2022年(令和4年)3月17日(木)
犬は外出する時、玄関に設置されている鏡をじっと見る。このところ毎回である。身だしなみを整えるにはちょっと時間がかかりすぎではないか。鏡をのぞかないではいられない年代というものがある。反射する物なら何でも構わない。人にもよるだろうが、かなり後年までその習慣が続くが、もう自分の容姿を気にするのが馬鹿らしく、退屈に思えてしようがない時が来る。
我がワンちゃんはもうかなり高齢となっている。容姿を気にしているのだろうか。そもそも犬が自分の容姿を気にするものだろうか。
鏡の中の自分の姿をじっと見つめる犬を見ていると、或いは昔の家族のことを思い出しているのではないかと思うようになった。
親や兄弟と一緒に過ごした僅かの時間の事を思い出している。こういう顔をした仲間がかつていた。その記憶が復活しているのだろう。今では犬は自分を犬と思っていないようで人の仲間と信じているようなのだが、それが揺らぎ始めているのではないか。
人は亡くなる時に自分の一生を脳内で振り返るといわれている。そんなことがあるのかどうか。亡くなる人の脳の働きをどうやって調べるというのだ。が、妙に納得する考えだ。自分もそうなりたいと思っているからだろう。希望することを信じる人の性である。
ワンちゃんもそうなるというのか、ワンちゃんが亡くなる時期に至っているというのか。いつかは来るが今ではないと忌避するのが人の常である。そういう辞世の詩もある。それにしても犬の腰のくびれはいつの間にかこんなにも大きくなった。
なんだかまた暴走気味になってきたので冷静になるために行を変えた。行替えで冷静さを確保できるのか。おっと危ない。脇道の脇道に入ろうとしている。
また、行替えだ。安くて簡単だからだ。これを理由に長く生きているものは無限にある。
再び行替え。
再々、行替え。
長々と考えてきたが、考えを止めるに行替えより疲れほど効果的なものはない。回復までお休み。
水飲み皿を見てみると結構水が汚れている。上に浮かんでいる泡は犬の唾液だろう。底に沈んでいるのは道ばたで咥えた黒い糞のかけらだろう。白い物もある。これは私が与えている歯汚れを取るガムの破片だろう。犬はすすぎのために水を使っているのだ。水を飲む時に結果的にそうなったのかもしれない。水入れの皿の底を洗って新しい水を入れて近寄ってきた犬に飲ませる。
犬の世話を仕事としている人に言われた。歯がきれいですね。自分が歯が悪いので犬の歯には気を配ってきた。虫歯にでもなってもらっては治療に付き合わねばならず厄介だなと思いもあった。
通い始めた動物病院の獣医に言われた。歯が小さいね。残念そうだったので大きいのが価値あると初めて知った。口に収まっていれば大小は問題ないではないかと思ったのでよく覚えている。要するに見た目だろう。
夕方の散歩は小倉から来た親戚がリードを持ってくれた。
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