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長髄彦・ナガスネヒコ    その2

2020-11-02 21:26:16 | わかってみたいな、日本古代史

     前回 長髄彦・ナガスネヒコ(2020-10-31)
 
金鵄【きんし 金色の鵄(=鳶 トビ)】 と 八咫烏【ヤタガラス】

「『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。 ただし、『古事記』に金鵄は登場せず、神武東征の際に熊野から大和へ東征軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。金鵄と八咫烏が同一であるか、それとも別の存在であるかはっきりしないが、いずれにしろ日本建国に関わった霊鳥として、吉事や勝利あるいは建国の代名詞として使われ、特に大日本帝国時代には金鵄勲章をはじめ、意匠や名称が多方面で採用された。 ・・・

金鵄 八咫烏
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%87%91%E9%B5%84%20%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F&ei=UTF-8
八咫烏 建角身
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F%20%E5%BB%BA%E8%A7%92%E8%BA%AB&ei=UTF-8


❝❝この二者がおおきく違う点は、八咫烏=建角身が、大和はいうまでもなく他地域でも、祭神としてひろく祀られており、神社の社名ともなっているのに対し、金鵄を社名としたり・祭神であったりする神社は、この列島に一社も存在しない・・・この八咫烏と金鵄の遇され方の違いの原因について、わたしはこう考えるにいたっている‐‐‐

共に人間であるが、八咫烏はその出自が、神武への功績顕者だったカモ族の建角見である。大和では葛城地方に本拠をもち、吉野・熊野の山中の川の合流地にまでも勢力を展開していた、国つ神・イヅモ系カモ族。その人物(集団の象徴的人物ととってもいい)が、

   <天つ神日向族東征軍>  VS  <大和イヅモ連合> の戦いの段階

では、終始、東征軍の側に立ち、山中の道を先導し、諜報活動もして助けた。そして山背国に進出したカモ族は・・平安時代には
・・都の地主神、賀茂御祖神社(下鴨神社)の御祭神にまでなってしまう。

一方、 金鵄は、昭和15年の聖蹟顕彰で、どうやら鳥見谷(北倭村と富雄村)から発生したように治定された。とすれば、ナガスネの本拠地である。 金鵄は先住<大和イヅモ>の人と考えるほかない。・・金鵄神社が存在しないこと。このことが、金鵄が、ナガスネ側の、正確にいえば‘ナガスネ族 + ニギハヤヒ族 = <大和イヅモ連合>’側の、しかも人間であることを、逆に、暗示している・・

‘金の鵄’とは神武東征軍を迎え戦った‘<大和イヅモ連合>最高級のトベ’だと。金=最高級、トビ=‘トベ’、の暗喩だろうと。<大和イヅモ連合>に参加している幾つもの邑(ムラ)・クニ(小国家)。そこにそれぞれ‘トベ’であるヒメはいただろう。だが、<大和イヅモ連合>全体を統べる中の尾・仲つ姫たる立場のトベか、そのなかの勢力ある邑・クニの能力高いトベか。そのいずれかが、次のa) b) c)のどれかのかたちで停戦にむけての行動をとった‐‐‐

a) 国つ神<大和イヅモ>上層部(ナガスネヒコと、ニギハヤヒ・物部系)の意見の割れによって、物部の立場から、ウマシマジと共にはっきり神武に付いた。

b) <大和イヅモ連合>を代表して、降伏を表明し(しかし、ナガスネヒコはまだそれを是認していなかったが)、クニ人の安泰のため人身御供(ヒメ・ヒコ制のヒメやトベ本来の属性の一つ)として、東征軍の本陣に赴いた。この場合は誅殺されただろう。名草戸畔や丹敷戸畔と同じく。

c) a)をふまえての休戦講和・・大和朝廷の官製国史『日本書紀』がこれを金鵄として扱っているところから逆推すると、功績を多とし・・天つ神・新政権内で擬制ヒメ・ヒコ制に活用・・囲われ巫女・幽閉られ巫女に。神社の祭神として何らかの痕跡・・

金鵄は誰か ・・・

前章の‘名草トベ’‘丹敷トベ’‘新城トベ’は『書紀』の記事の中で、いずれも神武東征軍の侵略と戦い、それぞれの地元で殺される地域首長だった(本書ではトベA群とした)。しかし本第六章でみる‘トベ’たちは、すでに征服王朝となった天つ神の初期大和王権と婚姻関係を結んで、自族の安泰を計る先住地域豪族として現れる。

・・ ❞❞     『日本「国つ神」情念史 3 トベ達の悲歌』津名道代 文理閣・京都 2018 p645~652, 770 から 抜粋 

トベ達の悲歌 "津名"
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%88%E3%83%99%E9%81%94%E3%81%AE%E6%82%B2%E6%AD%8C%20%22%E6%B4%A5%E5%90%8D%22&ei=UTF-8

「トベ(戸畔、戸弁、戸辨、戸辺、戸邊、戸邉、刀俾、戸部、富部、砥部、土部)は、ヤマト王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある。

名草戸畔(なぐさとべ )は、日本書紀や和歌山市の伝承に登場する、神武東征と戦った人物である。伝承によると女性。 名草戸畔は日本書紀での名で、地元では名草姫(なぐさひめ)とも。
」  

戸畔
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%22%E6%88%B8%E7%95%94%22&ei=UTF-8

古代の日本、女王邑の集合??


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