<サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
これでもあなたは信じますか 内藤国夫 (日新報道 1989/06)
------(P.115)---(以下、本文)-------
Ⅱ シガラミはここまでも
◆ 秋山 富哉・栄子
妻子まで池田に奪われた寂しい死
昭和六十三年三月二十五日付けの「聖教新聞」は社会面の片隅で、一人の男の死を簡単に伝えた。学会総務で総合国際部長を務める秋山富哉が「二十四日、入院先の横浜赤十字病院で肝不全のため死去した」というのである。
この記事には、二つのウソが隠されている。死因は肝不全ではなく、膵臓ガン。死んだ場所も病院ではなく、学会の神奈川文化会館内にある池田専用施設であった。
池田は常々説いてやまない。
「夫婦よりも親子の方が関係は深くて強い。そして親子よりさらに大切なのが、師弟の関係だ」
池田のいいたいのは、夫婦や親子の情に流されるよりも師匠である私を大切にせよとの、師弟関係最優先論である。
その教えを文字通り実践したのが、婦人部長の秋山栄子である。そういう妻をもつと亭主がいかに苦労し悩むかを地で示したのが、秋山富哉である。あげくに、病院で死ぬことさえ許されず学会施設に隔離され、監視されて五十九歳の呆気ない最期を迎えた。死期の近いことを悟った富哉が、妻と池田とのスキャンダルを暴露するのを学会から警戒されたのである。
「池田名誉会長の専用施設で、ご本尊に見守られながら死ぬなんて、最高の栄誉」
まことしやかな“美談”が婦人部幹部の間で伝えられたが、実際には池田スキャンダル情報の流出防止のため、死の二、三週間前に病院からムリヤリ連れ出されたのだった。
☆
秋山栄子は、夫の富哉よりも師匠の大作を愛し、かつ大切にした。しかも、そのことを学会内で誇示する始末だった。池田は栄子を学会婦人部長に起用し、長い間“女王蜂”“女大作”として振る舞わせた。
栄子の亭主無視は、富哉の死後まで続いた。富哉の葬儀の席上で、栄子女史はご亭主の遺族(母親や兄弟姉妹)を完全に無視して、ただの一度も言葉を交わそうとしなかった。複雑な家庭関係を知る会葬者たちは、あまりの異様さに「これでは、死んでも浮かばれない。気の毒なことだ」と囁きあった。
秋山夫妻には二入の娘がいた。いずれも学会本部職員に採用された“師匠派”である。娘たちは葬儀の席上で母親と行動を共にし、父親側の遺族は「そうか、富哉さんは妻をとられただけでなく、子供まで奪われていたのか」と改めて涙した。
まさに“創価学会残酷物語”そのものである。
◆ 秋谷 栄之助・明子
行動の自由も奪われて、さぞや息苦しかろう
そういえば、学会の最高責任者のはずの会長の紹介を忘れていた。第五代会長の秋谷栄之助である。戸田城聖二代会長時代には秋谷城永と名乗っていた。会長とは名ばかりで、実態は便利屋の事務総長にすぎない。
責任だけ負わされて、権限は何一つ与えられていない。学会の会則では「会長が統理する」と定められているものの、実権は総て名誉会長に吸いあげられたままだ。
秋谷は、池田訪中に同行して帰国直後の昭和五十九年六月、腸閉塞で倒れ、慶応病院にかつぎこまれた。手術を受け、一応回復したものの、転地療養が必要と診断された。
池田大作であれば、大勢の主治医やボディガードにとり囲まれ、数台の高級乗用車を連ねて療養地先まで大名旅行をするはずである。 秋谷会長は、しかし、自動車一台を使う権限さえ与えられていなかった。義弟(妹の亭主)である山川義一の弟が見かねてマイ力ーを自ら運転し、療養地まで送り届けたというのである。その山川も、四年後の六十三年八月に肝不全のため病死した。
☆
秋谷は奇跡的に回復し、会長業務に復帰したものの、往年の元気さが感じられない。ただ、周囲の人間に対しては「名誉会長よりも一日でも長く生きたい」と漏らしている。
先に死んだら、後でどんな悪口をいわれるかわからない。頑張って生き残り、会則どおり統理する会長を務めあげたいとの、秋谷なりの密かな思いである。
秋谷会長の妻の明子は石田次男の妹である。秋谷にとっては、池田批判急先鋒の石田が義兄に当たる。石田の妻の栄子と秋谷明子はともどもに学会婦人部の活動家仲間。義理の姉妹ということもあって、仲良しグループ。互いに往来があった。
しかし、石田が池田批判を鮮明にしたここ数年間は、栄子が明子を訪ねると「夫が、もうつきあうな、とうるさくいうので」と言い訳しながら、辛そうな表情を見せるという。親類付き合いもままならないのである。
他に、秋谷の実弟としては秋谷武史がいる。学会本部の管理局長を務め、池田の財産や所有物を管理する。武史の妻のとみよは学会の第一庶務出身。池田との“臭い仲”が取り沙汰される。
秋谷夫妻の結婚式の仲人は和泉覚が務めた。公明党新委員長の石田幸四郎とも姻戚関係にあるなど、秋谷の周辺には学会・公明党の要職にある人がひしめく感じだ。学会が伸び盛りにある時は大いにプラスに働いたが、池田批判が増大するにつれ、秋谷個人は行動の自由を奪われ、息苦しいようだ。蛇のように冷たい人間と酷評もされるが、胸のうちは、さぞ複雑なことだろう。
◆ 石田 次男・幸四郎
兄弟の仲を割かれ、池田の思うがままに
戸田二代会長時代の初代婦人部長を務めた石田ツカを母にもつ次男、幸四郎兄弟は、母に折伏されて入信。兄の次男は戸田会長にその才能を認められ、入信した翌年にはもう聖教新聞の編集の仕事を任されている。
さらに、三十四歳で理事に登用されるというスピード出世ぶりだった。
戸田会長から「オレの次の会長は次男だ」と何度も後継者の指名を受けた。
偽悪家で無欲、かつ一本調子の次男は、「オレのような人間に会長なんて難しいポストが務まるかい」と、殆ど取り合わなかった。そのため、戸田会長は臨終の際の遺言として「次の会長は幹部の皆が話し合って決めたらいい」と小泉隆理事長以下の幹部に申し渡した。
当時の学会内で衆目の一致した後継者有力候補はまず石田次男であり、次いで参謀室長の池田大作であった。やる気のない人とやる気満々の人とのポスト争いだから、勝負は簡単についた。厳密に評すると、ポスト争いさえなかった。池田一人が勝手に根回しをし、戸田からの禅譲神話をでっち上げた。
石田は「勝手にやれや」という感じで相手にもせず、その代わり、池田新会長に取り入ろうともしなかつた。
☆
だが、負い目を感ずる池田は、お得意の分断統治戦術に力を入れた。兄の次男を徹底的に千しあげ、弟の幸四郎を反対にとことん優遇したのである。
幸四郎も兄と同様、無欲の好人物。おっとりとして、他人と競い合うのが苦手である。池田会長の指示で愛知六区から衆院選挙に立候補・当選を重ねて、矢野委員長のもとで筆頭副委員長を務めるほどの大物になった。矢野体制が短期に終われば、次の委員長の最有力候補とみられたとおり、とうとう第五代委員長に就任した。欠点は選挙に弱いこと。そして兄と違うのは池田会長の体制下に入り、すっかり手なずけられたことである。
池田は、自分に従う者に対しては厚遇し、従わぬ者に対しては冷遇する。露骨なまでの使い分けをして、組織内にその違いを見せつける。どっちがトクをするか、どっちを選ぶかと、無言のうちに問いかけるのである。
石田兄弟は見せつけの材料に使われた。
兄の次男は戸田会長の命令に従い、参院議員(全国区)になったが、健康を害したこともあって、一期限りで池田により降ろされた。後は“飼い殺し”同然の扱い。次男はこれを不満に思うよりも、仏法を勉強し、研究する好機とばかりに読書生活に眈溺した。そして最近の十年間ほどは、池田批判に力を傾ける。といって、徒党を組もうとはせず、池田の外道ぶりをひたすら文筆活動で実証しようと試みる。
弟の幸四郎は、矢野委員長の一番信頼する相談相手となった。池田の覚えも目出たい。兄・次男の池田批判がわからないわけではないが、耳を傾けようとはしない。兄弟の関係よりも師弟を重視し、兄との交流を絶ってでも、池田の機嫌を損じないように気を配る。その結果、党のトップへとのしあがれもしたわけだ。苦労するのは、これからである。
兄と弟。どちらの選択が正しかったか。最終結論はこれから出されるだろう。
-----(122P)----つづく--
〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉
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