○池田大作と暴力団… <=19>…西岡研介他……2012(H/24)/8─宝島社
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部長と
して反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!
────────────────改頁────── 106
金満教祖のルーツ「関西創価学会」の裏面史 森功
池田大作をトップに君臨させた高利貸し時代の営業力とカネ
西成の花園旅館で大阪支部の旗をあげた地田は,
高利貸しの大蔵商事で培った営業力を宗教や政治の世界でもいかんなく発揮していった。
創価学会の“聖地”大阪に“池田教”のルーツを探る。
─────(中略…以下)───────────改頁────── 109
◆内部闘争に勝利した戸田─池田コンビ
もとはといえば創価学会は、小学校の校長だった牧口常三郎により創価教育学会として創設さ
れた。牧口が戦前、戦中の教育弾圧を受け、治安維持法違反の罪で二代目創価学会会長になる戸
田城聖とともに獄につながれた。それゆえ創価学会は常に教育の独立を訴えてきた。今度の大阪
維新の会との連携の過程で、橋下の軍門に下ったが、日の丸君が代教育に反対してきたのは、そ
うした歴史的な背景もある。
もつとも池田大作に影響を与えたのは、牧口ではなく二代目会長の戸田だとされる。戸田の事
業意欲は知られたところだ。その腹心として池田大作は、宗教を広めるためには資金が必要だと
いう考え方を継承した。
池田は24年1月、教育出版を手掛けた「日本正学館」に入社し、その後雑誌『冒険少年』の編
集に携わったが、間もなく日本正学館は倒産。戸田は出版事業から金融業へと事業の足場を移し
た。それが「東京建設信用組合」だ。だが、これが大きな誤算だったという。
先の古参幹部が説明する。「戸田先生は、創価学会を広めるためには銭がいるという考えでした。
なかでも資本主義では銀行(金融機関)を持たなあかん、と。そこへ24年、ちょうど中小の建設会
社相手の東京建設信用組合が売りに出た。それでパッと買うたわけです。しかし、いかにも時期
が悪かった。ちょうど25年6月に勃発した朝鮮戦争を前に、米国がドッジライン政策を断行し、
日本の国債発行を止めるよう圧力をかけてきた。日本は超緊縮財政のなか、24年、25年と不況に
陥っていきました。あげく東京建設信用組合は、貸し出し先の中小企業が軒並み不渡りを出して
倒産し、融資が焦げ付いてしまいました。そうして50年1月には、買ったばかりの東京建設信用組合
が破綻してまうんです。それを察知した戸田先生は創価学会の理事長を降りたんですが、それが学
会分裂の火ダネにもなりました」
創価学会の前身である創価教育学会会長だった牧口常三郎は戦中の19年11月に獄中死し、理
事長だった戸田城聖が終戦後にあとを引き継いだ。
しばらく会長ポスト空席のまま、理事長の戸田は創価学会と改称し、金融業に血道をあげるよ
うになる。ところが、そんな矢先に買収した東京建設信用組合の破綻が確実になり、戸田が創価
学会の理事長ポストから辞任せざるを得なくなつたのである。
「その当時の法律では、他人の金を集めて融資する金融機関は破綻しただけで、経営者が刑事罰
に問われた。戸田先生たちをはじめ、組合で働いていた学会員たちが犯罪者になる寸前やつたん
です。で、破綻した25年1月6日、戸田先生は逮捕覚悟で大蔵省に出頭した。すると学会の幹部
たちは会社から逃げ出し、新しく創価学会の理事長になった矢島周平さんについた。池田先生だ
けが残って会社を立て直そうとしたんです」
しかし、事態は思わぬ方向に転がる。監督官庁の大蔵省では、東京建設信用組合の経営破綻につ
いて、債務返済を条件に刑事罰を問わなかった。この債務返済で役に立つたのが、戸田の手掛け
たもう一つの貸金会社である大蔵商事だ。
「信用組合の破綻で、戸田先生や池田先生たちは、億単位の借金を抱えてしまった。その借金を
返さないとお縄になる、とノンバンクの大蔵商事を設立したんです。戸田先生は顧問として表に
立たない分、池田先生が大蔵商事の営業部長として、いったん矢島派に移つた創価学会の流れを
戸田、池田のコンビで巻き返そうと、大蔵商事で稼いででいつたんです」(古参幹部)
大蔵商事は信用組合の破綻直後の25年10月に設立。創価学会の顧問弁護士だつた山崎正友の
告発手記などにも登場する貸金業者だ。創価学会の会員から集めた資金を高利で融資したり、中
小企業相手に手形割引を行なつて荒稼ぎしてきたとされる。折しも日本は25年5月に勃発した朝
鮮戦争の特需に沸き、大蔵商事にも面白いように利益が転がり込んできた。
そうして戸田、池田コンビは37年5月、創価学会の内部闘争に勝利し、戸田は晴れて会長の座
を射止める。それをサポートしだ池田が戸田の信頼を得ていったのはいうまでもない。
関西在住の公明党関係者(前出)が振り返る。
「戸田会長はもつばら事業を池田先生に任せ、日蓮正宗、創価学会の広宣流布、信者の獲得に全
力をあげようとした。会長就任時、『学会は現在三千人しか会員がいないけど、私の死ぬまで七年
で七十五万所帯にしてみせる。もし七十五万所帯の信者が達成できなかつたら、葬式の代わりに
品川の沖に骨を撒いてほしい』とまで公言しました。
その信者獲得のため、ターゲットにしたのが同じ日蓮聖人が開祖の日蓮宗で、30年5月に小樽
の日蓮宗妙龍寺の擅家を狙い、北海道に学会員を導入した小樽訪問などはその典型です。 そして
西の信者獲得で最も力を入れたのが大阪、拠点が西成の花園旅館だつたんです」
(以上、昭和に直した……)
◆高利貸しの営業力と選挙違反事件
1950年代(昭和25)から1960年代(昭和35)にかけ、創価学会内における戸田と池田の行動
は目まぐるしい。戸田の命を受け、創価学会の大阪支部長になつたプ口野球選手の白木義一郎は
31年6月、第4回参議院議員選挙に立候補し、当選する。まだ創価学会は政党を持っていなかった
ため、無所属からの出馬だが、これが事実上、公明党議員の第一号でもあった。
白木は36年の公明政治連盟の結成や39年の公明党結党の立役者として、その名を刻んだ。党
の副書記長や副委員長、中央統制委員長などの要職を歴任している。その白木をサボートしたの
が、大蔵商事の営業部長だった池田大作なのは繰り返すまでもない。戸田の肝いりで、西成の花
園旅館で大阪支部の旗をあげた池田は、高利貸しの大蔵商事で培つた営業力を宗教や政治の世界
でもいかんなく発揮していく。
再び公明関係者(前出)が指摘する。
「昭和31年の参院選時点で、まだ結成間もない学会の大阪支部は、信者が3万所帯もいませんで
した。だが、当選するには21万票は獲得せなあかんかった。その票を獲得できたのは、白木義一
郎いうプ口野球のスタータレント候補だつたからでしよう。戸田先生や池田先生は、それを計算
していたのでしょう
けど、そこから大阪における学会の組織力が固まっていきました。以来、この前の2009年の総
選挙で民主党に大敗するまで、大阪における公明党の得票数は国政、地方統一選挙を含めて常に
トップ。2位になったことすらなかったんです。池田先生をはじめ古手の学会幹部たちにとって、
大阪、西成は公明発祥の地という意識もあり、絶対に負けられない地域だから、いつも熱が入る
のです」 過去、関西で連戦連勝を重ねてきた創価学会・公明党にとつて、白木の当選とは反対
の意味で、大きな出来事があった。それが昭和32年4月、西成地域を舞台にした「大阪事件」と呼
ばれる選挙違反だ。
創価学会は、白木当選の勢いに乗り、この年に行なわれた参議院大阪地方区の補欠選挙で中尾
辰義を擁立。中尾はあえなく落選したが、選挙期間中に創価学会員が、あいりん地区に住む日雇
い労働者をタパコで買収したとして、摘発されるのである。大阪地検が、創価学会理事だつた小
泉隆や渉外部長だつた池田など、47人を公職選挙法違反で逮捕。大阪事件は、創価学会の組織を
あげて行なった選挙違反として、関係者の間で語り継がれるようになる。
このときの状況を知る創価学会幹部が打ち明ける。
「白木さんと違い、学会が送り込んだ中尾辰義という人は知名度がなく、かなり無理しなければ
ならなかった。結果も落選です。そのとき、東京からやつて来た応援部隊があいりん地区でバー
ッと金を撒きよつたわけです。タバコの中身を抜いて箱の中に札を入れてた。100円札とも500円
札ともいわれました。この選挙違反で選挙参謀として陣頭指揮を執つていたとして個
別訪問教唆で池田さんが引っ張られたわけです」
さらにこう続ける。
「ほんで、その金は一体どこから出てきたんやてなる。実は東京から動員された蒲田支部支部長の
小泉(理事)さんたちの捜査で、その買収資金が大蔵商事から出てる、となった。まさしく
池田先生のところからとなり、疑いが向けられたんです」
池田大作は戸田の腹心として大阪支部の立ち上げに成功し、タレント候補を使って選挙に勝つ
と同時に、選挙を通じて飛躍的に信者を伸ばしてきた。
すでに次期会長の有力候補として日の出の勢いにあつたといえる。そこに飛び出したのが大阪事
件だ。
1957年(昭和32)に始まった大阪事件の裁判は5年続き、1962年1月(昭和37)25日に判决
を迎える。その間、会長の戸田は池田らの無罪釈放を主張するが、初公判の翌58年(昭和33)に
鬼籍に入る。すると、創価学会は反池田の勢力が盛り返し、またも分裂の危機に瀕した。
創価学会次期会長候補レースは、理事の石田次男と池田の争いになる。それを決する大きな要
因が、大阪事件の裁判の成り行きだ。そのせいで2年ものあいだ、創価学会の会長は不在になる。
裁判を傍聴してきたという東京の創価学会員が指摘する。
「石田さんは池田さんより年上で、創価学会の理事や参議院議員を務めた。対する池田さんは、
当時まだ総務担当の部長どまり。石田さんを中心に、刑事被告入が宗教法人の会長になれるんか、
という批判が集まりました。実際、宗教法人法によると、有罪の確定した者は宗教法人の役員に
はなれません。そうして内部闘争を繰り広げたんです」
◆創価学会が空中分解していた!?
ところが、大阪事件の判決を前にした1960(昭和35)年、なぜか池田が三代目会長のイスに座
ることになる。前出の在京の学会員が、その理由を明かす。
「公判の中で裁判長が、逮捕した関係者の取り調べ調書があまりに出来過ぎている、と捜査に疑
義を差し挟んでいつたのです。釈放するから認めろという誘導尋問ではないか、という疑いが浮
上したんです。そうして検察側の旗色が悪くなつていくと同時に、池田さんが反撃に転じていきま
した。被告人として裁判があるごとに大阪へ下る。
その都度、大阪の学会活動に力を入れ、信者を増やしていきました。次第に大阪では東京に対
抗する意識が強まり、ますます池田人気が高まつていつたのです。
そうして大阪を中心に池田派の勢力が大きくなり、会長に就任できたんです」
すでに途中から裁判の成り行きが見えていたせいかもしれない。最終的に1962年1月(昭和37)
に大阪地裁で無罪の判决、2月には検察側が控訴を断念した。結果、名実ともに池田大作が創価学会
の頂点に君臨し、現在にいたっているのである。
しかし仮に、この西成の大阪事件が反対の展開になっていたら、事態はまつたく変わっていたに
違いない。創価学会はその後、池田教になるどころか、空中分解していた可能性もある。 再び公
判を傍聴してきた学会員の話。
「判決前の最終弁論に立つた池田さんは、無罪を確信していたのかもしれません。宗教団体が選
挙運動するのは国民に与えられた権利ではないか』とまで述べていました。その判決があつた翌
日の1月26日、本部幹部会で公明政治連盟の結成を発表しました。そこから本格的に政治に乗り
出したのです」
創価学会が三代目会長,池田大作のカリスマ性により、今日の隆盛を築いてきたのは論をまた
ない。だがその実、常に分裂の危険をはらんだ内部抗争を繰り広げてきた。
その池田創価学会の原点が大阪西成にあるといつても過言ではない。創価学会と公明党による
政教一致問題も、ここから始まっている。彼らにとって絶対に負けられない選挙区だとする理由
は、そのあたりに由来する。
ところが昨今、強固な地盤を誇り、連戦連勝を重ねてきたその創価学会選挙にも、陰りが見え
始めている。なりふり構わず、橋下徹詣でを重ね、大阪維新の会に選挙協力を取り付けたのは、
もはや単独では選挙に勝てない証左でもある。大阪は日本の近未来が現れている縮図だといわれ
るが、それは創価学会にとつてもあてはまるかもしれない。かって西成の花園旅館で生まれた池
田創価学会は、予想以上に急速にその威勢を失いつつある。(文中敬称略)
───────(~114頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)
◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
その親分は、カリスマでおぞましさ、史上類なき・池田大作
◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
大衆に… 外形は人格者 中味はゴロツキ …で50年
◆8月号の大百蓮華で任用試験特集号
◎悪と戦う
◎宗門事件の経過
◎日顕宗の大罪と邪義
◎広布破壊のほうぼう
◎法主信仰の邪義
◎誤った血脈観
◎僧俗差別
◎化儀の悪用
◎腐敗堕落
庇を借りて、ニセ本尊で破門(平成2年)され…逆ギレ・千年恨みの刷り込み洗脳…700万信徒?
◆石井一議員 創価学会を追及1/3
(表紙ウラ)
オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、
池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井富雄・都議会公明党
顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部長と
して反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
「パンドラの箱」からは、驚くべき事実が飛び出してきた!
────────────────改頁────── 106
金満教祖のルーツ「関西創価学会」の裏面史 森功
池田大作をトップに君臨させた高利貸し時代の営業力とカネ
西成の花園旅館で大阪支部の旗をあげた地田は,
高利貸しの大蔵商事で培った営業力を宗教や政治の世界でもいかんなく発揮していった。
創価学会の“聖地”大阪に“池田教”のルーツを探る。
─────(中略…以下)───────────改頁────── 109
◆内部闘争に勝利した戸田─池田コンビ
もとはといえば創価学会は、小学校の校長だった牧口常三郎により創価教育学会として創設さ
れた。牧口が戦前、戦中の教育弾圧を受け、治安維持法違反の罪で二代目創価学会会長になる戸
田城聖とともに獄につながれた。それゆえ創価学会は常に教育の独立を訴えてきた。今度の大阪
維新の会との連携の過程で、橋下の軍門に下ったが、日の丸君が代教育に反対してきたのは、そ
うした歴史的な背景もある。
もつとも池田大作に影響を与えたのは、牧口ではなく二代目会長の戸田だとされる。戸田の事
業意欲は知られたところだ。その腹心として池田大作は、宗教を広めるためには資金が必要だと
いう考え方を継承した。
池田は24年1月、教育出版を手掛けた「日本正学館」に入社し、その後雑誌『冒険少年』の編
集に携わったが、間もなく日本正学館は倒産。戸田は出版事業から金融業へと事業の足場を移し
た。それが「東京建設信用組合」だ。だが、これが大きな誤算だったという。
先の古参幹部が説明する。「戸田先生は、創価学会を広めるためには銭がいるという考えでした。
なかでも資本主義では銀行(金融機関)を持たなあかん、と。そこへ24年、ちょうど中小の建設会
社相手の東京建設信用組合が売りに出た。それでパッと買うたわけです。しかし、いかにも時期
が悪かった。ちょうど25年6月に勃発した朝鮮戦争を前に、米国がドッジライン政策を断行し、
日本の国債発行を止めるよう圧力をかけてきた。日本は超緊縮財政のなか、24年、25年と不況に
陥っていきました。あげく東京建設信用組合は、貸し出し先の中小企業が軒並み不渡りを出して
倒産し、融資が焦げ付いてしまいました。そうして50年1月には、買ったばかりの東京建設信用組合
が破綻してまうんです。それを察知した戸田先生は創価学会の理事長を降りたんですが、それが学
会分裂の火ダネにもなりました」
創価学会の前身である創価教育学会会長だった牧口常三郎は戦中の19年11月に獄中死し、理
事長だった戸田城聖が終戦後にあとを引き継いだ。
しばらく会長ポスト空席のまま、理事長の戸田は創価学会と改称し、金融業に血道をあげるよ
うになる。ところが、そんな矢先に買収した東京建設信用組合の破綻が確実になり、戸田が創価
学会の理事長ポストから辞任せざるを得なくなつたのである。
「その当時の法律では、他人の金を集めて融資する金融機関は破綻しただけで、経営者が刑事罰
に問われた。戸田先生たちをはじめ、組合で働いていた学会員たちが犯罪者になる寸前やつたん
です。で、破綻した25年1月6日、戸田先生は逮捕覚悟で大蔵省に出頭した。すると学会の幹部
たちは会社から逃げ出し、新しく創価学会の理事長になった矢島周平さんについた。池田先生だ
けが残って会社を立て直そうとしたんです」
しかし、事態は思わぬ方向に転がる。監督官庁の大蔵省では、東京建設信用組合の経営破綻につ
いて、債務返済を条件に刑事罰を問わなかった。この債務返済で役に立つたのが、戸田の手掛け
たもう一つの貸金会社である大蔵商事だ。
「信用組合の破綻で、戸田先生や池田先生たちは、億単位の借金を抱えてしまった。その借金を
返さないとお縄になる、とノンバンクの大蔵商事を設立したんです。戸田先生は顧問として表に
立たない分、池田先生が大蔵商事の営業部長として、いったん矢島派に移つた創価学会の流れを
戸田、池田のコンビで巻き返そうと、大蔵商事で稼いででいつたんです」(古参幹部)
大蔵商事は信用組合の破綻直後の25年10月に設立。創価学会の顧問弁護士だつた山崎正友の
告発手記などにも登場する貸金業者だ。創価学会の会員から集めた資金を高利で融資したり、中
小企業相手に手形割引を行なつて荒稼ぎしてきたとされる。折しも日本は25年5月に勃発した朝
鮮戦争の特需に沸き、大蔵商事にも面白いように利益が転がり込んできた。
そうして戸田、池田コンビは37年5月、創価学会の内部闘争に勝利し、戸田は晴れて会長の座
を射止める。それをサポートしだ池田が戸田の信頼を得ていったのはいうまでもない。
関西在住の公明党関係者(前出)が振り返る。
「戸田会長はもつばら事業を池田先生に任せ、日蓮正宗、創価学会の広宣流布、信者の獲得に全
力をあげようとした。会長就任時、『学会は現在三千人しか会員がいないけど、私の死ぬまで七年
で七十五万所帯にしてみせる。もし七十五万所帯の信者が達成できなかつたら、葬式の代わりに
品川の沖に骨を撒いてほしい』とまで公言しました。
その信者獲得のため、ターゲットにしたのが同じ日蓮聖人が開祖の日蓮宗で、30年5月に小樽
の日蓮宗妙龍寺の擅家を狙い、北海道に学会員を導入した小樽訪問などはその典型です。 そして
西の信者獲得で最も力を入れたのが大阪、拠点が西成の花園旅館だつたんです」
(以上、昭和に直した……)
◆高利貸しの営業力と選挙違反事件
1950年代(昭和25)から1960年代(昭和35)にかけ、創価学会内における戸田と池田の行動
は目まぐるしい。戸田の命を受け、創価学会の大阪支部長になつたプ口野球選手の白木義一郎は
31年6月、第4回参議院議員選挙に立候補し、当選する。まだ創価学会は政党を持っていなかった
ため、無所属からの出馬だが、これが事実上、公明党議員の第一号でもあった。
白木は36年の公明政治連盟の結成や39年の公明党結党の立役者として、その名を刻んだ。党
の副書記長や副委員長、中央統制委員長などの要職を歴任している。その白木をサボートしたの
が、大蔵商事の営業部長だった池田大作なのは繰り返すまでもない。戸田の肝いりで、西成の花
園旅館で大阪支部の旗をあげた池田は、高利貸しの大蔵商事で培つた営業力を宗教や政治の世界
でもいかんなく発揮していく。
再び公明関係者(前出)が指摘する。
「昭和31年の参院選時点で、まだ結成間もない学会の大阪支部は、信者が3万所帯もいませんで
した。だが、当選するには21万票は獲得せなあかんかった。その票を獲得できたのは、白木義一
郎いうプ口野球のスタータレント候補だつたからでしよう。戸田先生や池田先生は、それを計算
していたのでしょう
けど、そこから大阪における学会の組織力が固まっていきました。以来、この前の2009年の総
選挙で民主党に大敗するまで、大阪における公明党の得票数は国政、地方統一選挙を含めて常に
トップ。2位になったことすらなかったんです。池田先生をはじめ古手の学会幹部たちにとって、
大阪、西成は公明発祥の地という意識もあり、絶対に負けられない地域だから、いつも熱が入る
のです」 過去、関西で連戦連勝を重ねてきた創価学会・公明党にとつて、白木の当選とは反対
の意味で、大きな出来事があった。それが昭和32年4月、西成地域を舞台にした「大阪事件」と呼
ばれる選挙違反だ。
創価学会は、白木当選の勢いに乗り、この年に行なわれた参議院大阪地方区の補欠選挙で中尾
辰義を擁立。中尾はあえなく落選したが、選挙期間中に創価学会員が、あいりん地区に住む日雇
い労働者をタパコで買収したとして、摘発されるのである。大阪地検が、創価学会理事だつた小
泉隆や渉外部長だつた池田など、47人を公職選挙法違反で逮捕。大阪事件は、創価学会の組織を
あげて行なった選挙違反として、関係者の間で語り継がれるようになる。
このときの状況を知る創価学会幹部が打ち明ける。
「白木さんと違い、学会が送り込んだ中尾辰義という人は知名度がなく、かなり無理しなければ
ならなかった。結果も落選です。そのとき、東京からやつて来た応援部隊があいりん地区でバー
ッと金を撒きよつたわけです。タバコの中身を抜いて箱の中に札を入れてた。100円札とも500円
札ともいわれました。この選挙違反で選挙参謀として陣頭指揮を執つていたとして個
別訪問教唆で池田さんが引っ張られたわけです」
さらにこう続ける。
「ほんで、その金は一体どこから出てきたんやてなる。実は東京から動員された蒲田支部支部長の
小泉(理事)さんたちの捜査で、その買収資金が大蔵商事から出てる、となった。まさしく
池田先生のところからとなり、疑いが向けられたんです」
池田大作は戸田の腹心として大阪支部の立ち上げに成功し、タレント候補を使って選挙に勝つ
と同時に、選挙を通じて飛躍的に信者を伸ばしてきた。
すでに次期会長の有力候補として日の出の勢いにあつたといえる。そこに飛び出したのが大阪事
件だ。
1957年(昭和32)に始まった大阪事件の裁判は5年続き、1962年1月(昭和37)25日に判决
を迎える。その間、会長の戸田は池田らの無罪釈放を主張するが、初公判の翌58年(昭和33)に
鬼籍に入る。すると、創価学会は反池田の勢力が盛り返し、またも分裂の危機に瀕した。
創価学会次期会長候補レースは、理事の石田次男と池田の争いになる。それを決する大きな要
因が、大阪事件の裁判の成り行きだ。そのせいで2年ものあいだ、創価学会の会長は不在になる。
裁判を傍聴してきたという東京の創価学会員が指摘する。
「石田さんは池田さんより年上で、創価学会の理事や参議院議員を務めた。対する池田さんは、
当時まだ総務担当の部長どまり。石田さんを中心に、刑事被告入が宗教法人の会長になれるんか、
という批判が集まりました。実際、宗教法人法によると、有罪の確定した者は宗教法人の役員に
はなれません。そうして内部闘争を繰り広げたんです」
◆創価学会が空中分解していた!?
ところが、大阪事件の判決を前にした1960(昭和35)年、なぜか池田が三代目会長のイスに座
ることになる。前出の在京の学会員が、その理由を明かす。
「公判の中で裁判長が、逮捕した関係者の取り調べ調書があまりに出来過ぎている、と捜査に疑
義を差し挟んでいつたのです。釈放するから認めろという誘導尋問ではないか、という疑いが浮
上したんです。そうして検察側の旗色が悪くなつていくと同時に、池田さんが反撃に転じていきま
した。被告人として裁判があるごとに大阪へ下る。
その都度、大阪の学会活動に力を入れ、信者を増やしていきました。次第に大阪では東京に対
抗する意識が強まり、ますます池田人気が高まつていつたのです。
そうして大阪を中心に池田派の勢力が大きくなり、会長に就任できたんです」
すでに途中から裁判の成り行きが見えていたせいかもしれない。最終的に1962年1月(昭和37)
に大阪地裁で無罪の判决、2月には検察側が控訴を断念した。結果、名実ともに池田大作が創価学会
の頂点に君臨し、現在にいたっているのである。
しかし仮に、この西成の大阪事件が反対の展開になっていたら、事態はまつたく変わっていたに
違いない。創価学会はその後、池田教になるどころか、空中分解していた可能性もある。 再び公
判を傍聴してきた学会員の話。
「判決前の最終弁論に立つた池田さんは、無罪を確信していたのかもしれません。宗教団体が選
挙運動するのは国民に与えられた権利ではないか』とまで述べていました。その判決があつた翌
日の1月26日、本部幹部会で公明政治連盟の結成を発表しました。そこから本格的に政治に乗り
出したのです」
創価学会が三代目会長,池田大作のカリスマ性により、今日の隆盛を築いてきたのは論をまた
ない。だがその実、常に分裂の危険をはらんだ内部抗争を繰り広げてきた。
その池田創価学会の原点が大阪西成にあるといつても過言ではない。創価学会と公明党による
政教一致問題も、ここから始まっている。彼らにとって絶対に負けられない選挙区だとする理由
は、そのあたりに由来する。
ところが昨今、強固な地盤を誇り、連戦連勝を重ねてきたその創価学会選挙にも、陰りが見え
始めている。なりふり構わず、橋下徹詣でを重ね、大阪維新の会に選挙協力を取り付けたのは、
もはや単独では選挙に勝てない証左でもある。大阪は日本の近未来が現れている縮図だといわれ
るが、それは創価学会にとつてもあてはまるかもしれない。かって西成の花園旅館で生まれた池
田創価学会は、予想以上に急速にその威勢を失いつつある。(文中敬称略)
───────(~114頁)──────◇────────(引用ここまで……つづく)
◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
―宗教を語る― =源濁れば流れ清からず=
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
その親分は、カリスマでおぞましさ、史上類なき・池田大作
◆これまでも……これからも……池田創価の公明党
大衆に… 外形は人格者 中味はゴロツキ …で50年
◆8月号の大百蓮華で任用試験特集号
◎悪と戦う
◎宗門事件の経過
◎日顕宗の大罪と邪義
◎広布破壊のほうぼう
◎法主信仰の邪義
◎誤った血脈観
◎僧俗差別
◎化儀の悪用
◎腐敗堕落
庇を借りて、ニセ本尊で破門(平成2年)され…逆ギレ・千年恨みの刷り込み洗脳…700万信徒?
◆石井一議員 創価学会を追及1/3