〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉 1979/昭和54
創価学会に未来はあるか 藤原弘達/内藤国夫 曰新報道出版
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◆ 公明党にも派閥ができつつある
内藤 それよりも、ぼくは、これからの公明党に対してある種の期待というか、興味を持って見ていることがあるんです。というのは、かって池田大作さんが、公明党に派閥ができたら党そのものを解散させるといったことがあるでしよう。池田大作さんの言葉だけに、あまり信用はしていないんですけど、さて実際に派閥ができたらどうするか、やはり興味深いものがありますね。
藤原 その言葉ならよく憶えている。しかし公明党が創価学会から離れようとすればするほど、既成の政党と似てくれば似てくるほど、当然のことながら派閥は生まれてくるよ。
内藤 そうなんです。たしかに今、公明党に前派閥状況というべきものができかかっているんです。ぼく流にいわせれば、それは公明党が創価学会のコントロールから離れて、たとえヨチヨチ歩きにせよ、一人立ちを始めた、既成政党に似てきた、という点で、マイナスよりもプラスで、一つの進歩だと思うんですけどね。
たとえば、十年前にはとても考えられなかった現象なんですが、公明党議員同士で、外部のぼくに対して「アイツはダメなヤツだ」などと、平気で仲間の悪口をいうようになった。同じ公明党議員であり、同じ創価学会員であり、同じ日蓮正宗の信者である、といった三位一体同士ながら、内部にヒビ割れと仲好しグループが生まれつつある。
もっとサメた人になると、竹入委員長や矢野書記長のような幹部をかなりクソミソにけなしたり、時には、池田大作さんの批判まで口にするようになった。
部外の観察者のぼくらにとっては歓迎すべき変化です。たとえば自民党員が大平総裁や、田中、福田、三木、中曾根といった領袖を批判してもなんら不思議ではないし、社会党員が飛鳥田委員長を批判しても格別に問題とされないように、公明党員が池田さんや竹入さん、矢野さんを批判してもいいはずなんです。しかし、創価学会・公明党、それに日本共産党の場合は、党首や会長を初めとして幹部を批判するのは、タブー視されている。うっかり批判したり、部外者に党内事情をしゃべったりすると、組織の中におれなくなる恐れがある。
それなのに、こうした危険をおかしてまで、まだ、公然とではないにせよ、仲間の悪口をいう人がでてきたことは、これを即、派閥ができたとはいいきれないけれども、少なくとも“前派閥状況”であるとはいえる。そういう意味で自民党や社会党にだんだん近づいてきたナ、とみているわけです。
部外者のぼくに内部情報を流す、これは勇気ある内部告発です。これも一つの進歩だといえる。それは組織に埋没せず、組織より正義感を優先させるというか、ある種の派閥意識があるからといってもいい。
藤原 自民党の反主流派が、われわれのところにいろいろと情報を持ってくるのに似たような、意識状況が生まれてきているんだ。
内藤 そういった現象は、十年前までは考えられもしなかった。言論出版事件をキッカケにして、ボツボツと出てくるようになった。初めのうちは自然発生的というか、流れてくる情報もなにかの事情で学会を離れた人や、下部の人か、幹部といっても中堅クラスの人のものが多かった。それがこの十年の間に、徐々に上級幹部も組織内の情報を漏らすようになり、特にここ二、三年は池田大作さんの側近幹部の人にまで広がっている。
今回の宗門との抗争を通じて、ワンマン池田大作さんの暴走をチェックしなければ、と危機感が強まったのか、さらに情報の確度が正確になってきた。見方を変えると、創価学会・公明党自身がどんどん伸びているときには、内部の矛盾は、成長の中に吸収されてしまうのか、あまり表に現われてこない。
ところがいったん伸びがストップすると、役職員その他のサービスも奮発できなくなってくる。まして学会と党を通じて主要ポストの人事権はすべて、池田大作さんに握られて、いったんにらまれでもしたら、もうどうにもならない。必然的にゴマスリ幹部がふえたりして、組織がよどみ、濁り、腐敗してくる。あるいは、自分では委員長や書記長をやってみたいと、秘かに野心を燃やしていても、名乗りをあげる自由もない、という不自然さがある。そこで憤懣が外部に向かって噴き出してきているのかもしれません。
藤原 それにしても竹入委員長の時代は長すぎるよ。本当に替わるべき人材がいないのかどうか、その点も疑問だが、しかし竹入クラスの人材で替わりがいないのでは、政党としての資格はないね。竹入にしろ矢野にしろ、自民党に持ってくれば政務次官クラスで、いくらでもいるもの。ただ、公明党というのは、面白くない人間ばかりが揃っているのも事実だね。魅力のある個人的パーソナリティがないよ。もっとも、魅力のある人間が出てきたんでは、池田大作の影がうすれてくるから、それこそ出る杭は打たれないように、一生懸命個性を隠しているのかも知れないが、じつにつまらん人間集団としかいいようがないよ。
内藤君は、その点辛抱強く、じつによく付き合っていると感心しているくらいだ。(笑い)
内藤 “悪口雑言”が看板になっている弘達さんはそういう言い方もできるけれど、ぼくらはどことでも、だれとでもおつきあいをするジャーナリストですから、そんなひどい悪口を言っていたら、彼らから取材できなくなってしまう。ただ、彼らにもいいところがあるのですよ。
藤原さんやぼくの本の妨害に走りまわっていた急先鋒の人たちが、その後、どんどん変わってきて、創価学会という組織を冷静にみるようになったことです。本人から「あのころは本当につまらんことをした」と、反省の弁や問題提起への感謝の弁をはっきりしゃべってくれるし、かなり露骨に池田大作さんの批判も口にする。うれしいじやないですか。
彼らは、そもそもの出発は日蓮正宗の信者であると同時に創価学会員である、といった宗教人としてスタートしている。宗教集団の中では信ずるか、信じないか、絶対的な価値観が重んじられる。批判的な目を持つより、組織に対し自分自身をアイデンティファイさせていった。
それが政治の世界に飛び込むことによつて、自分自身をだんだん相対化せざるをえなくなってきた。客観的、相対的にモノゴトを見る習慣、冷静な目が養われてきている。そうすると自然に、自分の所属する組織である創価学会・公明党をも、客観的かつ冷静に見られるようになった。彼らにとって祝福すべき変化といえます。それだけ進歩したことになるんだ。
藤原 あのとき、矢面に立ったやつなんだが、公明党を出て無所属で議員の道を歩もうかと考えているんだと、ぼくのところに相談にきたのがいる。「どうしてか」と聞いたら、「先生のいったほうが当たっている」というんだ。
日蓮の本質は現証教なんだ。現実に証明されるということが、日蓮宗の魅力でもあるんだ。
彼らが本当に日蓮宗に忠実であるならば、当然、池田大作のいうことのほうが当たっていないということになると、もうそれだけで尊敬できなくなってくるというんだ。
内藤 結局、池田大作さんは絶対に間違えることがないんだ、といったカリスマ的無謬性をいつまでも強調ばかりしていると、順調に伸びている時にはいいですけど、成長が止まった時には、疑問や不満、不信、反発を生むことにもなる。今までの絶対性のイメージが強すぎただけに、うっかりいいわけができないのかもしれないが、信じていた人たちは逆に百八十度の逆転で、絶対不信から憎悪にまでなってしまう。
藤原 戦後、これだけ急激に駆け上って、急速に崩れたものもない。池田大作はまれにみる英雄であるとか、偉大な人間であるとかいって持ち上げた、チョウチン持ちの学者や評論家は、どうするつもりなんだ。三十年ぶりの転向でもするつもりか、と言いたいよ。
彼らは、フランス革命の前夜のルイ王朝、あの「朕は国家である」といったせりふをそのままうのみにしたのとまったく同じで、あたかも現代社会において王国ができるようなことをいってきたんだから、とんでもないタイコ持ちだ。民衆を惑わすような大ウソを書いて、現代の魔術信仰をマスコミを通じて大衆にばらまいたことになるんだ。その点は池田大作と同罪だよ。
内藤 学者ではないけど、面白いのは池田ファンである松下幸之助さんが、今後どうするか、興味ありますね。
藤原 ああ、ちょっと似てるけど、松下幸之助というのは学者でも財界人でもなく、商売人だからな。
内藤 池田大作さんが昭和五十三年に中国に行った時にも、たまたま、大阪から飛行機に乗っていくというので、ご老体の松下幸之助さんがわざわざ伊丹飛行場まで見送りに行っているほどの親しい仲なのです。
それで、その後、松下さんにインタビューした時に池田大作さんのどこを、あなたはそんなに高く評価されるのですかと聞いたら、あんまりはっきりは答えてくれなかったのですけど、「彼は大した人物ですよ」とほめそやしていました。
それはそれでいいのですが、ぼくが面白いなァと思ったのは、今回の宗門と創価学会の騒ぎの余波で池田大作さんの学会の内部の集まりでの発言がいろいろと暴露されたりしたでしょう。その中に「松下幸之助は」と呼び捨てにして、「あのバ力が」みたいな調子で松下さんに触れている部分がある。面従腹背の典型です。まさに池田大作さんにふさわしいというか、当然至極というか。彼がそういった何重人格もの人間であることをぼくらは知ってるから、そう驚かないですけど、もしもあの発言を松下幸之助さんが知ったら、さァ、大作さんをどう見直すか楽しみだなぁ。(笑い)
藤原 そりや面白い、楽しみだ。松下幸之助という商売人が、どんな対応をするのか注目したい。もっとも、松下だって、日本の財界や産業界の評論家は、池田大作とは違った意味で神話というか、無謬説を作っていたんだから、似た者同士ということもいえるんだ。
----------(次回に、つづく)---------151