創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-16

2017-10-30 08:34:01 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                               ----(P99)---(以下、本文)---
第三章 欠陷人間製造法とその実例
◆ オトリ美人で入信強要
 まずいわゆる“幸福製造機”の効能をPRし、この恩恵が如何に絶大なものであるかを説くのが折伏である。この場合幸福な人に幸福になるからといっても相手にされるものではない。
 したがって不幸な境遇にある人を探し出すのが、まず学会員の第一の仕事なのである。セールスでいうアプローチができる相手を探すということである。そして「探し当てたら絶対に離すな」という厳命が『折伏教典』で指示されている。
 ところで学会の上司、すなわち幹部は一般とは異なり末端会員にやりこめられるへナチョコが多い。例えば『折伏教典』を一応知っていても、その応用ができないのである。だからちょっとしたインテリに会うと、つけ焼刃の教学用語だけでは通用しない。幅広い豊かな常識がないと太刀討ちできないからだ。
 このようなクラスが自己のぺースで説得できるのはごく底辺の人々が精いっばいである。
 また学会批判をする人に対して、彼等はきまりきったように「信仰の自由は憲法で保障されている」という。まさにその通りで、誰がどんな宗教を信仰しようが自由なことにはいささかも反対しない。ただ信仰の押し売りは止めろ、それは自由への妨害だというだけのことなのだ。
 自分が食べてみておいしかったから、どうしてもこの夏ミカンをあんたも食べなさいと言ったところで、相手のほうがミカン類がいっさい嫌いなら仕方のないこと、それでも食べろと迫るとなると、これは親切ではなく押し売りである。そういうごくシンプルな区別がわからぬから学会員を非常識人とあえていわねばならないのである。
 対話の時代といわれる現代にあって、自分の理論だけを押しつける“折伏”は、言論による暴力的ファシズム的言動だといわねばならない。
 また拝んですべての事が足りるなら、誰も毎日忙しく働く必要がない。これが真っ赤なぺテンであることが多くの実証によつて明白にされている現実に着目するだけでもよいのだ。
 学会員が訪ねて来たらまず悪質なセールスマンだと思えばよい。入信させてまずいことが起こっても絶対にその人(信心親)は責任をとらない。後始末のほうは自分より上位の人へ上位の人へと転嫁する。責任転嫁のいわばくり返しで、とどのつまりは大作も誰も何もしてはくれない。要するにだまされて入ったヤツが馬鹿をみるという結果である
 ちょうど悪質インチキ会社のセールス方法と全く同じだと考えればよい。しゃべりの手口までそっくりだし、入信すれば、明日からでも幸福が飛んで来るようなことをヌケヌケという点も同じである。

 不幸な環境にあれば、誰しもうまい話を信じたくなる。そこが彼らのつけ目なのだ。何んにせよ、勧誘する方は入信させてしまえばよいのだから、考えられる限りの悪ラツな方法を平気で使う。底を割れば簡単な仕掛けだが、これが欲にくらむとなかなか見破れない。一例を挙げると、あるB長が言っている学会得意のボルノ戦術も“折伏”に一役買っている。
 若い人を折伏する場合に、男性なら美人を、女性ならハンサムな男を連れて行くという手である。入信すればこういう人達と交際できるんだ、場合によっては結婚だってできるかもしれないということを暗に「感じる」ようにする。しかし、そういうことはいつさい、口には出さない。そしてそういうオトリの学会員はブロックが違うから、入信してしまうと、その人とはもう顔をあわせることもなくなってしまうのである。うまくできている!

デマ中傷で就職坊害
 東京北区在住の倉内正男さん(仮名)の場合は、この手口で折伏された。良い女性と交際ができ、幸せな結婚ができるといわれたが話通りでない。そこであまりにもウソか多すぎるので退転しょうとしたところ、就職する場合、職場に押し掛けてはデマを飛ばし、悪口の限りを言い触らし、職場にいられないようにされているという。彼を妨害するために自衛隊のなかにまで押しかけて来るというから呆れてものがいえない。
 このほか三人の場合をみてみよう。

 帆文子さん(神奈川県)のケース
「あんたは食うに困らなくても、精神的には自分の主人と別れて、こんな状態じゃないか。人生でこんな不幸なことはない」と言われ、いろいろ考えてみても、やはり女一人では心細いと思つて入信した。

 宮崎きみさん(東京都)のケース
 せがれが会社の仕事でケガをしたのが入信の動機。ある日、田舎から出て来たばかりの若い従業員が機械のそばへ近づいて行った。「入ったら駄目だ!」と叫びながら、せがれが身体を乗り出すように止めに走った。そして勢いあまって機械に突っこみ腕を切断されてしまったわけである。
 そのとき、病院で付添ってた人が、柏原ヤスが住んでいた杉並の人で、学会員だった。その人が「日蓮正宗でないと念仏無限といって無間地獄だとか、禅天魔神亡国というように他の邪宗では身を亡ぼす、禅宗も実に国賊なんでこれもいけないんだ」という話をした。ケガ人がでることは、何かの因縁なんだからと言われた。そのうち近藤さんという人がやってきて、生命論というのを説いて聞かせられ、生命の不可思議ということを考えさせられる。そんなとき母がリューマチで片手不自由になってしまった。そこへもってきてせがれがああなった。これはどうもネ、と考えた次第だった。

 市中富三さん(東京都)のケース
 入信した時、文京支部(池田支部長代理)に属していた。自分の経営している電気、螢光燈の事業が資金難に陥り失敗してしまった。そこで、どうしたら再建できるかということで非常に苦悩していた。
 そんなとき、ご主人がスェーデンの公使をしたという奥さんが良い宗教団体があり、金は一銭もかからないということで誘われた。

 こうして皆、ワラをもつかむ気持ちで入信させられていったのである。
 最近、『斬る』が出版されてからは、無茶苦茶な折伏はあまりなくなったといわれているが確かにその傾向はある。しかし、全然、無くなったわけでもない。むしろ従来の強制的説得よりも、いやがらせ戦法のほうが比重が多くなっているようである。
 ごく最近では“友人をつくろう”から“友好の輪をつくろう”となってきた。今まであいさつもしなかった人と口をきくように指導される。次にはどのように交際がすすんだかを座談会で体験発表させられる。体験発表で単なる平凡なつき合いだけだと叱咜激励されるわけだ。何か中国接近ムードに歩調を合わせたものを感じないでもない。

心の“処女”を犯す
 折伏すれば座談会に出席させて一種の洗脳工作を始める。池田の講話や大幹部の教義問答がテープで流されるのは以前と変わらない。ここで池田がテープで「--しましょう」というと全員がテープに向って「ハ~イ」と返事をする。これではまるで幼稚園の先生と園児と同じ言葉のやりとりである。
 そして講話が始まると「ありがたい、ありがたい」と言って手を合わせ「生仏様のお話しだ」と感激にむせぶ。なかには涙を流す者すら出る。演出なのか本当なのかよくわからないが、自分には馬鹿々々しくて聞いていられなかったという人が、この間、わざわざ知らせに来てくれた。この人の感じ方のほうが正常なのであろうか。
 非合法と合法のボーダーラインをぬって、大衆の零細な金をかき集めている詐欺漢・池田大作の話がなんでそんなにありがたいのか。 聞いてみても、全くつまらない。手前勝手に解釈した仏法用語をやたらに連発、わかりもしない「御書」に当惑している末端会員に、俺はこんなに偉いんだぞと誇示しているのがここでいう講話なのである。イワシの頭も信心からというがまさに麻薬に酔っているとしかいいようかない。
 ともかくいかにしてありがたがらせて、「お布施」をより多くかき集めるかが、彼等の真の目的なのだ。この後は、おきまりの“地区担”といわれる幹部サマのご出動だ。彼等は口をきわめて池田礼讚をやって、精いっぱいの提灯をもつ。それをまた古手の会員が感心したようなシタリ顔で支持する。これで“暗示の根回し”が終わるわけだ。そしてこんどは新たな犠牲者と化す新入会員とか未会員へ、かわるがわるが、信心の功徳をPRするのだ。多勢に無勢は現代も通用する。プロレスのタッグ・マッチ方式で敵陣営に連れ込まれ、さんざんに痛めつけられるレスラーとすこぶる類似した立場になる。
 あなたの欲しいものは何んでもあげましょうという。初めから口先だけのことだから、何んでもご注文に応ぜられる。不幸に打ちのめされている者は何となくそうなると思い込みがちだし、自分の周りにいるのが人間の皮をかぶった狼であることを全く考える余裕がなくなるのである。気がついたときは泥沼にはまり、もう助けを求めても、どうにもならない状態に入ってしまうのがオチである。

 池田会長は言論出版妨害の時に「処女が輪姦されたような気持…」と言ったがここではまさに“心の処女”を犯す役目を果たしているといってもよい。処女を犯された以上、仕方ないから泣く泣くでも従うほかはないようにさせる。または逆に気の弱い男の場合なら、処女をいただいたからという負い目の殺し文句に参り、一生の不作を抱え込むのと同じ寸法かもしれない。

 最近はあまり堅苦しいだけではということで、唄や踊りなどで盛んに動員をかける。これは激しいリズムでGO、GOを踊らせ失神状態にさせるあの方式を真似たものともいえる。学会が“踊る宗教”にいつ変わったのかは知らないが、何んでも人真似の得意な学会だからこれもさして不思議がることもないといえばそれまでのことではある。
 こういう事態について、ある東京のB長は言っていた。「どうせ学会のメンバーがやるんですから、唄でも踊りでも一般のレベルより低い。だからまともに見ちやいられませんよ」とやっている当人がいうのだからウソではあるまい。
       ---------(105P)-------つづく--

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