創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会に未来はあるか?-30

2019-03-19 09:53:49 | Weblog
 〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉  1979/昭和54
創価学会に未来はあるか     藤原弘達/内藤国夫    曰新報道出版
    ------(P.161)---(以下、本文)-------
Ⅴ とうとうやってきた学会・公明党の限界
◆ 公明党は解体、解消せよ
内藤 創価学会・公明党のタブーが破られてもう十年になりますが、十年前と現在とを較べてみますと、両組織の成長度というか、勢いといったものは衰えてきている。しかし、創価学会・公明党がかかえる基本的な問題点ということになると、少しも変わつてはいないと思うんです。それは何かといいますと、ワンマン・池田大作さんが暴走するのをチェックする組織としての安全弁が、いまだにできていないことなんです。
 ぼくが繰り返して強調する安全弁とは、日本という社会全体にしろ、あるいは創価学会・公明党という組織集団にしろ、なんでも自由に発言できるかどうかなんです。たとえ時の権力、総理総裁であれ、会長、名誉会長であれ、自由に批判し、諫言できるようであれば、トップの暴走をチェックし得る。大切なのは、いつでも権力や権威を相対化し、冷静に見ることだと思うんです。

 この自由な批判、自由な諫言が許されないと、どうしても権力や権威の絶対化が起こり、やがて無謬神話が生まれ、ファシズムや全体主義的な国家・社会につながっていく。“権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する”といわれる権力の腐敗をチェックする安全弁は、その組織内部の言論の自由、諫言の自由しかないんです。敗戦を契機にようやくにして得た戦後日本の民主主義の基本も、この言論の自由です。それを少しでも犯し、弱める恐れのある動きに対しては、われわれはすばやく反応し、警戒の上にも警戒しなければならない、とぼくは考えている。
 そして、今から十年前の創価学会・公明党の内部では、この自由な批判、自由な諫言がなく、外部にもそれを許そうとしなかった。そこで藤原さんとぼくとが結果的に奇妙なタッグマッチを組んで、そのタブーに挑戦したことになるのですけれども、ではこの十年間に、その安全弁が作られたのかというと、残念ながら、創価学会・公明党の内部では、池田大作さんの絶対的な権力は強まるばかりで、相変わらず無謬を装い、組織内部の人々が自由に批判し、発言することも許されていない。

 表向きには、学会の幹部や公明党の幹部に聞いても、池田大作さんは偉い人で批判すべきものがないから批判しないのであって、上からムリヤリ押えられているわけではない、といっているけれど、そういいながら、カゲに回ると相当に手厳しい批判を口にしている人は多いし、とりわけ創価学会を脱会した人に聞いてみると、脱会したからこそ初めて自由にモノがいえるのであって、学会内部では、疑問を質すことさえ許されず、とても池田さんの批判なんてできる状況ではない、と口を揃えていっている。

 こうした創価学会のタテマエとホンネとが食い違っている限りは、ぼくらのような外部観察者の存在理由があるだろうと思っています。創価学会・公明党の幹部たちの中には、どうして創価学会・公明党だけがこんなにマスコミに取り上げられ、いじめられないといけないんだ、とこぼす人もありますが、それは以上のような理由からです。数ある宗教団体の中でも、なぜ創価学会だけが、といえば、これまた藤原さんがすでに指摘されているように、公明党という政治組織を持っているからです。公明党を創設し、公明党が力のある政党に成長したことによって創価学会は、自分たちの信ずる“国立戒壇”初め王仏冥合などの教義を、国民に強制する可能性を手に入れたからだ。だからこそ、その集団や組織は、絶えず相対化され、批判され、監視されなければならないのですが、そのへんが彼等はまだわかってない。

藤原 ぼくはもっと弘達流だから、単刀直入なんだ。公明党は今でも発展的に解消しなさい、今すぐにでも、その方法を考えなさい、その方が日本全体といった視野で考えた場合、日本の議会制民主主義政治の本当の安全弁になるんだ、といいたい。といっても、この解消がヤクザの暴力組織と同じような擬装解消では困る。内藤君のいうタテマエとホンネの違いをここで実行されたら困る。それは、今創価学会が上げているアドバルーンであるところの「平和問題研究所」構想といったような、大石寺から分離独立するための、創価学会池田教を作るための解消では、これは解消とはいえないということなんだ。

 “身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり”という日蓮の精神を、公明党の諸君がどのように受けとめているかということが大切なことではあるが、できることなら、戸田城聖や池田大作というフィルターを通じてではなく、あるいは戸田城聖や池田大作流の解釈によってではなく、直接に日蓮その人から、日蓮正宗というものを学び、反すうし、理解するように努力してもらいたい、そういいたいのだ。
     ----------(次回に、つづく)---------164
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