より一層の知識と光を求めて・・・・

時に末日聖徒/モルモン教への私見含むメモ帳にて御座候 ほな毎度どんもにて 御きげんよろしゅうで御座候

長髄彦・ナガスネヒコ    その3

2020-11-03 22:48:12 | わかってみたいな、日本古代史

(2020-11-05)      「本社である大宮の氷川神社は、富士山と筑波山を結ぶ線と浅間山からの冬至の日の出線との交点に位置していることで有名である。氷川本社、中川神社、氷川女体神社は後述するとおり、この線上にほぼ等間隔でのっていることがわかる ・・・

全国の氷川神社分布

関東地方に集中しているほか、福井県にも数多く分布。
出雲国の簸川の川上にあった杵築大社を勧請して、その川の名前に因んで付けられたとされているが、その簸川沿いには氷川神社はなく、松江市内に二社あるのみ。
北海道のものは、明治になってからであろう。長崎県に一社、造船所に関係があるのであろうか。奄美大島に一社。福島県の会津にある氷川神社は大宮氷川神社の真北に位置する。そのほか、氷川丸、戦艦武蔵に分祀されている

https://sites.google.com/site/hikawajinnja1/takaohikawa/hikawajinnja-nobunnpu
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氷川神社は、もとはアラハバキ神社だった。

❝❝ 渡島(北海道)から筑紫(九州)に至る荒覇吐神の呼称こそ、当て字をもって称されているので雑多であるが、古代からアラハバキという言葉が、そのままいられているところも多い。古代から続いている信仰の厚いものであれば、いまだに恐れず信仰されている。これを朝廷も幕府も取り壊すことがない。

 豊後の大元神社、出雲の出雲大社、近畿の三輪山神社、比叡山山王社末社の蝦夷神社、邪靡堆(やまたい)の大三輪神社、紀州の荒脛巾神社、坂東の荒羽々気神社、陸奥の多賀城跡のあらはばき神社、渡島の荒吐神社、六十余州に七百六十八社ある。これを門客大明神として、信仰を許したのは、反乱蜂起を抑える手段という。 ❞❞

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しかし、もともとはこの大宮氷川神社は、荒脛巾(荒覇吐)神社であった可能性が強い。江戸時代の寛政2(1790)年に描かれた「武蔵国一宮氷川神社宮中絵図面」では、本殿が中央にあり、その後ろに男体社、女体社、荒脛巾社が並んでいた。武蔵国の氷川神社はもともと荒脛巾神社であったのである。

 このほかにも荒脛巾神社の図が物部系「西角井文書」などに幾つも見られる。西角井家は、江戸時代より武蔵一宮氷川神社の神主職を世襲した古い由緒をもつ家柄である。『東日流六郡誌大要』[東日流六郡誌大要張]にも「氷川宮荒羽吐神」の図が掲載されている。現在では、本殿が中央にあり、その前の向かって右脇に門客人(かどまろうど)神社と御獄神社が並んでいる。荒脛巾神社が、この門客人神社にすり代えられたのである。もともとは荒脛巾神社が祀られていたところに、出雲から三柱の神が進出、荒脛巾神社が文字どおり主客転倒し、脇に追いやられてしまったのであろう。

氷川神社と荒覇吐神社の謎 「真実の日本史 真実の世界史 ・・・2019-01-19  久慈力 ブログ

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東日流 氷川
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