創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-27

2018-09-06 09:03:03 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.167)---(以下、本文)-------

岡安 博司
     創価大学を管理する池田の代理人
 東京・西新宿の高級日本料理屋「きくまさ」の四階には、同店の得意客のみをメンバーとするクラブがある。学会副会長で、創価大学副理事長兼事務局長からさる四月四日に同大理事長へと昇格した岡安博司は、このクラブの有力メンバー。クラブ入り口に麗々しく掲げられたメンバーズプレートには第一番目に岡安の名が、そして二番目にこの四月四日に同じく法学部長から副学長へと昇格した小室金之助の名が刻まれている。因みに小室は、病身の父親が死亡するや、シモの世話までさせていた糟糠の妻を離縁し、銀座のホステスと一緒になったため、学生時代の知友である早稲田大学の西原総長に「小室は人間じやない」といわれた人物。
 岡安はこの他にも、新宿ではクラブ「リー」、大学の地元・八王子ではキヤバレー「ゴールデン赤坂」学会本部の若手職員やクラブ「鳳」などの常連。また、京都・祇園先斗町の高級料亭「田川」をひいきとしており、しばしば舞子遊びにも興じている。
 岡安は、創立者の池田に批判的な非学会員の教員で組織する教員組合のメンバーを懐柔すべく、「田川」の名を冠した“田川会”なる親睦会を主宰し、組合メンバーを「田川」には三回、先の各クラブでもたびたび接待しているが、これはなじみの顔を生かしてのこと。
 もっとも祇園では、学会自体が「学会はんはお金持ちどす」(先斗町の女将)といわれる存在。
 舞子遊びも、一人、岡安だけの専売特許ではない。それだけに「まあ、一回、あんくらいの遊びをしやはると、百万近くはかかりますやろ。二次会もありますさかい、豪勢どすな」(同)
 といわれる田川会での豪遊も、岡安にとっては大した遊びではないだろう。
 それにしても、えらく羽振りがいい。
 もっとも、このたび理事長に昇格したことに端的に示されるように、岡安は池田の信任がどういうわけか、とても厚い。それ故、これまでも外見上は学長や理事長より風下の地位にあったものの、実際には大学の実務面総てをその支配下に置く強大な権限を池田から与えられており、池田の代理人として大学を管理していたといっても過言ではあるまい。無論、金銭面も管理下にある。羽振りがいいのは当然といえよう。
                      ☆
 「地位利用だ。中央図書館の建設にあたって龍谷大学の図書綰を視察に行ったが、見学したのは僅かの時間で、後は祇園に入り浸つていたと聞く。それでいて組合メンバーに対しては、学会の研究会の出席時間が僅かだったといってカラ出張だと問題にする。自分で決済する立場にあるだけに、えげつない」(ある教員)
 岡安は、建設工事の発注や物品の購入、請負業者、出入り業者についても大きな権限を有する。それだけに、地位を利用して私腹を肥やしているとの批判が多い。
 実際、岡安の自宅を訪問したある大学関係者は、ずらりと並べられた高級ウイスキーやブランデーの数に驚かされたとのこと。あるいは、岡安の妻が数百万円のダイヤを買い、嬉しさの余りか、人に見せびらかして顰蹙をかったといわれるが、これらを事務局長の給料のみで賄ったとは、ちょっと考えにくい。
 「電気系統の営繕や工事を請け負っている関電工の関係者とは、よく一緒に飲み歩いてる。業者からの歳暮や中元だけだって、大変なものだろう。まして、魚心あれば水心、それ以上の利益供与だってないとはいえない」(大学関係者)
 創価大学ではここ数年来、教務部長や学生部長などの役職者に、さして学識も実績もない若手教員を配している。そこで、この人事に疑問を抱いたある教員が、岡安に対し登用理由を尋ねたところ、岡安は、「(理由は)信心の深さ」と答えたという。仮にも大学たるもの、人事選考の基準は人格や見識、学問上の実績に求められてしかるべきである。ところが、創価大学では「信心の深さ」、即ち池田に忠実か否か、その高下、浅深が評価の基準であることを、岡安の言は明示している。そしてまた、池田に忠実でありさえすれば羽振りよく過ごせることを、岡安は身をもって示している。
 岡安には、男兄弟が五人、女姉妹が三人いる。兄の孝明は公明党の東京都議、弟の清之亮は学会外郭企業の老舗「ひさご印刷」の社長を務めるなど、一家は学会をメシのタネにする典型的なファミリー。池田が表向きの学問的権威の源泉にしょうとする創価大学を利用して池田支配のお先棒をかつぐ岡安博司は、その中核でぶら下がり、貪りつくしているのだ。

篠原 誠
    城久の引き立て役もその死でお役ごめん
 昭和三十八年から四十五年にかけて学会教学理論誌『大白蓮華』の編集部長を務め、その間に学生部長、外郭企業の中核・第三文明社の社長などを歴任。創価大学設立とともに常任理事、学生部長として大学へ異動し、学生を統括する職務についた。
 創価大学では表向き、宗教教育は行なっていない。宗教学部や仏教学部も置かれていない。
 しかし、その裏で、学生自治会や通称SSDと呼ばれる創価大学学内組織(学会学生部には地域ごとの組織と学校単位の組織があり、創価大生のほぼ一〇〇%が自動的にSSDの一員になる)において、池田指導の学習会が頻繁に催され、池田の紅衛兵に育つべく、学習に励む。
 学生が自主的にやつている--これが創価大学における宗教教育の隠れ蓑。
 そして、この重要な職務を遂行する自治会やSSDの執行部、幹部を指導監督し、学会本部、就中、池田の意向に忠実な学生群を輩出するよう努力するのが、創価大学学生部長の役割である。
 当然のことながら、指導監督は、池田にとって都合の悪い事態や異端的人間の出現予防と監視をも意味する。
 「二年生の大学祭のおりに、冤罪をテーマに研究発表しょうと企画し、松川事件などとともに、池田の大阪事件を取り上げようとしたことがある。企画書を自治会の大学祭実行委員会に提出したところ、篠原に呼ばれ『池田先生が、人間革命において真の大阪事件の歴史を書こうとしているので、大阪事件は企画から外してほしい』と要請された。今から思えば、池田にとって都合の悪い大阪事件の“真相,を知られたくなかったのだということだろう」(法学部六期生で、日蓮正宗正信会法華講機関紙「継命」編集部の乙骨正生)
                      ☆
 異端児的存在だったこの乙骨に対し、篠原は、二度に渡って、池田の署名人りの書籍やレコードを「池田先生からのプレゼントです」と届けている。
 篠原は、第7章に登場する窪田正文が、その立場を利用して次々に女子学生に手を付けるというスキャンダルを起こして、発覚した際に、揉み消し工作に従事した。
 創価大学の学生部長の役割とは、これらのチンケなものまで含まれる。
 ところで、池田の次男・城久は、創価大学大学院修士課程を修了した後、同大職員となり、学生課に勤務した。学生課は篠原の管轄下にある。このことから篠原には、城久のお守り役までが加わった。城久を後継者にと考えていた池田は、創価大学二十七人グループと称される御学友グループを中心に、創価大生で城久の周辺を固めようとした。篠原はその世話役でもあった。だが、その城久が五十九年に急死。以後、篠原は副会長に昇格はするものの、学生部長の任を解かれ、東洋哲学研究所に左遷されるなど、昔日の面影はない。
 もっとも、篠原は東大文学部哲学科卒で、長く『大白蓮華』の編集部長を務めていたことに象徴されるように、理論肌の持ち主。事務局長の岡安のようなヤリ手ではない。そのため、マキャべリズム的な池田の手法の下で学生を統括することに不向きだった、ともいわれる。
 篠原自身も、そのような点を意識していたのか、東大法華経研究会時代に受けた戸田の法華経講義の影饗を強く受け、「このときのさまざまな教えこそ、生涯の、否、永遠の宝であると信じて止まない」(「教学と私」第一卷)と、池田よりも戸田を原点にしているかのように記している。
 それらが原因となって、教学畑の中枢である『大白蓮華』編集部長、組織面での重職・学生部長、外郭の要所・第三文明社社長という陽の当たる道を歩きながら、学会本部で登用されることなく、創価大へ配属になったといわれる。
 だが、そこでも城久の死によって、結果として池田から遠ざけられる羽目となった。
 この一年ほど病いを得て療養していた篠原は所詮、使い捨てにされる運命にある。
  -----(173P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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