「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「早いお別れ」

2018年01月07日 | スポーツ・観戦

                                    
                  故 星野仙一氏

プロ野球ファンのみならず、およそ闘いに挑む勝負師たちの、心の奥に刻まれている星野仙一という一人の男。
そのファイティングスピリッツは、勝者に笑顔をもたらした。敗者には、捲土重来を期して流す涙を、肥しに替えさせる魔力にも似た、人間操縦術を持っていた。まさに「勝負師」として尊敬する一人のプロ野球人であった。

広島東洋カープファンの立場では、世界を相手に戦う侍ジャパンの監督である時だけ、注目する身内であった。
それ以外は、全て好敵手であり、対戦相手の雄としてその強さを認めて来た。敵ながら天晴れ!と感じたことも数知れない。中日の監督だったある日、中日対巨人戦で審判のジャッジに猛烈な抗議をした。巨人ベンチから飛んだ「もうあきらめろ!」の声が彼の耳に入るや否や、巨人ベンチの前に突進「今言ったやつは出てこい、許さん!!」。まるでけんか腰。執拗に王監督に抗議した光景は、今もこの目に焼き付いている。

当時は、プロ野球は巨人が中心であり、巨人ベンチに怒鳴り込むなどはご法度みたいな雰囲気があった。
そんな中でも、巨人ベンチの前に仁王立ち。「おかしいものはおかしい。誰が相手だろうとなめられてたまるか」という闘志を見せてくれた。そのころから「闘将」と言えば星野仙一となったのを覚えている。

高校野球ではついに甲子園の土を踏めなかった。そういう意味では決してエリート球児ではないのかもしれない。
でも、一生懸命育ててくれた母親をなんとか楽にせたい一心が、プロ野球を代表する「闘う投手」にのし上げた。
超エリートではないこと。ハングリーであること。そんな人間性が、「燃えるように怒りを発散する部分」と「人の心を動かす優しさ」を兼ね備えた、偉大なる指導者への道を辿ったのだと思っている。

70歳という短い生涯。少し早すぎるお別れであった。惜しい。病は何処からともなく入り込み、蝕む。
偉大なる野球人の逝去を悼み、心からのご冥福をお祈りしたい。   合掌

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「キズナスタジアム岩国」

2018年01月06日 | ニュース・世相

         
               キズナスタジアム岩国

岩国市街地のほぼ中心に陣取る「愛宕スポーツコンプレックス」。
この命名について福田良彦市長によると「『コンプレックス』という言葉に若干の違和感があり、反対意見もかなりあった。が、この場合のコンプレックスとは、『総合的なとか多様性のある』という意味の使い方で、総合的なスポーツ広場としとして活用するため、この名前にした」と直に説明を受けた。

そんな愛宕スポーツコンプレックスの一角に誕生した「キズナスタジアム岩国」。観客約8000人を収容可能で、高校野球の公式戦もできる仕様となっていて、ナイター設備を備えた野球場である。

そのスタジアムに2月1~3日。広島東洋カープ2軍がミニキャンプを張り、公開練習をするという。
岩国市には由宇町にカープ2軍の本拠地ともいえる由宇球場がある。そこまで足を延ばせば2軍の練習も、公式戦も楽しめるわけであるが、今回は市街地のど真ん中で2軍の練習がみられることに意義がある。
何はおいても覗いてみたい。実は昨年11月4日にオープンした「キズナスタジアム」の中を未だ覗いていない。
この機会に是非是非、スタジアムの施設見学と合わせて足を運ぼう。雨に邪魔されなければいいが。

考えてみれば、この山口県の中でも、高校野球の公式戦仕様の野球場が無いのは岩国市くらいのものだった。
甲子園大会の予選は、お隣の柳井市に行かなければ試合が出来なかったのである。「行政は何をしとるんじゃ」と怒りの声も上がっていた。遅きに失したが、ここにきてようやくその寂しさからは解放された。
とはいうものの、このスタジアムは米軍岩国基地への空母艦載機移転と、愛宕山地区への米軍住宅建設の見返りに岩国市が国に要望した運動施設の一つなのである。防衛省が60億円をかけて建設し米軍に引き渡した。今後は日米の共同使用であって、施設管理権は基地側にあるという。もろ手を挙げて喜べるものではない、という曰くつきではある。

岩国歴史を振り返ってみても、常に基地に依存し、基地とともに栄えて来た事実は厳然とある。
基地の存在については賛否両論それぞれある。ただ一つ、国を守るための米軍基地を容認し、共存しようとすることが絶対悪であるかのような発言にはいささか抵抗を覚える。全国各県に国防という名の米軍基地を持つという提案もありなのかもしれない。これ以上、沖縄と岩国への二極集中は願い下げたい。

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「正月が往く」

2018年01月04日 | 幼馴染の動向

     

お正月帰省の第1陣は、近くに住む娘一家が元旦の夜やって来た。
高2の長男、中3の次男、小2の三男ともに食欲旺盛。食べるは食べるは。特段のおせち料理というわけではないが、それぞれの好みに合わせた料理は完璧なまでに揃っている。「もう今はいい」というほど満腹に。そしてそれぞれにお年玉をむしられた。

夜は遅くまであれやこれやの大賑わい。特に将棋の駒で遊ぶことを覚えた三男のお陰で、みんなが引っ張り込まれて「はさみ将棋」「回し将棋」「山崩し」と。久しぶりに子供時分にもどった遊びの仲間入りをした。

帰省第2陣の倅一家は、3日の夜遅くに帰省。初日はそれらしいことは何もなく、ただ寝るだけ。
明けて今日は、久しぶりのジジとの散歩を喜ぶ希姫。お天気に恵まれた海の公園で、貝殻拾いや何かで3時間近くお付き合い。夕方からがお正月。と言ってもビールを飲めばジンマシンが出る倅。お屠蘇もないまま、こちらもひたすら食べるだけ。

そんなこんなで正月も往ってしまった。
どいつもこいつも、自分のゲーム機を持っている。油断をするとすぐに下を向いて、黙々とのめり込んでいる。
我が家に来たときはゲームご法度。従って将棋の駒でみんなが輪になって遊ぶ賑やかさがある。

羽根つき・たこ揚げ・コマ回し・それにおはじき、と言ったような遊びは遠い遠い過去のこと。
もっとも、ヘタにたこ揚げすれば、切れた糸が電車を停める騒ぎになるご時世。考えモノではある。
それにしても、正月にはみんなが寄って楽しんだ昔の遊びは、今は小学校1年生を対象にした「むかし遊び」という、授業の一環として、我々社会福祉協議会に伝承の依頼がくるようになった。いわゆる骨とう品扱いである。

今さら昔に戻ろうとか、昔はよかった、など回顧録をひもとくつもりはない。
ただ、小学2年生にクリスマスプレゼントの希望を訪ねたら「スリーDSのチップ」という。4800円の代物である。仕方がない。これはこれで買い与えて「いいか、バットの素振りは1日30回」という条件を出すのが精一杯。

そんな意味でも、昭和の正月が懐かしい。結局は遠い昔を偲んでいる。ウ~ンオレも〇〇かな~

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「穏やかな1年を」

2018年01月03日 | ニュース・世相

          
            周防大島東和町、戦艦陸奥慰霊公園

昼間のゆとりをちょっとしたドライブに。
我が家から50数㎞走ったところにある、「戦艦陸奥」の慰霊碑が建つ、周防大島なぎさ公園に足を延ばした。
1943年(昭和18年)6月8日、連合艦隊司令部付として柱島水道(周防大島伊保田沖)警泊中に、謎の大爆発を起こし沈没。総員1471人のうち死者 1121人。生存者わずか350人という大惨事に見舞われた。

1970年(昭和45年)6月に、遺族や生存者らの熱意が実り、27ぶりの引き揚げ作業が再会された。
8年間にも及ぶ作業の末、乗組員の遺骨・遺品・主砲など艦体の75%が引き揚げられた。その艦首の一部や副砲などが、慰霊碑とともにこの地に安置されている。そのすぐ脇には「荒鷲の碑」が建立されている。「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に碇……」と歌われる、海軍飛行予科練習生として、茨木県霞ケ浦で鍛え抜かれた若者が、その若き命を戦艦陸奥とともにしたり、特攻隊員として散った英霊の碑が静かに佇んでいる。

陸奥記念館はこの引き揚げによって回収された物品をはじめ、全国から寄せられた遺品・資料の展示・保存に努め、これにより陸奥と共に逝った乗組員の冥福を祈り、戦争の悲惨さを後世に伝え、恒久に平和を願う一つのシンボルとして祀られている。兎に角戦争とは「愚かしい人類破滅行動」であることを改めて思う。
自ら仕掛ければ、必ずや自らに跳ね返って来る多大な被害・損失を知るべきである。

昨年もずーっとそうであったように、いつ飛んでくるか分からないミサイルの恐怖を感じて来た。避難訓練を繰り返す
日々もあった。それもこれも、近くて遠い寒い国の、無謀とも思える思慮浅い指導者に振り回された結果である。
年が明けても相変わらず強気一辺倒の、威丈高な発言は繰り返されている。が、そんな中でも、ピョンチャン冬季五輪に参加する意欲をのぞかせ、南北の話し合いの糸口を垣間見せているのは、せめてもの慰みである。

ミサイルなど心配のない、静かで明るい一年となることを願うばかりである。

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「初もうで」

2018年01月02日 | 季節の移ろい・出来事

 
   悠雅君とともに初もうで           錦帯橋下河原では、空手道元修館本陣による寒げいこが

絵にかいたような絶好の初もうで日和。風もない穏やかな日差しに誘われて、悠雅君を誘って初もうでに出かけた。
正月二日。この穏やかなお天気の割には、意外に初もうで客が少ない。ちょっと気にかかる。

いつもの通り、自分の中で決めている三社参りのコースをたどる。錦帯橋を挟んで、錦川のあちら側とこちら側に位置する、吉川家代々と縁の深い神社である。
悠雅君などは、産後のお宮参りから七五三など、ずっと成長を見守ってもらっている神社であり、私たちもことあるごとに参拝している氏神様である。

折よく錦帯橋下河原で、派手なパフォーマンスをしている集団が目に入った。
毎年正月二日に行っている、地元の空手道場「元修館」の寒げいこの現場に出くわすというラッキーな偶然。
石ころの河原に立ち、寒風に逆らって上半身裸。気合もろとも川の中ほどへ躍り込む。もちろん女性は上着を付けているが、まさに老若男女こぞって水に浸かる寒げいこ。対岸からではあるがその一部始終を見せてもらった。

寒中の一定期間、武道 などの練習を早朝に行う日本古来の修行法。現在 では早朝に限っていない。寒さから逃避するのではなく、それに積極的に取組み、技術修得よりもむしろ精神力の鍛錬に重きが置かれている。と定義づけられる寒げいこ。例年の行事とはいえ、見ている方が震えるような、精神鍛錬ではある。効果のほどや如何に。

今年もまた、このように色んな偶然に遭遇したり、予定の行動に追われたりしながら、忙しかったりヒマを持てあまりしたりして日々を過ごすことになるのだと思う。
やはり、何かにつけて気持ちが幅広く動くよう「感性」というアンテナは錆びさせないよう、寒げいこもいいが「感げいこ」も忘れないようにしたいものだな~。

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「年の初めの !」

2018年01月01日 | 季節の移ろい・出来事

      
       すぐ近くにある「通津美ケ浦公園」から望むご来光 (2018.1.1 7:30)

新年明けましておめでとうございます。
拙ブログご来訪の皆様に、ご来光の写真とともに

謹んで年の初めのご挨拶を申し上げます。 

皆様にとりまして、佳き1年となるよう心から念じております。

本年もどうぞよろしくお付き合いください。2018年 元旦

きわめて穏やかな新年の幕開けとなりました。
山口県東部の瀬戸内海沿岸部は、風も雪も雨もない、ただ吐く息が白く見える冷たさの中で、静かな元朝を迎えました。

朝7時。布団の温もりに未練を残しながら、いそいそ着替えを済ませ、クルマで5分の通津美ケ浦公園へ。
すでに、親子連れや新婚さんらしきカップルなど20人ばかり集まっていました。
かじかむ指に息を吐きかけ、三脚をせっとしカメラを構える。
水平線を覆う厚い雲が、ご来光の姿をなかなか見させてくれない。待つ、ひたすら待つ。
 

10分20分と待つうちに、雲の上から「初日の出」ご来光の輝きが広がる。
「うわぁきれい!」感嘆の声を共有して、7時45分カメラを納めてご帰還。目標達成。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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