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アダム・オンダイ・アーマン / 御子の臨在を受けるアダムの意

2017-06-09 11:22:11 | 福音と教会

聖徒にとって、主にまみえるということが、どのくらいすごいことなのかとなりますれば、今日、日曜学校読書課程での『教義と聖約』からみつけたんですが、

「・・・・今わたしを見て、わたしがいることを知っているように、あなたがたはわたしのもとに来て、生きて、あなたがたの贖いは完成されるからである。・・・・」 (45:46)

これっさぁぁ、聖徒にとり、この地上での生涯において、贖い主から受けていく贖いの効力(贖いを通じての祝福、或いは単に、贖いの力)には、最終的には、(かつ理想的には)主にまみえることで、完成形に至るという究極の段階があるんだと理解できるんではと。この段階では、もはや堕落した状態から、完全に贖われた状態、主の御前に引き戻された状態にすっかり移り変わることとなり、とりもなおさず、アダム、モーセ、ペテロ(第2ペテロ1:10)、ジョセフらが、それぞれの神権時代にあって、主の群れ・教会員たちに、望み、教えたところの第二の慰め主の教義、すなわち、主の御顔を拝し臨在を受けることの意義・同義であったんだったと。

教会幹部たちが、主にまみえているのかどうか、それはわかりませんが(その究極的、完成形としての贖いの段階を既に経過した人たちなのかどうかは不明) ---(そういった個人的経験を説教で開示するとかはほぼ皆無。或いは経験としてあったとしても公に言うのはふさわしいことではないと言われてるのかもしれない。そのような贖いの段階とかは関係なく独立して?、教会方針としては)---  教会方針としては第2の油注ぎ(第2のエンダウメント)重視で、一般会員のうち忠実で(この‘忠実’には幹部に従順の意味合いもあるんでしょうかね)選ばれしものたちを、幹部を通じて永遠のいのちに結び固めるという神殿儀式の形をとるという方式で、教会の秩序を維持するみたいなそんな感じになるのかな。・・・・神殿儀式というわけだから、まだ象徴としての意味合いがあるんかな。

主が御姿を現されるとなると、主ご自身の意思に沿ってのこととなりましょう。幹部を通じてとなれば、主の御旨を受けてのことであるという信仰が必要となるのでしょうが、もはや見る・まみえるとなると、信仰の段階は終わってるみたいな、永遠のいのちへの約束を主ご自身の口からいただいているみたいな(きたるべき長子の教会の教会員)・・・・

   (2017-06-11)

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この

“予言者ジョセフ・スミスは、アダムが子孫を祝福したのは、「彼らを神のみもとに連れ戻すことを願った」ためであると述べています。(ジョセフ・フィールディング・スミス編『予言者ジョセフ・スミスの教え』p159)”

引用ですが、

出典は、次の、ベンソン管長(1899 - 1994  85管長)の説教となります。

 「聖徒の道 1986年4月号 p4,5 “神殿について子供たちに教える(ローガン神殿建設百年記念祭における説教)”」

で、『歴代 ベンソン管長の教え』(2014)の13章‘主の宮からもたらされる貴重な祝福’では、その説教から部分引用されてますが、その‘ジョセフが~~述べています’のところはしっかり抜かしているわけです。

https://www.lds.org/manual/teachings-of-presidents-of-the-church-ezra-taft-benson/chapter-13-priceless-blessings-of-the-house-of-the-lord?lang=jpn

歴代管長の教えシリーズ編纂してる人たちは注意深く、不必要とみなしたのでしょう。

 

第2の油注ぎ(第2のエンダウメントとも)を強調しすぎか、主と一般教会員との間に立つ権威ある仲介者としての幹部たちという教えなのでしょうか、主との直接の訪れを受ける、臨在、心の清い人は主を見るといった教えは避けている?みたいな・・・

第2の油注については、こちら

  “第二の慰め主”  その3  

 =2014-12-24

  (2017-06-10)

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 アダム・オンダイ・・・・    https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E2%80%9D%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E2%80%9D

 

ジョセフが受けた啓示で、アダム・オンダイ・アーマンには地理上の意味のほかに・・・・

https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=adam%20ondi%20ahman%20%22presence%20of%22

 日本語モルモン・ウィキはとっくに削除でしたかぁぁ、英語のだと御子の御前にいるアダムという意味があるみたいな解説がありますかぁぁ。

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アダム・オンダイ・アーマンなんですが、 (たまWEB)
2017-06-09 10:39:48
地理上の意味の他に、より重要と思えるのは、御子イエス(これはアーマンですよね)の臨在を受ける(の御前にいる)アダム、御子の臨在を我々に受けさせてくれた誉むべきアダムといった意味もあるんでしょうね。

”予言者ジョセフ・スミスは、アダムが子孫を祝福したのは、「彼らを神のみもとに連れ戻すことを願った」ためであると述べています。(ジョセフ・フィールディング・スミス編『予言者ジョセフ・スミスの教え』p159)”

「53 アダムは死ぬ3年前に、すべて大祭司であったセツ、エノス、カイナン、マハラレル、ヤレド、エノク、およびメトセラを、義にかなった子孫の残りとともにアダム・オンダイ・アーマンの谷に呼び集め、そこで彼らに最後の祝福を授けた。
54 すると、主が彼らに現れた。彼らは立ち上がってアダムをほめたたえ、彼をミカエル、君、天使長と呼んだ。
55 また、主はアダムに慰めを与え、そして言った。「わたしはあなたを立てて首長とした。多くの民族があなたから出るであろう。そして、あなたはとこしえに彼らを治める君である。」
56 そこで、アダムは会衆の中に立ち上がった。彼は老齢で腰が曲がっていたにもかかわらず、聖霊に満たされ、最後の世代に至るまでその子孫に起こることを預言した。」(dc107)

この”みもと”は英語でpresence で、御前とか臨在とかって教義と聖約に。

「23 さて、このことを、モーセは荒れ野の中でイスラエルの子らに分かりやすく教え、その民が神の顔を見ることができるように、彼らを聖めようと熱心に努めた。
24 しかし、彼らは心をかたくなにし、神の臨在に堪えることができなかった。そのため、主の怒りは彼らに向かって燃え、主は激しく怒って、彼らは荒れ野にいる間神の安息に入れないと誓った。この安息とは、主の完全な栄光のことである。
25 それゆえ、主は彼らの中からモーセを取り去り、また聖なる神権も取り去った。 」(84)

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"There he bestowed upon them his last blessing. In describing a vision he had of this sacred occasion, the Prophet Joseph Smith said: "I saw Adam in the valley of Adam-ondi-Ahman. He called together his children and blessed them with a patriarchal blessing. The Lord appeared in their midst, and he [Adam]blessed them all, and foretold what should befall them to the latest generation. This is why Adam blessed his posterity; he wanted to bring them into the presence of God."7

7Teachings of the Prophet Joseph Smith, pp. 158-59; see also D&C 107:53-57.

" https://www.thechurchnews.com/archives/1994-01-01/adams-role-goes-beyond-first-man-140965


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