創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-20

2018-08-30 08:25:35 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.122)---(以下、本文)-------

山崎 尚見・良輔
     兄弟が敵同士になリ競争させられる
 石田兄弟と違って、こちらは兄弟揃って池田のご機嫌とりを競い合う。ただし、池田から用いられる時期が、兄と弟で決定的に異なる。早い段階では兄の尚見が羽振りを利かし、一時は秋谷の次の会長候補と目された。ただ、若い頃は「一万人に一人の頑健な身体」と自慢していたのに、今は持病の糖尿病が悪化し、体力、気力ともに衰えた。お気の毒だが、今は下りコースである。
 兄と交替するようにこのところ急速にのしあがつているのが、弟の良輔。池田の側近有力副会長であるほかに、聖教新聞社の専務理事(事実上のトップ)、創価学園の理事長を務め、池田の代弁役を果たす。池田もまた「今、私が信頼できるのは長谷川と良輔ぐらいのものだ」と漏らしているとか。ごく最近では、秋谷会長の決裁した案件を後からひっくり返すほどの権勢をもつ。
 兄弟揃って学習院大学の卒業。兄の尚見は在学中、落語研究会に入り、話術を勉強した。そのせいか話はソフト夕ツチで上手だし、腰の低さもあって、人ウケがいい。男性でありながら、婦人部長のポストについたことがある。婦人部員のウケもよかった。
                      ☆
 学会にとっても尚見個人にとっても大きな不幸だったのは、人ウケの良さを高く評価され、広報担当の最高責任者(広報室長、広報担当副会長)に用いられたこと。
 広報担当者には人当たりの柔らかさも必要であろうが、より重要なのは、組織の内と外の両方にしっかり足を置くこと。わかりやすくいえば、組織内の意見を外に伝えるだけでなく、組織の外にある意見に耳を傾け、これを内部に持ちこみ、トップの判断、行動に役立たせる、勇気ある姿勢が欠かせない。
 尚見はドン・池田大作の意向を外に伝えようとするばかりで、外が学会をどう見ているか、何を批判しているかを、ドンに知らせようとしなかった。ゴマスリ人間の限界である。そういう人間を広報責任者に起用した池田に人物を見る目がなく、また、マスコミの役割への理解と自覚が足りなかつたといえよう。
 同じ山崎姓でも、山崎正友の方がマスコミ担当者としてはるかに適しているし、才能がある。
 両山崎に接した私なりの人物論であり、学会のために惜しむものである。
 尚見は、とにかく広報担当者として落第であった。尚見の最近のやつれようを見て気の毒に思いはするが、広報担当者がもつべき姿勢のイロハさえ知らなかったことを、この機会にあえて明らかにしたい。
 池田は、そんなことへの理解をまるでもたず、今は兄から弟・良輔への乗り換えに懸命である。自分の三人の息子にさえ忠誠心を競わせる人物であるから、兄弟、夫婦の仲を裂くぐらいは何でもないのだろう。

竹入 義勝・央迪
     老兵は死なず 淋しく舞台を去るのみ
 党首を二十年間も続けて務めながら、委員長のポストを離れたとたん実力ゼロに転落したという不思議な人物が、竹入義勝である。肩書としては、一応、最高顧問になっているが、何の権限も与えられていない。中執に出席し、発言する資格もない。池田によって番犬の親分として用いられ、散々に利用されたあげく、あっさりと使い捨てられたわけだ。腹の中で煮えくり返る口惜しさに溢れているだろうが、といって、今さら反池田で立ち上がる気力と体力がなくなった。衆院議員の身分を失ったら、出身地の長野県にさっさと隠居するつもりらしい。
 池田の眼鏡にかなったからといってしまえばそれまでだが、三、四十代でのこの人の躍進ぶりはすさまじかった。入信後六年、三十三歳で文京区議。翌年の池田大作会長就任式では、栄光の旗手を務めた。以後、三十七歳で都議会議員、すぐに都議会公明党の幹事長就任。四十一歳で代議士、直ちに党委員長に指名された。その後、二十年間に渡って委員長職を続投。与野党を通じて、これだけのキャリアのある人は少なかろう。
                      ☆
 ただし、これをご立派と高く評価できないのは、自ら築きあげたものではなく、雇われ委員長にすぎなかったからである。別名を番犬委員長という。池田大作と創価学会を守るのが最大の使命であり、政党活動はつけ足しか、カムフラージュの域を出なかった。
 池田からは「竹入が最も忠誠である」とお誉めの言葉を貰ったことがあるが、党創設者とのうるわしい仲が続いたのは委員長前半の十年間だけ。後半の十年間は、互いに蔑みながら、利用だけするという関係が続いた。
 落ち目の兄に代わって、池田から取り立てられているのが弟の央迪。創価学会の連絡局で事件処理の仕事を担当する一方で、埼玉県の総責任者を務める。央迪は池田のボディガード役の特別警備出身。知性派に非ずして肉体派。兄・義勝の“七光”でのしあがってきただけ。威張り散らしてばかりいるので、職員の評判はあまりよくない。
 それでいて、からきし意気地がない。埼玉県では現役中堅幹部の間に大勢の反池田派が続出中であるが、それらの造反者が県の最高責任者の央迪を突き上げ、面会を求めると、何かと口実を設けては逃げ回ってばかりいる。
 結局、竹入兄弟は、兄が公明党内で、弟が学会内で同じような仕事、事件処理を担当させられたが、二人揃って大した成果をあげられず、淋しく舞台を去っていくということになるようだ。

二見 伸明・紀久夫
     これまた兄と弟の明暗くっきり
 いい意味でも悪い意味でも、学会が巨大な人間集団であることは間違いない。そこで当然、外部から眺めれば“池田”一色であるかのように見える学会本部、聖教新聞社をはじめとするいわゆる本部職員の中には、様々な考え方や個性をもった人間がうごめいている。
 学会を支える人材群の奥深さを見せつけたのが“グループS” の存在である。
 昭和五十九年の五月号から『週刊サンケイ』誌上で「小説聖教新聞」が連載された。筆者は“グループS”と称する匿名者集団。翌年には単行本として出版された。小説の形をとっているとはいえ、北条浩会長の死去から筆を起こした内部告発は、学会関係者、特に幹部や職員に大きな衝撃を与えた。
 登場人物は仮名だが、内部の人間が読めば、殆どは誰だか特定できる。しかも聖教職員、それも相当の幹部でなければ知りえない学会内の出来事が、正確な夕ッチで展開されている。特に聖教社内で起きた事件については、身近にいる人間でなければ不可能な、微妙な描写が随所にみられた。
 激怒した池田は、犯人探しに躍起となった。聖教、本部はもとより、潮出版社、第三文明などの外郭も含めた職員から容疑者をリストアップ。CIAもどきの身辺調査と追及をしたが、結局は、人物を特定できずに終わる。
                      ☆
 ただ、その際、グループSの中心者と目されたのが聖教新聞社外報部長の二見紀久夫。「小説」には村越剛の仮名で登場する。兄の伸明は公明党衆院議員であり、副書記長の要職を務める。
 灰色容疑ではあったものの、二見は露骨なイヤガラセを受けた。その後、大宮支局長に左遷されて数年を過ごしたのち、さらに広島に飛ばされた。二見は健康を理由に赴任を拒否し続けた。周囲からはいよいよ公然決起かと期待され、警戒もされたが、昭和六十三年夏、突然、聖教新聞社を退職した。
 関係者の思惑をよそに、現在の二見は兄・伸明の私設秘書を務める一方、寿司屋を経営していると伝えられる。
 「小説聖教新聞」事件は、学会が抱える人材の多様性とそれなりの健全さを垣間みせた。匿名でのインパクトはイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』を思わせるものがあった。ベンダサンはやがて山本七平として姿を現わしたのに、グループSの方は、この肝心な時にもう五年間も沈黙したまま。意外と勇気がないようである。山本七平のように姿を出せ!
  -----(128P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 創価・公明のスキャンダル-19 | トップ | 創価・公明のスキャンダル-21 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事