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菅原文太さん死去

2014-12-01 20:44:20 | その他
俳優の菅原文太さん死去 「仁義なき戦い」「トラック野郎」 81歳

産経新聞 12月1日(月)14時20分配信

 「仁義なき戦い」シリーズなどのやくざ映画で一世を風靡(ふうび)した俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた)さんが死去したことが1日、分かった。81歳だった。

 昭和8年、仙台市生まれ。早稲田大に入学したが中退後、ファッションモデルとして活躍した。31年、東宝「哀愁の街に霧が降る」の学生役で映画を初体験。33年に「白線秘密地帯」の端役で俳優として、本格的な映画デビューを果たした。

 42年、任侠(にんきょう)やくざ映画の全盛期にあった東映へ移籍し、その第1作が「網走番外地・吹雪の闘争」。その後、「現代やくざ」「関東テキヤ一家」シリーズの主役を務めるなど、“無鉄砲な与太者”という新しいスタイルの魅力をつくり上げた。

 48年の広島やくざ抗争の実態を描いた「仁義なき戦い」では、やくざの広能昌三を演じ、実録タッチの現代劇として大ヒット。東映は“実録路線”としてシリーズ化(全5作)し、翌49年からの「新仁義なき戦い」シリーズも3作続いた。その後も「トラック野郎」シリーズ(全10作)がヒットした。

 60年前後からは「青春の門」(56年)、「映画女優」(62年)などで重厚な脇役として印象深い演技も披露。テレビでは、NHK大河ドラマ「獅子の時代」(55年)などに主演。舞台も「K2」(58、59年)、「スティング」(平成2、3年)などに主演した。

 平成10年に東京から岐阜県清見村(現高山市)へ夫人とともに移住。俳優業だけではなく、農業問題や政治にも関心を示し、全国を飛び回っていた。21年には山梨県で農業を始め、当時、俳優業は「半分、引退した」と話していた。



思えば、仁義なき戦いという映画は、高倉健、鶴田浩二という、「二大任侠スター」を『排除』し、また、やくざ同士の抗争には渡世の仁義など存在しないという、これまでのやくざ映画とは全く内容の異なるものであった。

当時、菅原さんは無名に近い存在だったが、2年間に5作も作られた仁義なき戦いシリーズで一躍有名となり、その流れはトラック野郎にも繋がっていった。

近時は、「脱原発」を中心に掲げる政治活動家としての存在が目立った。

ご冥福をお祈りいたします。


菅原文太さん死去 「仁義なき脱原発?」実は超リベラルだった…

産経新聞 12月1日(月)17時21分配信

転移性肝がんのため28日に死去した俳優の菅原文太さんは、「仁義なき戦い」シリーズなど数多くの映画に出演し、日本の映画界に大きな足跡を残したが、そのアウトローな役柄と違って、思想的には超リベラルだった。生活の党の小沢一郎氏らと親交が深く、安倍政権批判を繰り広げていた。

 菅原氏は、生活の党代表、小沢一郎氏、民主党の松本龍元環境相、元国民新党代表の亀井静香氏らと古くから親交があった。

 被災地に近い仙台市出身ということもあり、平成23年3月の東京電力・福島第1原発事故以後、「脱原発」の姿勢を明確にした。

 24年11月には、夕刊フジのインタビューで、政治団体「いのちの党」の結成を公表。脱原発の立場で講演会活動などを積極的に続けた。24年12月の衆院選を前に嘉田由紀子・前滋賀県知事が小沢氏らと結成した「日本未来の党」の賛同者にも名を連ねた。

 また、この衆院選では、福岡1区で出馬し、落選した民主党の松本龍氏の個人演説会で応援演説。「憲法を変えるとか、国防軍を作るなんて言っている敵の自民党に投票したらダメだよ。松本龍を男にしなきゃいかん」とドスを効かせて「平和」を訴えた。

 今年2月の都知事選でも、「脱原発」を掲げた元首相の細川護煕氏を支持し、浅草や銀座などで街頭演説に立った。「敵の陣営は『仁義なき戦い』だが、あれは俺の専売特許だ。われわれは『仁義ある戦い』をしている」などと「文太節」を披露し、脱原発派の喝采を浴びた。

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