創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-24

2019-11-16 06:49:35 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 <この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
    --言論出版妨害事件-- 昭和44年(1969年)
    ------(P.112)---(以下、本文)-------

◆ はなはだしい人間性への冒涜
 立正佼成会青年部調査班の『創価学会批判のために』というパンフレットによれば「吉展ちゃん殺し」の犯人・小原保は学会員だったということだ。それはともかくとして、「御利益」とか「救い」というが、実は折伏そのものが、人の不幸につけこむものだと断定せざるをえない。

 家族が死んだ、病気になった、破産した、クビになった、そうした不幸な人々のところにわざわざやってきて「それは邪教を信じているからだ。日蓮正宗を信じなさい」と説くわけだ。
 こうしたやり方にも、会員個々の主観的意図とは別に、人間性を無視した目的のためには手段を選ばないサデイスティックな異常性を認めざるをえない。
 会員及び会員になる可能性のある人々の傷はナメルように癒すけれども、敵の場合は、その傷口をコジあけようとするのである。彼等のいう相互扶助精神も仲間だけのもので、学会の当面の敵と考える人の人権は、軽視ないしは無視して平然としているのである。

 創価学会は表向きは「人間の尊厳性」をうたっている。しかし「邪宗」信者の死をもって「罰」と感ずる心のどこに「人間の尊厳性」をうたうに値いするものがあるといえようか。池田会長のみを神格化し、会長に絶対服従を誓い、会長のためなら喜んで死ぬという心情倫理は、自己の人間性の尊厳性がわからないもののみがとりうるモラルである。自己の人間性の尊厳性がわからないものが、なんで他人の人間性や生命の尊厳性を知ることができよう。

 組織に対する盲目的服従や忠誠心のためには何でもやる。たとえば会長から声をかけられれば人殺しでもやりかねないわけで、そういう利用された学会員、利用された政治集団、利用された議員とでもいえるものが続々と誕生してきているのだ。
 池田会長は「私は公明党の創立者」と述べている。そして「私の言葉は学会では憲法になってしまうのです」とも語っている。「朕は国家なり」とは絶対主義体制下のブルボン王朝ルイ十四世の言葉であるが、池田会長は「私は公明党なり、創価学会なり」と思っているのであろうか。まさに恐るべき傾向である。

 こうした集団、狂信徒集団が政治的な闘いを展開するとき、私は中世の「魔女狩り」のそれに似た宗教裁判の残虐性を想起せざるをえないのである。宗教には妥協はありえないからである。「宗教」の名における人間相互の争いが、人間そのものへの冒涜を生んだことは、古今東西の歴史の上で何回となく見せつけられている。
 現在ですらそういう衝突のあることは中東や北アイルランドをあげればよい。このような歴史を無視して、現在においても他にノロイをかざす宗教政党は、いかに罪深い反社会性をもっているか、われわれはいかに深刻にその前途を憂えても、その憂いが深刻にすぎるということはないであろう。
     ----------(つづく)---------114

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 創価学会を斬る-23 | トップ | 創価学会を斬る-25 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事