より一層の知識と光を求めて・・・・

時に末日聖徒/モルモン教への私見含むメモ帳にて御座候 ほな毎度どんもにて 御きげんよろしゅうで御座候

下毛野(下野)の 那須一族

2018-07-23 15:24:59 | 先祖、系図、臨死、あの世、神殿

たまWEBの父方祖父は栃木県北部出身(明治後半生まれ、四男 上京して明治の法律学校に在籍とか 今のJR・国鉄に就職 宮城県仙台市の鉄道官舎住まい 縁あって仙台市出身の祖母と結婚 四男三女もうける)で、苗字(名字・姓)は、『日本の苗字 ベスト10000』(別冊歴史読本64号 新人物往来社 2001)で見ますと、8000番台後半、

(ちなみに多いほう順から、トップ40~は 佐藤(推定1,914,300人) 鈴木(1,692,300) 高橋(1,406,000) 田中(1,322,4200) 渡辺(1,090,400) 伊藤 山本 中村 小林 加藤 吉田 山田 佐々木 山口 松本 斎藤 井上 木村 林 清水 山崎 池田 阿部 橋本 山下 森 石川 中島 前田 小川 藤田 岡田 後藤 長谷川 村上 石井 近藤 坂本 遠藤 青木 藤井 西村 ・・・)

推定人口900となってますが、20年くらい前、たまWEBなりに電話帳で見た限り(もち、全部チェックしたわけではありませんが)、100未満じゃないのかぁぁとの推測でしたかぁぁ・・・

県北部地域からの五万分の一地図にはその稀な名の地名が見え、また同名を冠する小学校もありました(祖父の父は小学校校長をしていたとの)かぁぁ。

家系情報としては、系譜や過去帳とかって伝わったものは存在しなくて、言い伝えや墓石や謄本(除籍)で知れる限りなわけです。祖父より先は、その北部の町村に代々住んでいてとなり、明治初期での身分は平民、士農工商で農、その祖父の父方祖父は近隣の他家(別姓)より養子縁組(もしくは養子)で継いでと御座ってて、まぁ、その8000番台というけっこう稀な苗字の家系にDNA的にはどうなのかなって、つながってはいない可能性は十分なわけですが、それから先はどうだったかも不明で、ここはひとつ繋がってるかもとの話で続行です。

んで、栃木県史 史料編(中世 四)なるものに、その稀な苗字と同じくする武士の身分の系図が収められてるので御座んした。

おそらく十中八九、稀な名字からしても、土着する以前は武士の身分でその系譜につながっていたであろう同族であったのでしょう。その幕末くらいに入った近隣の他家というのは、江戸時代は旗本に仕える武士の身分で、兵学だったかを学びに江戸?九州?に出向した人物もおったという話も。その子孫宅にも、昔、系図探求で訪問致しました記憶も御座候。

んで以って、史料編の系図によりますと先祖は那須一族につながっていきまして(あの扇の的の那須与一の代)、那須の元々は一説では那須国司の出ともなるわけです。

「・・・一方、『那須国造碑』は那須直氏を“広氏”の子孫・・・直氏は下毛野、上毛野氏と同じ豊城入彦命の末裔・・・」  『仏教東遷と下毛野氏』 (福田三男 文星芸大出版 2016)

ということは、卑弥呼につながるって?!?!

豊城入彦命・・・崇神天皇 ==>> 卑弥呼

f:id:kl117cr233:20151023035944p:plain

 http://tacchan.hatenablog.com/entry/2015/10/23/042628

たっちゃん 崇神  https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%20%20%E5%B4%87%E7%A5%9E

 

「しかし、彼らは(「韋提」の息子達)は自分の父親の韋業を顕彰するためにせっかく建てた「碑」とその「碑文」を残したかったのではないかと思えます。彼らは「碑文」を疵付けるには忍びなかったので、碑文を「下」にして「倒して」対応したのではないかと思われるのです。」

https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/6db8ec84d0d427f31e73c360ea6aa6ca

http://kamosikamiti.air-nifty.com/blog/2007/12/post_2541.html

那須 国司 国造  https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%82%A3%E9%A0%88%20%E5%9B%BD%E5%8F%B8%20%E5%9B%BD%E9%80%A0


最新の画像もっと見る

コメントを投稿