創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会に未来はあるか?-13

2019-03-02 08:28:32 | Weblog
 〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉  1979/昭和54
創価学会に未来はあるか     藤原弘達/内藤国夫    曰新報道出版
    ------(P.65)---(以下、本文)-------
 
Ⅴ 学会の「宗教度」を診断する
◆ 学会は「ネズミ講と同じ金集め集団」?
内藤 ぼくは今回の創価学会と宗門の争いを見ていてつくづく感じるのは、一面ではたしかにギマン的ではあるけれど、またある面では非常に可哀相だなァ、と感ずるわけです。というのも創価学会の人たちは、本質的に坊さんたちを否定する集団として出発してるんじゃ
ないかと。
藤原 そうすると宗教とは何か、はたして創価学会は宗教団体なのか信者集団なのか、むずかしいところがあるな。ただ一つの歴史的事実として言えるのは、日本の宗教というのは、特に江戸時代にその典型があるんだが、権力に完全にゆ着して生き伸びてきていること。 江戸時代の場合は、当時の徳川幕府の鎖国政策、キリスト教弾庄の手段として、既成の宗教は利用されながら、ただ権力の方針に従っているだけなんだ。

 明治以後にしても、国家神道を形骸化しながらも、結局それぞれの時代の中で一番権力を持っているもの、つまりある時期の軍部にも迎合していってしまう。現代ふうに言えば“主体性”や“自主性”あるいは“独自性”ということになるかも知れないが、日本の既成宗教の場合一貫して、これらのものがないんだな。
 ただひたすら時の権力に迎合し、ゆ着し、その言いなりになってきた。宗教というものは、人間一人一人の心の中に精神の王国とでも言うべきものを作るのが目的とすれば、日本の場合にはまったく逆に、権力に対する精神の奴隸になることに努めてきている。こうした日本の既成宗教の本流から落ちこぼれた者が、それぞれの時代にそれなりの新興宗教として名乗りを上げることになった。
 創価学会の場合には、牧口常三郎という一人の変人が、自分の考え方をコツコツ書いてみた哲学的なるものから出発している点で、日本の今までの新興宗教とは、全然違った始まり方をしている。たまたま二代会長になった戸田城聖という香具師みたいな男が、当時一番小さく、一番貧乏だった日蓮正宗に目をつけて、これとうまく手を結んだのが、今日の隆盛の一番大きな原因になってるんだ。しかも、戦時中は弾圧されたというので、軍国主義や天皇制批判ができる、といった戦後的な好条件にも恵まれたというわけだ。
     
内藤 創価学会の場合、幹部はもとより一般の会員にいたるまで、坊さんたちにあまり多くの期待を持っていない。事実、折伏をし、信者を増やしてきたのは在家のオレたちじやないか、といった意識を共通して持ってるわけですね。その辺が今藤原さんが言われた哲学から入って日蓮正宗にくっついた、むしろ自分たちの哲学を日蓮正宗という衣を借りて広めよう、ということなんだと思うんですが、そこが他の宗教や宗派と根本的に違う。坊さんや宗門に対して絶対的な権威や意識を持っていないところなんでしようね。権威を認めず、尊敬してないから、いつでも平然として坊さんたちをつるし上げたり、血祭りに上げるようなこともできた。ところが今回、破門のおどしをかけられて、宗門に頭を下げ、僧俗和合をうたいあげることで、不本意ながら坊さんを持ち上げざるをえなくなった。きっと腹の中ではコンチクショウとハラ煮えくりかえる伏况だと思うんです。
 ところが宗門側、なかでも学会批判派の僧侶たちには、反対に創価学会は今や宗教団体じゃないんだ、という意識がある。

藤原 要するに寄進団体だ、金さえ集めてくれりゃいいんだというわけか。
内藤 そうまではっきり言わないが、ともかく、「ネズミ講と同じ金集め集団でしかない」ときめつける僧侶もいますね。
藤原 だけど、その坊主たちの実体というものは、そうした創価学会の集めてきた金で、さんざんぜいたく三昧をしてきてるんだ。つまりこの問題には両面がある。創価学会ももちろん悪いが、大石寺の坊主どもも堕落しとるよ。昔から“煮ても焼いても食えない”ものの代表が坊主だったが、とにかくこの坊主ほど、のらりくらりと言い逃れのうまいものはない。そんな坊主どもには創価学会を批判する資格なんかはまあないね。あれだけ立派な建物を建ててもらって、信者はいっぱいくるし、金儲けはどんどんできるしね。大石寺のしたことといえば、ご本尊を貸して模刻させただけ、いってみれば偽造を許しただけのことだろう。けしからんよ。大石寺自身が堕落しとるから、こういうトラブルが絶えないんだよ。
内藤 宗門側としてもタテマエとしては、創価学会を破門して一般の純粋無垢な学会員を困らしてもいけない、みたいな逃げ口上があって、そこに創価学会と宗門とが一種のダマシ合いみたいにして“手打ち式”をする理由がある。本当は、出家と在家両組織の、お互いのタテマエとホンネが一致していれば、ぼくらのような外部観察者が介入する必要はないんだけど、公明党と同様に、言ってることと行なってることが百八十度違ったり、くるくる変わったりしている。もっともぼくの場合、その違いが創価学会の問題に首を突っ込むキッカケになったのですけど。
藤原 宗教というものを寺を中心とする狭い地域に閉じ込めておいて惰眠をむさぼるものか、その目的を広く社会にうち出して社会的パワーとして組織していくのか、といった宗教自身のもつ矛盾が現われているわけだ。鎌倉時代、当時、新興宗教であった日蓮宗が京都で伸びたのも、町人たちに対し現世利益として金儲けをしてもいい、といったはっきりした肯定こそが、キメ手になっていたんだ。それは、ある意味においては、当時の主流派であった親鸞とか法然とかの本願寺系や浄土宗系統、それに禅宗といったものの、即身成仏を祈念するだけの“あの世”思想に対する“この世”思想という革命的な意味を持っていたんだ。

 死んでからの“あの世”よりも、今生きている“この世”を強烈に肯定して、現世の利益を追求していく、それが日蓮の原点でもあるわけで、日蓮の教義からいっても、そうした精神主義と物質主義というものは常に矛盾しているし、必ずその矛盾は社会的には無限に分裂していかざるをえない。
 ぼくは、地下の日蓮さんは案外、今の大石寺も創価学会も、オレの言ってることを少しも理解してない、みんな一種の外道じやないか、と言ってるかも知れない。そんな気がするんだ。
     ----------(次回に、つづく)---------69
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする