。
初の国連訪問から10年ほどして、池田.創価学会に大きな転機が訪れる。
ひとつは、69年に起こった言論出版妨害事件である。藤原弘達の学会批判本『創価学会を斬る』
の出版を妨害したことなどで、池田大作と創価学会、公明党が社会的な批判にさらされた。
学会事情に詳しいジャーナリストの段勲は、この事件と池田の海外進出の関係についてこう
指滴している。
「『言論出版妨害事件』が沈静化すると池田大作の目は海外に向けられた。『SGI』(注:創価学会
インタナショナル)の組織作りに励む一方で、海外の要人を尋ねて、盛んに渡航を開始したのであ
る」〔『フオーラム21」03年2月1日号)
もうひとつの転機は、72年10月に日蓮正宗の大石寺(静岡県富士宮市)で創価学会が進めた
「正本堂」建設のための寄付の呼びかけに、学会員から350億円を超える莫大なカネが集ま
つたことである。池田にとっても予想外の金額で、創価学会の持つ潜在的な資金収集力を、あ
らためて思い知らされることになった。
日本国内での批判と破格の動員力、そして豊富な資金──これらの要素がからみ合い、国連
へのアプローチに拍車がかかつていく。
正本堂完成後から半年もたたない73d年2月には、ベトナム難民救援、6月には、ビアフラ難民
救援と立て続けに募金活動を行なった。また、核廃絶1000万人署名を集め、それを提出
するという名目で、75年、池田は国連のワルトハイム総長との面会に成功。82年には、ニューヨ
ークの国連本部で「核兵器ー現代世界の脅威」展を開催(その後、世界25都市を巡回)。そして83年
には、「国連平和賞」を受賞している。 面白いことに、「国連平和賞」受賞の事実について、SGI
は積極的な宣伝は行なつていない。
英語のSGIオフィシャルサイトや英国SGI、アメリカSGIなどのサイトをのぞいても、池田大作の経歴
紹介の中にさえ出てこないのだ。日本国内での喧伝ぶリとは、あまリにも落差が大きい。
「国連平和賞」(国連平和メダル)は、実は結構乱発されている。たとえば、創価学会とともに95年
のフランス「国会報告書」(後述)で有害カル卜にリストアップされたサハジャヨガの教祖シユリマ
タジでさえ受賞しているのだ。
ちなみに池田は、89年に国連難民高等弁務官事務所から「人道賞」を受けているが、これはネ
ルソン・マンデラなどが受賞した国連総会の決議にもとづいて創設された権威のある「国連人権
賞」とは別物である。
◆ノーベル平和賞取リの工作資金
ところで、写真週刊誌『FRIDAY』10年12月10日号は、ルノワールの絵画を介した創価学会の
使途不明金事件に関与した陶磁器店「立花」の役員、立花玲子が「(取引は)創価学会の裏ガネ作リ
を目的としたもの。行方不明の3億円は八尋副会長に渡リ、池田氏のノーベル平和賞取リの工作資
金だった」と告白しているテープの存在について記事にしている。
この「ルノワール事伴」が起つたのは89年のことだった。
その年の5月から6月にかけて、池田大作はヨーロッパを歴訪し、英国ではアン王女、サッチヤー
首相と、フランスでは大統領官邸でミッテラン大統領と会談した。パリでは大統領夫人の財団と
創価学会およびフランス革命200周年記念行事実行委員会共催のコンサー卜も開かれている
(報道によればコンサート直後に当時のレートで約630万円、3力月後に約370万円が創価学会から、
大統領夫人の財団に寄付された)。
そしてノーベル賞の提唱者アルフレッド・ノーベルの母国スゥェーデンにも足をのぱし、グ
スタフ国王、力ールソン首相と会談。国王と王妃は、国立東洋美術館で開かれた「自然との対
話」と題した池田大作写真展のオープニングにも出席している。
創価学会は海外において、こうした池田がらみの"イベント"をどのように仕込んでいるのだ
ろうか?
まず直接アプローチするのではなく、ターゲットとする分野の有力者をシンパにし、彼らを
「卜ロイの木馬」としてワンクッシヨンを置いたうえ、政界や経済界などに働きかけるのが一
股的だ。
「トロイの木馬」は、なにも信者である必要はない。むしろ、そうでないほうがかえつて世間の
信用を得られやすい。視点を変えてみれば、この工作は折伏、つまリ布教とは別の次元にあるとい
える。
たとえば、国連における「トロイの木馬」の一人が、後に公明党の推薦を受けて東京都知事
選に立候補した幹部職員、明石康である。明石が、カンボジア暫定統治機構事務総長特別代表
に就任(92年)した際、学会青年部が隣近所をまわつて何十万個もの使い古しのラジオを集め
て送った。彼の地で選挙が円滑に実施されるよう、国民にメッセージを届けるためにラジオの
配布が必要になつたからだ。
創価学会から破門ざれた元弁護士の山崎正友によれば、池田はこの見返リとして、明石から
ノーベル賞獲得に向けてできるかぎリ協力するという約束を取りつけたという(『池田大作日
本経済乗っ取りの野望』「自由の砦」編集局)。
こうした外交・政治ルー卜が、ノーベル平和賞受賞工作に使われてきたことは、想像にかたく
ない。
◆ノーベル平和貢受賞者への接近
物理学、化学、生理学医学、文学、経済学5分野のノーベル賞は、スゥェーデン王立科学ア力
デミーなどが審査を行なうが、ノーベル平和賞だけは、ノルウェー・ノーベル委員会の5人の委
員が密室審議のうえで、毎年受賞者を決定している。
候補者に選ばれるためには、……
当該国の閣僚や国会議員、裁判官、著名学者らの推薦状を選考委員会に送り、同時に世界各国
の著名な政治家、学者、国際司法裁判所裁判官、過去の平和賞受賞者からの支持の多数の手紙を、
委員会に送らなければならない。
5人の委員は「世界中から集まった候補者の推薦文、手紙、著書などを考慮しながら、ノーベル
研究所所属のアドバィザーの助けを借リ、独自の調査方法で40~50人の候補者を次第に絞つてい
く」(浜田和幸『ノーベル平和賞の虚構」一宝島社刊)。
こうした仕組みを知ると、これまで池田が仕掛けてきた無定見にも見えるノーベル平和賞受
賞者との面談も、案外、理にかなつた戦略なのかもしれない。
ライナス・ポーリング(化学者で核実験反対運動活動家、62年受賞)、
ヘンリー・キッシンジャー(政治家、73年受賞)、
ベティ・ウイリアムズ(北アイルランド平和活動家、76年受賞)、
アドルフォ・ペレス・エスキべル(アルゼンチン平和活動家、80年受賞)、
エリ・ヴィーゼル(ユダャ人作家、86年受賞)、
オスカル・アリアス・サンチェス(コスタリカ大統領、87年受賞)、
ミハイル・ゴルバチヨフ(元ソ連大統領、90年受賞)、
ネルソン・マンデラ (南アフリカ大統領、93年受賞)、
ジヨセフ・ロートブラッ卜(平和活動家、95年受賞)……。
まさになリふリかまわず、手当たり次第にノーベル平和賞受賞者に接近してきた。
このほか05年にノーベル平和賞を受賞した国際原子力機関〔IAEA)にも接近、同じく平和受賞
者である同機関のモハメド・エルバラダイ事務総長に創価大学の名誉博士号を与えている。さら
に、もっと込みいつた手も使ってきた。
アメリカの数少ない黒人名門大学モアハウス大学が、01年に「ガンジー・キング・イケダ平和
賞」を創設し、「ガンジー・キング・イケダ展」の巡回展示を始めた。
形式上、創価学会はあくまでもスポンサーのひとつにしかすぎないとされている。
だが翌02年になると、さっそくノーベル賞の創設者アルフレツド・ノーベルの曾甥、マイケル
・ノーベルに自前の平和賞を与えているのだ。
各国著名人との歯の浮くような対談集(もっとも外国語に翻訳されると随分締まつた内容に
なる)も、創価大学名誉博士号や賞の乱発も、池田自身が受けた300に及ぶ名誉市民や名誉博士号
も、ノーベル平和賞取リには少しは役立つてきたのかもしれない。
◆SGIは池田の広告代理店か?
創価学会の海外進出は、公式にはあくまでも布教活動が目的だった。だが、財務(学会員からの
お布施)が慣例化され、創価学会の資金力が飛躍的に拡大してからは、池田大作本人を人道主義者、
平和主義者として売リ込むことにシフトしていったといえるだろう。
たとえば、先ほど紹介した〝国連提言〟でも、主語は創価学会ではなく、あくまでも「私」で
あリ、池田大作の提言とされている。その意味で、75年1月に創価学会インタナショナル(SGI)が
結成された意義は大きい。
SGIは単なる創価学会の国際部と見られがちだが、「軽視してはならない」とある学会ウォッ
チヤ—は言う。
「池田がトップに君臨する直属組織であることを忘れてはなりません。外国の信者は、SGIを通
じて直接池田に結びついている。まさに池田による池田のための組織です。しかも、当初看板に
していた日蓮正宗との関係が悪化しても、万が一何らかの理由で日本の創価学会が解散しても、
SGIは進出国の最高指導者との関係を維持でき、池田の勢力は温存されるのです」 海外進出に際
して、SGIの名前が頻繁に使われるようになつたのは83年ごろからだ。
非宗教的な響きのあるSGI(直訳すれば国際価値創造学会)は、宗教と距離を置いた「人道平和
団体」という印象を外部に対して与えてきた。海外進出が、布教から池田の称揚にますますシフ
トした証といえよう。そして、その先にはノーベル平和賞の受賞という目的があつたのだ。しか
し皮肉なことに、人道平和運動の強力な推進が、逆にノーベル平和賞取りにブレーキをかける事
態が池田を襲っている。
舞台はフランス。文化の国、ナポレオンの国として池田が賞賛してやまない国であリ、SGIのヨ
ーロッパ布教の拠点で、それは起こったのだ。
───────(~97頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)
◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
その親分は、史上類なき・(おぞましき・カリスマ)池田大作
◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
大衆犠牲 悪しき天才、底なし俗物 …で50年
◆昭和32年7月10日 創価学会
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部
長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!
────(以下、引用)──────◇─────(100頁から)──◇─────
カリスマの潰えた野望
池田大作「ノーベル平和賞受賞」工作の軌跡
日本国内で多くの批判を浴びてきた池田大作は、
ならば海外でと、本気で平和賞の受賞を狙っていた。
◆日本で評価されない反動
第2次大戦後、進駐軍の兵士と結婚した日本女性が夫についてアメリカに渡った。そのなか
には、朝なタなに「南無妙法蓮華経」とお題目を熱心に唱える者もいた。彼女たちは細々と座
談会と折伏を続けていった。
1960年3月、池田大作が第三代会長に就任する。
その年の10月、池田は後に第四代会長となる北條浩や第五代会長となる秋谷栄之助らを引き連
れてアメリカに渡った。
「だが、そのとき彼らを迎えた各地の信者は、まだ微々たるものであった。たとえば、ハワイ
のホノルル空港に出迎えた各地の信者は、わずかに三〇名ほどであった。それがこの地の全会
員であった」(『海を渡った日本宗教』井上順孝、弘文堂刊)
池田らはハワイからアメリカ本土に渡り、信者の組織化やアメリ力総本部の立ち上げを進め
ていった。このアメリカ旅行で、池田は終生抱きつづけた野望の原点ともいうべき体験をする。
国連訪問である。
「(その記憶は)今なお鮮明でぁリます。当時は、ハマーショルド総長の時代で、国連本部で
は折しも、アメリカのアイゼンハワー大統領やソ連のフルシチョフ首相をはじめ、世界各国の
首脳が数多く出席した、第15回国連総会が行われておりました。
本会議や委員会の議事を傍聴する中で、私の胸に深く残ったのは、独立してまもないアフリ
力諸国の代表が、生き生きと討議に参加している姿であります」と後に池田は述べている
〔2006年8月30日、池田の国連提言「世界が期待する国連たれ」より)。
もっとも、"訪問"とはいつても、いわば一観光客として国連を見学しただけだつたのだが。
初の国連訪問から10年ほどして、池田.創価学会に大きな転機が訪れる。
ひとつは、69年に起こった言論出版妨害事件である。藤原弘達の学会批判本『創価学会を斬る』
の出版を妨害したことなどで、池田大作と創価学会、公明党が社会的な批判にさらされた。
学会事情に詳しいジャーナリストの段勲は、この事件と池田の海外進出の関係についてこう
指滴している。
「『言論出版妨害事件』が沈静化すると池田大作の目は海外に向けられた。『SGI』(注:創価学会
インタナショナル)の組織作りに励む一方で、海外の要人を尋ねて、盛んに渡航を開始したのであ
る」〔『フオーラム21」03年2月1日号)
もうひとつの転機は、72年10月に日蓮正宗の大石寺(静岡県富士宮市)で創価学会が進めた
「正本堂」建設のための寄付の呼びかけに、学会員から350億円を超える莫大なカネが集ま
つたことである。池田にとっても予想外の金額で、創価学会の持つ潜在的な資金収集力を、あ
らためて思い知らされることになった。
日本国内での批判と破格の動員力、そして豊富な資金──これらの要素がからみ合い、国連
へのアプローチに拍車がかかつていく。
正本堂完成後から半年もたたない73d年2月には、ベトナム難民救援、6月には、ビアフラ難民
救援と立て続けに募金活動を行なった。また、核廃絶1000万人署名を集め、それを提出
するという名目で、75年、池田は国連のワルトハイム総長との面会に成功。82年には、ニューヨ
ークの国連本部で「核兵器ー現代世界の脅威」展を開催(その後、世界25都市を巡回)。そして83年
には、「国連平和賞」を受賞している。 面白いことに、「国連平和賞」受賞の事実について、SGI
は積極的な宣伝は行なつていない。
英語のSGIオフィシャルサイトや英国SGI、アメリカSGIなどのサイトをのぞいても、池田大作の経歴
紹介の中にさえ出てこないのだ。日本国内での喧伝ぶリとは、あまリにも落差が大きい。
「国連平和賞」(国連平和メダル)は、実は結構乱発されている。たとえば、創価学会とともに95年
のフランス「国会報告書」(後述)で有害カル卜にリストアップされたサハジャヨガの教祖シユリマ
タジでさえ受賞しているのだ。
ちなみに池田は、89年に国連難民高等弁務官事務所から「人道賞」を受けているが、これはネ
ルソン・マンデラなどが受賞した国連総会の決議にもとづいて創設された権威のある「国連人権
賞」とは別物である。
◆ノーベル平和賞取リの工作資金
ところで、写真週刊誌『FRIDAY』10年12月10日号は、ルノワールの絵画を介した創価学会の
使途不明金事件に関与した陶磁器店「立花」の役員、立花玲子が「(取引は)創価学会の裏ガネ作リ
を目的としたもの。行方不明の3億円は八尋副会長に渡リ、池田氏のノーベル平和賞取リの工作資
金だった」と告白しているテープの存在について記事にしている。
この「ルノワール事伴」が起つたのは89年のことだった。
その年の5月から6月にかけて、池田大作はヨーロッパを歴訪し、英国ではアン王女、サッチヤー
首相と、フランスでは大統領官邸でミッテラン大統領と会談した。パリでは大統領夫人の財団と
創価学会およびフランス革命200周年記念行事実行委員会共催のコンサー卜も開かれている
(報道によればコンサート直後に当時のレートで約630万円、3力月後に約370万円が創価学会から、
大統領夫人の財団に寄付された)。
そしてノーベル賞の提唱者アルフレッド・ノーベルの母国スゥェーデンにも足をのぱし、グ
スタフ国王、力ールソン首相と会談。国王と王妃は、国立東洋美術館で開かれた「自然との対
話」と題した池田大作写真展のオープニングにも出席している。
創価学会は海外において、こうした池田がらみの"イベント"をどのように仕込んでいるのだ
ろうか?
まず直接アプローチするのではなく、ターゲットとする分野の有力者をシンパにし、彼らを
「卜ロイの木馬」としてワンクッシヨンを置いたうえ、政界や経済界などに働きかけるのが一
股的だ。
「トロイの木馬」は、なにも信者である必要はない。むしろ、そうでないほうがかえつて世間の
信用を得られやすい。視点を変えてみれば、この工作は折伏、つまリ布教とは別の次元にあるとい
える。
たとえば、国連における「トロイの木馬」の一人が、後に公明党の推薦を受けて東京都知事
選に立候補した幹部職員、明石康である。明石が、カンボジア暫定統治機構事務総長特別代表
に就任(92年)した際、学会青年部が隣近所をまわつて何十万個もの使い古しのラジオを集め
て送った。彼の地で選挙が円滑に実施されるよう、国民にメッセージを届けるためにラジオの
配布が必要になつたからだ。
創価学会から破門ざれた元弁護士の山崎正友によれば、池田はこの見返リとして、明石から
ノーベル賞獲得に向けてできるかぎリ協力するという約束を取りつけたという(『池田大作日
本経済乗っ取りの野望』「自由の砦」編集局)。
こうした外交・政治ルー卜が、ノーベル平和賞受賞工作に使われてきたことは、想像にかたく
ない。
◆ノーベル平和貢受賞者への接近
物理学、化学、生理学医学、文学、経済学5分野のノーベル賞は、スゥェーデン王立科学ア力
デミーなどが審査を行なうが、ノーベル平和賞だけは、ノルウェー・ノーベル委員会の5人の委
員が密室審議のうえで、毎年受賞者を決定している。
候補者に選ばれるためには、……
当該国の閣僚や国会議員、裁判官、著名学者らの推薦状を選考委員会に送り、同時に世界各国
の著名な政治家、学者、国際司法裁判所裁判官、過去の平和賞受賞者からの支持の多数の手紙を、
委員会に送らなければならない。
5人の委員は「世界中から集まった候補者の推薦文、手紙、著書などを考慮しながら、ノーベル
研究所所属のアドバィザーの助けを借リ、独自の調査方法で40~50人の候補者を次第に絞つてい
く」(浜田和幸『ノーベル平和賞の虚構」一宝島社刊)。
こうした仕組みを知ると、これまで池田が仕掛けてきた無定見にも見えるノーベル平和賞受
賞者との面談も、案外、理にかなつた戦略なのかもしれない。
ライナス・ポーリング(化学者で核実験反対運動活動家、62年受賞)、
ヘンリー・キッシンジャー(政治家、73年受賞)、
ベティ・ウイリアムズ(北アイルランド平和活動家、76年受賞)、
アドルフォ・ペレス・エスキべル(アルゼンチン平和活動家、80年受賞)、
エリ・ヴィーゼル(ユダャ人作家、86年受賞)、
オスカル・アリアス・サンチェス(コスタリカ大統領、87年受賞)、
ミハイル・ゴルバチヨフ(元ソ連大統領、90年受賞)、
ネルソン・マンデラ (南アフリカ大統領、93年受賞)、
ジヨセフ・ロートブラッ卜(平和活動家、95年受賞)……。
まさになリふリかまわず、手当たり次第にノーベル平和賞受賞者に接近してきた。
このほか05年にノーベル平和賞を受賞した国際原子力機関〔IAEA)にも接近、同じく平和受賞
者である同機関のモハメド・エルバラダイ事務総長に創価大学の名誉博士号を与えている。さら
に、もっと込みいつた手も使ってきた。
アメリカの数少ない黒人名門大学モアハウス大学が、01年に「ガンジー・キング・イケダ平和
賞」を創設し、「ガンジー・キング・イケダ展」の巡回展示を始めた。
形式上、創価学会はあくまでもスポンサーのひとつにしかすぎないとされている。
だが翌02年になると、さっそくノーベル賞の創設者アルフレツド・ノーベルの曾甥、マイケル
・ノーベルに自前の平和賞を与えているのだ。
各国著名人との歯の浮くような対談集(もっとも外国語に翻訳されると随分締まつた内容に
なる)も、創価大学名誉博士号や賞の乱発も、池田自身が受けた300に及ぶ名誉市民や名誉博士号
も、ノーベル平和賞取リには少しは役立つてきたのかもしれない。
◆SGIは池田の広告代理店か?
創価学会の海外進出は、公式にはあくまでも布教活動が目的だった。だが、財務(学会員からの
お布施)が慣例化され、創価学会の資金力が飛躍的に拡大してからは、池田大作本人を人道主義者、
平和主義者として売リ込むことにシフトしていったといえるだろう。
たとえば、先ほど紹介した〝国連提言〟でも、主語は創価学会ではなく、あくまでも「私」で
あリ、池田大作の提言とされている。その意味で、75年1月に創価学会インタナショナル(SGI)が
結成された意義は大きい。
SGIは単なる創価学会の国際部と見られがちだが、「軽視してはならない」とある学会ウォッ
チヤ—は言う。
「池田がトップに君臨する直属組織であることを忘れてはなりません。外国の信者は、SGIを通
じて直接池田に結びついている。まさに池田による池田のための組織です。しかも、当初看板に
していた日蓮正宗との関係が悪化しても、万が一何らかの理由で日本の創価学会が解散しても、
SGIは進出国の最高指導者との関係を維持でき、池田の勢力は温存されるのです」 海外進出に際
して、SGIの名前が頻繁に使われるようになつたのは83年ごろからだ。
非宗教的な響きのあるSGI(直訳すれば国際価値創造学会)は、宗教と距離を置いた「人道平和
団体」という印象を外部に対して与えてきた。海外進出が、布教から池田の称揚にますますシフ
トした証といえよう。そして、その先にはノーベル平和賞の受賞という目的があつたのだ。しか
し皮肉なことに、人道平和運動の強力な推進が、逆にノーベル平和賞取りにブレーキをかける事
態が池田を襲っている。
舞台はフランス。文化の国、ナポレオンの国として池田が賞賛してやまない国であリ、SGIのヨ
ーロッパ布教の拠点で、それは起こったのだ。
───────(~97頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)
◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
その親分は、史上類なき・(おぞましき・カリスマ)池田大作
◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
大衆犠牲 悪しき天才、底なし俗物 …で50年
◆昭和32年7月10日 創価学会
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