〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉 1979/昭和54
創価学会に未来はあるか 藤原弘達/内藤国夫 曰新報道出版
------(P.109)---(以下、本文)-------
◆ 抗争の火は再び燃えあがる
内藤 今回の抗争の一因に、「過去・現在・未来」の三世を見通し、決っして誤まることのない、日蓮大聖人の生まれ変わりのような、と演出されていた池田大作さんが、初めは演技であったものが、創価学会に力がついてくるにしたがい、演技にとどまらず、学会の「権力」で宗門の「権威」を自由にしていこうと思い込んだ過信も関係していると思う。それだけに今回の池田大作さんの突然の勇退についても、学会批判派の僧侶の中には、「しばらく様子を見る。しかし、期待や幻想を我々は持たない。何も知らずにダマされている一般の学会員が気の毒だから、創価学会の教義逸脱を放置するわけにはいかない。しばらく見守ったうえで、どうせ創価学会の体質は改まらないのだろうから、我々が直接、一般の学会員に働きかけて、学会からの脱退、寺院の檀徒化、再登録を進めるほかない」と実に冷ややかに事態を見てるくらいです。
だから、水面上では波を立てずに、おだやかに見えても、水面下の見えないところでは、非常に陰湿で、激しい信者争奪戦が続くと思うんです。
藤原 日本の風土を見て、イザヤ・ベンダサンは「日本教」と言っている。休息日を作り、いろいろなタブーを自分で作って、戒律を設けて、といったユダヤ教的な目から見ると、日本の宗教というのは、宗教であって宗教でないところがある。だから日蓮正宗にしろ創価学会にしろ、その下部にいった場合、ユダヤ教やキリスト教といったもののように、精神の拘束性が強くない。
特に創価学会の場合、現証主義がキメ手になっている。現証というのは、現世で、今すぐではなくても、半年後、一年後に具体的な利益、はっきりした利益が返ってくることなんだ。それがないと、簡単に学会員というのは辞めていってしまう。
内藤 学会批判の僧侶にとっては、日蓮正宗を信奉する者は、ひたすら開祖・日蓮大聖人と、その血脈を引く代々の法主・上人、および各寺院の僧侶を通して信仰を深めればよいのであって、そのほかに、別の組織や信仰対象があってはならない、とする。そういった観点から見ると、今や創価学会の存在そのものが「悪」である、とまで主張しているわけです。
だから学会批判派の僧侶たちは、創価学会員に対しては、学会を離れて、各寺院の檀家になるように、これからも強力に働きかけていくほかはない。
藤原 創価学会の会員を辞めて、寺院の檀徒になるというのは、学会という集団のなかで酔っていたものが、さめた状態になるわけだよ。ところか、さめてみると、今の日本の社会はやはりつまらない。たとえ安酒にしろ、酔っ払っていた時代がなつかしい。
内藤 学会を辞めてはみたものの、これからどうすればいいのかわからない、といった悩みはたしかに多いようです。
藤原 というのも、集団の中に埋没しておれば、自分という個性、個人よりも集団の一員、組織の一人といった事実の方が優先するんだ。ところが集団を離れて一人になると、自己、個人としての自分のアイデンティティを確認しなくちやならない。だから、淋しくなるのは当然というか、一つの必然的なプロセスなんだ。その淋しさの中から、彼らの本当の宗教といったものを求めるための再出発があるんだ。
内藤 一人で信仰を深めることについては、坊さんたちがこういう言い方で指導しています。
「誰もあなたと一緒に死んではくれませんよ。死んでいくときは、あなた一人だけです。それをよく考えて、人に頼らぬ信仰を」と。
そうはいっても、創価学会という組織の中で酔っておられた時代のくせがなかなか抜けない。“偉大な指導者”に導かれて、集団で信仰していこう、集団で伸間を広めていこうとしゃにむにやってきたのですから。
その集団から離れて一人になってみると、ちょうど動物が群から離れて、はぐれてアウトローになっていく、そんな淋しさをひしひしと感じているようです。
藤原 もともと創価学会に入ったというのには、ゴーイング・マイ・ウェイのできないタイプが多い。だから集団内部では異常な連帯感みたいなものがある。アメリカのカリフォルニアであった集団自殺の新興宗教ね、あの「ピープルズ・テンプル」と同じなんだ。
だから、ある非常に異様な状況になってくると、異様な行動に走る人間が出てくるんじゃないかと見ている。現在はまだいい、高度経済成長の余恵が日本社会全体にある、創価学会にも余裕がある。しかしこれから先、石油事情は厳しくなる、経済成長は低迷する、そうすると底辺の方にイライラがたまってくる。そうした時に、異様な行動に走ってしまうことになる。
内藤 創価学会の幹部は構成員をなめきっているのだろうか。一般の会員に対して、学会と宗門との一連の抗争について率直に説明するんじやなく、相変わらず大ウソをついて学会員には真相を知らせていない。それでなんとかなると考えているところに、じつは少しも反省していない創価学会の本質がある。
大牟田失言事件の福島元副会長の例は、ほんの氷山の一角であり、似たような例が無数にある。たとえば「寺に行くのも、学会の会合に出るのも同じことで、寺に行くより、学会の会合に出た方がいい」「〇〇寺は謗法の寺であり、△△寺の僧侶は謗法の坊主である」「寺に参詣しても、なんにもならない。謗法の坊主の話を聞くな」といったような指導内容が、あちこちで宗門や僧侶によつてキヤッチされてしまった。
宗門側としても、こうした創価学会の逸脱ぶりに、これ以上放置はできないと態度を硬化させたわけですが、さすがに、創価学会は大牟田失言の非を悟り、事態が深刻であると判断したのでしょう。「聖教新聞」紙上に“お詫び”の談話を発表もしたのですが、これがあくまでも北条理事長(当時)以下の学会幹部のお詫びと反省であって、最高責任者の池田大作会長は、関係ないんですね。そういう会長免責体制に宗門側としても、創価学会が本心から反省していないんじゃないか、といった疑念を、ぬぐいきれないでいるままに“会長無謬説”を貫き通すため、池田大作会長の突然の辞任ということになった。
この辞任の背景には、創価学会の会員の大多数は、池田大作という人間そのものについてきているのであって、会長とか、理事長とかのボストについているから信頼し、あがめたてまつっているのではない、自分が会長であろうが名誉会長にしりぞこうが、それくらいのことで学会員の信頼がゆらぐものではない、といった自信と計算があった。それならむしろ、形式的に責任をとるような形で会長を勇退し、名誉会長に引き下がつた方が、一般の会員には「どうして宗門やマスコミが会長ばかりをいじめるのか」「会長先生は日蓮大聖人と同じ法難に会っているのだ」といった同情を深め、池田大作氏個人への信頼と尊敬の心情をより強いものにする、といった計算があったと思われる。
創価学会は、あくまでも池田大作氏あっての創価学会であり、これは、ほかの誰にも代理のつとまりようのない「属人的」なものなんですね。それなら、肩書きが会長から名誉会長になっても、なんのマイナスにもならない。むしろ、今回のように宗門とのトラブルなどが生じた場合にも、名誉会長であれば責任をとらなくてもすむだけ、かえってプラスになる。
こうした池田大作さんの捨て身の戦法、いってみれば、“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”といった計算は否定しがたい。学会批判派の僧侶たちは、ますます池田大作さん個人への不信感を強めているのです。
藤原 たしかに、さめた部分もいれば、酔っている部分もあるなかで、その酔った部分、つまり池田大作に会っただけでしびれてしまう、といった部分にとっては、今回の池田大作の退陣は殉職者として映り、より一層感情移入が強くなるだろうな。
内藤 創価学会の幹部の中には、これで池田大作さんのワンマン体制から脱却でき、念願の集団指導体制がとれ、創価学会の体質改善ができる、と大いに期待している人もかなりいますが、創価学会に批判的な宗門や僧侶の反応は、やはり冷たいものがある。
彼らは、先ほどもいったように「しばらく様子を見守る。しかし、期待や幻想を我々は持たない。何も知らずに、ダマされつづけている一般の学会員が気の毒だから、破門などの強硬策もとれないし、かといって創価学会の教義逸脱を放置するわけにもいかない。しばらく見守った上で、とうせ創価学会の体質は改まらないのだろうから、我々が直接、一般の学会員に働きかけて再登録を進めるほかない」と断言してはばからない。
池田大作さんが形式的に会長から名誉会長へと引き下がつたくらいでは、宗門と創価学会との対立、抗争が収まる、とはとうてい考えられません。
◆ 学会、宗門の亀裂は簡単には癒えない
藤原 宗門にとって、これからも創価学会と仲良くやっていって利益になることは、他に何があるのかな。政教分離のおかげで、国立戒壇は引っ込めてしまったし、正本堂は作ってもらった、いろいろな施設や設備も揃えてもらった、金のかかりそうなところは、みんなやってもらったんだ。このうえ何が欲しいというのかね。
内藤 今度新しく法主になった阿部上人の腕の見せどころでしようね。法主ともなれば、阿部氏個人の思惑とは別に、全僧侶、全信従の意向も考えていかなければならない。それに創価学会は表面的には静観していても、裏ではものすごくアタックすると思うんです。新法主ともなれば何かとお金がかかるでしよう、そこにつけ込むといった形でね。
それから個々の僧侶たちにしても、創価学会への依存度というか、関わりかたの密度がいろいろと違っている。全面的に依存している寺院の僧侶は学会批判を思うようにできないが、逆に学会批判にふみきった僧侶たちは学会に依存せず、自営できる体制を作り上げる、それによって学会批判の鉾先はますます鋭くなってくる。
いずれにしても、宗門と創価学会との争いはこれからが正念場でしょう。お互いの組織が、内部にさまざまな矛盾を抱えて走り続けることになる。ぼくらが、創価学会の中に組織としての安全弁を作れ、真相を学会員に知らせよ、と主張してきたのも、そうした矛盾を解決して、創価学会が宗教団体本来の姿を取り戻すことを期待したからなんですが、結果として未だに安全弁が組織内に作られていないし、学会員は真相を知らされていない。そのために組織の外にあるぼくらが真相を伝え、安全弁にもなりましょう、と発言しているつもりです。
藤原 日蓮の原点というのは、死んだらそれでおしまいなんだよ。だから彼は身延を去って郷土に帰ろうとしたんだ。そこに彼の原点があるんだ。七百年遠忌というのは、たしかに新法主にとっても、日蓮正宗にとっても、宗教の威勢を示す一大セレモニーではあるんだよ。しかし、そうしたものは日蓮の原点とは関係ないんだ。日蓮はそんなことでは少しも喜びはしないよ。
むしろ、そんなギマン的な行事は止めて、もっとお互いにホンネを出し合い、問題点を徹底的に話し合うことの方が、本当の宗教的な行為だと思うんだ。
----------(次回に、つづく)---------116